愚慫空論

性善説



いまさらですが、性善説です。

ヒトの本性は善か悪か?

ボクは善の立場に立ちます。
そのように確信しています。
その確信を改めて自分の言葉にしてみたいと思って、この文章を書いてみます。


いつもながら、少し遠くから文章を出発させてみます。

「反知性主義」という言葉が昨年はよく取り上げられたようです。
どうやら、特定の人物を政治的かつ人格的に揶揄する言葉として多用されていたようです。
ボクも少々興味を惹かれて、こんな本を読んでみたりしました。
あ、揶揄に惹かれたんではないです。
それは後から知りました。


反知性主義とは、佐藤氏の定義によるならば、

「実証性や客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲するように世界を理解する態度」

だそうです。
この定義は、妥当であるように思えます。
そして、この定義に従って、人間の性善/性悪を判定するならば、それは性悪だとするのが妥当でしょう。
してみれば、ボクの性善説への確信は、反知性主義だということになります。

でも、ボクはそうは思いません。
性善への確信から出発することこそが知性だと思っています。


揶揄の言葉としての反知性主義とは、要するに“バカ”ということのようですが、
本来の意味は異なります。
反知性主義であるには、知性的であることが必要です。
そうでないと、自分が欲するような理解ができないんです。
「理解を選別する」というのも、それなりに知性的ではあります。

ここではまず、そういう知性の使い方をしてみます。
ボクの確信、つまり、ボクが欲するような世界の理解に都合のよいものを引っ張ってきます。
またしても内田樹さんなんですけど。

内田さんも、反知性主義について、著作をものにしています。



実はボク、この本は未読なんです。
未読なのに都合のよいものを引っ張ってくるなんて、それこそ都合が良すぎると思われるかも知れません。
けど、知性の定義だけを引っ張ってくるなら可能です。
ネット上で紹介されていますから。
それも、相当、批判的に。
内田さんの知性は没落した、と言われるほど。
例えば、こちらの記事とか。

その記事から、内田さんの知性の定義らしきものを孫引きさせていただきますと、

人の言うことをとりあえず黙って聴く。聴いて「得心がいったか」「腑に落ちたか」「気持ちが片付いたか」どうかを自分の内側をみつめて判断する。そのような身体反応を以てさしあたり理非の判断に代えることができる人を私は「知性的な人」だとみなすことにしている。



まさに内田さんなんですが、
これって、「自分が欲するように世界を理解する」のと区別がつきません。
いえ、ボクは付かないと思いません。
ボクは思いませんが、批判的な人たちは、付かないから批判しています。
まあ、つかないものは仕方がありません。

こういうのを読んでいると、かつての「理論派vs共感派」の思い出しますね。
もっとも、こちらはずっと知性的ですが (^_^;)


話が逸れそうなので、本筋に戻します。
繰り返しますが、この内田さんの定義はボクの「確信」には都合がいいんです。
それはなぜかを述べてみるのが、本筋です。


そもそも、“善”とは、なんなのか?
この問いは、知性とはなんなのか、という問いと大いに重なります。

まず知性の方から答えを試みてみますと、
それは、「正しさ」を追及する、ということになるでしょう。
正しくなければ「生き残る」ことができない。

自分の都合の良いように世界を理解する態度は、
たとえ、その振る舞いの一つ一つは知性的であったとしても、
必ずしも自身が生き残ることに寄与しない。
佐藤氏などは、そういったことを実例を上げながら、国家の指導者を批判しています。
これは的を射た批判だと思います。

でも、ボクは納得しないんです。気持ちが片付かない。
どこに?
その前提に、です。
「生き残る」という前提に。

「生き残る」ということは、人間性悪が前提になっているんです。
だから「生き残る」ことが必要になっていく。

何ごとも生きていなければ始まりません。
それはそうです。
けれど、「生き残る」というとき、その背後には恐怖があります。
そして、その恐怖は、同じ人間への恐怖です。

同じ人間に恐怖しなければならない。
だったら、そんな人間は性悪に決まっています。
現在の世界の有様を実証性と客観性を基準に眺めたら、どうしてもそうなってしまいます。

「確信」というのは、それとは違います。
世界の有様がどうであれ、自分が基準です。
徹底的に主観的です。
けれど、独善ではありません。
ボクだけが「善い」と言っているのではないのですから。
みんなが「善い」と言っている。

本当に「善い」かどうかは、実のところ、わかりません。
現実は「善くない」ばかりです。
このボクの周囲でも。
「善い」と決めてかかって接すると、痛い目に遭うのが現実です。
その意味では、佐藤氏は正しい。

けれど、だからといって「悪い」とはしない。
ボクは悪くないから。
確かに「善くない」ことはいっぱいある。
けれど、出来ることなら、「善く」したいと願っています。
現実がそうでないから、かえって「願い」は切実です。

知性の本性は、この「切実さ」のことです。
ボクはそんなふうに思います。

「切実」に客観性はありません。
実証も出来ません。
あくまで主観的です。
そして、この〈切実〉は、人間を「善」としなければ起動しない。
人間を「悪」としてしまうと、それはそれで別の【切実】なものが起動するのですが、
それは、もう、「独善」なんです。
ボクが、ボクの周囲が、ボクの所属する何かが、「生き残る」ことへの【切実】。

【切実】は、それが切実であるほど、【死にものぐるい】に陥ります。
で、それが果たして、「善」か?
ボクは、確信をもって、それは違うと答えたいと思います。

【死にものぐるい】は不幸ですから。
不幸が善であるわけがない。

善とは、幸福であることです。
「正しい」かどうかは、とりあえず関係がない。

二次的には関係があるんですよ。
「正しい」というのは、社会的だから。
そして人間は社会的な生き物だから。

ヒトが生き残るためには、社会的であることが必要です。
ヒトにとって、社会的であることは生存戦略なんです。
これは揺るがない事実でしょう。

そして「正しい」ということは、社会的には必要なことです。
「正しい」に基づいた秩序がないと、社会が成立しないから。
 
実はボクは、「正しい」とは別の基準に基づいた秩序は構築可能だと思っています。
でも、現実は、歴史は、「正しい」以外の方法で秩序付けがなされた文明社会は成立しなかった。
あくまで文明社会ですからね。
だから、とりあえず、社会的であるなら「正しい」は必須と考えておきます。

これは逆にいうなら、人間が社会的でないなら「正しい」ということ自体に意味がないということです。
そして、ここで問うているのは、社会的な人間のことではない。
個としてのヒトです。
ヒトが善か悪かを問うています。

ヒトにとってもっとも重要なことは、その個が幸福であるかどうかでしょう。
してみるなら、個としてのヒトが幸福であるかどうかが、「善」であるか否かということになります。


個としてのヒトは性善であるに決まっています。

なぜ決まっていると言えるのか?
それは、ヒトは、いえヒトに限らず、生き物はもともと健康になるように出来ているからです。
そういう身体を持って生まれてくる。

そして、ヒトにとって、身体と心は同じものです。
身体と心を別のものになったのは、社会がそうしたのです。
社会がなければ、心身を分ける意味がない。
個としてのヒトにとっては、心身は同一です。

ならば、話は簡単です。
身体が健康になるように生まれついているのなら、心もまた幸福になるように出来ているに決まっています。
幸福がヒトにとって善なのですから、ヒトはそもそも性善です。

実にシンプルです。
ボクは、本当のことは実はシンプルなんだと思っています。
問題を難しくするのは、問いの前提を誤るから。
前提の整理が出来さえすれば、問いの答えはみなシンプルですし、
そうでなけば得心がいったり、腑に落ちたり、気持ちが片付いたりはすることはないでしょう。


人間は性善か性悪かの問いは、個としてのヒトを対象に問うのか、社会を構築しなければ生き残ることができない生き物として問うのかで、答えが違ってきます。
現状の社会の有様を元に答えるなら、後者が妥当でしょう。

同じことは知性についても言えます。
知性/反知性の基準のうち、佐藤的なものを採用するのが妥当か内田的なものが善いかは、
これも、どの前提に立つかで違うことになる。

そして、どういった前提に立つかということが、その人間の態度です。
社会に立つか。
個に立つか。

社会に立つなら、必然、「公」は「私」より優先度が高いということになります。
滅私奉公が尊ばれる。
そこを追及することが知性の発露ということになる。
しかし、現状の社会を見る限り、社会の上位にいる人間ほど滅私奉公に遠いといわざるを得ない。
この現状を反知性主義というのは正しい。

一方、個に立つなら、「私」の優先順位が「公」よりも高くなる。
社会はあくまで「私」を幸福にするためのものに過ぎない。
なので、知性はあくまで「私」の幸せを追求するするために発揮されることになる。

ボクはもちろん、後者の立場に立ちます。
その前提としての人間性善説です。
だから、あくまでボクの主観的な確信なんです。

その選択は、反知性的滅私奉公が蔓延る現在社会の状況からしても、妥当だと思っています。
過激ですけどねww


コメント

おはようございます。
精力的に更新されてますねぇ。読むのが楽しみです。
「反知性主義」に関する本は昨年読んだのですが、何故か近辺にその本がなく、読後のメモ書きしてあったFBはIDごと葬ってしまったので、うろ覚えなのですが、佐藤某の定義とは違っていた気がします。
なんとなくうろ覚えでしかないのですが
知性一辺倒の物の見方をせずに身体感覚を研ぎ澄ますべき、、【アタマデッカチ】批判だったような??
で、バッサバッサと斬られたなかに内田さんも入っていて、アキラさんと「その著者は身体性を実感しているのだろうか、疑問?」みたいな対話をした覚えがあります(笑)

ところでワタシは佐藤某を一冊も読んだことがないのに、なんとなく嫌っている。
顔が嫌い、自信満々の態度が嫌い、という以外に、多分、ここで挙げられた本のような帯のセンテンスに非常に違和感を感じている、に違いありません。
だいたい、いきなり「日本を蝕む」って、、、
「反知性」に「主義」っておかしいですよね。
「知性」の超越にしか「反知性」はありえない。ロジックです。(安倍批判ならロジック崩壊している。)
「強靭な知性」とか、「勝ち負け」とか、、、、こいつアホちゃうの?、こいつ「知性」をバカにしとんのか!!、、、という先入観で読む気にならないのだと、自己判断。

で、まあ過去のワタシもそうなのですが、「公」のほうに「私」よりも優先順位が高いとしているような言葉に違和感を持っているのかもしれません。
しかもそれを他者に押し付ける態度、、、これが最近のイラツキ。
ところがです。心底どこまでも、根の根から純粋に「公」のほうが「私」よりも優先順位が高い、としている人はいるのでしょうか? 
どうもネタのような気がしてなりません。
つまり「私」を際立たせるため(それがオノレにとっての幸福)の「社会ネタ」ではないかと、、、、身も蓋もないですね。失礼しました。

「社会的善、社会的悪」と「個的善、個的悪」は違いますね。前者が薄っぺらなものに感じてしまうし、後者は神的な感じで訳わかりません、テヘペロ。

毒多さん、遅レスで申し訳ありません。

内田さんが言うように、「どのような社会的概念も、人間が幸福に、豊かに、安全に生き延びるために考案されたものである」とするならば、「公」は、押しつけるものではありませんよね。内田さんの主張に同意するわけではないでしょうが、我が国の権力も「公」は押しつけるものだというスタンスには立っていないようです。愛国心は“涵養”するものだ、ということになっていますから。一応は、ね。

ですけど、ここはまさに「身体感覚」でしょうけれど、“涵養”などという言葉は腑に落ちません。気持ちが悪い。言葉とは裏腹に「公」は押しつけるものだと感じてしまいます。

心底どこまでも、根の根から純粋に「公」の方が「私」よりも優先順位が高い賭している人は、いません。あくまでボク個人の確信ですけれど。そうでないと「性善説」ということにはなりませんから。

「公」はあくまで「私」の発露である――というようなことは、福沢諭吉あたりも述べていたはずです(ボクはあまり福沢さんを好みませんが、この主張には同意できます)。

ですから、ネタということなのだと思います。
ただ、これは宮台さんが指摘していることですが、ネタがベタになってしまっている。
自己欺瞞、隠蔽です。
人間は、本性は「善」だけれど、自己欺瞞をしてしまう生き物なので、「悪」の振る舞いをしてしまう。これもまた、シンプルな話だと思います。

「ネタがベタになる」という現象は、ある種の感覚の【欠落】から起きるとボクは思っています。
それは“自分を愛している”という〈自愛〉の感覚です。
さらに、「ネタがベタになる」現象が蔓延するのは、その方が社会の中で生き残るためには有利だから。

性善説に立ち戻るなら、〈自愛〉の感覚は誰しもが持っているものです。
ですけれど、それを発露するのが社会的に不利となってしまうなら、封印しようとする。
つまり【隠蔽】であり、【欺瞞】であるわけです。

ただ、中には生来的に【欠落】している個体もいる。
たとえば――、いえ、もう、ここでは控えておきましょう。

毒多さんが感じる「イラツキ」の対象は、おそらくは、この【隠蔽】【欺瞞】に対してでしょう。
そして、それはボクも大いに共感するところです。
ボクにとっても、この「イラツキ」を抑えるのはとても難しい。


社会的善が薄っぺらになったのは、それは身体性の裏付けがなくなったからでしょう。口先だけになってしまった。

「ノブレス・オブリージュ」という言葉がありますね。“高貴さは義務を強制する”という意味だそうです。この義務こそが身体性です。貴族は、戦いに臨む際には、自らの身命を賭すことが強制される。そうでないと「公」が嘘になるからです。そうやって、命がけで嘘をつかないと「公」はホンモノにはならない。

愛国心を涵養すべしとする人たちが、果たして命がけかどうか? 口先は勇ましいことを言うかも知れない。ですけれど、それは本当かどうかは、身体感覚が判別します。


個的な善がわからないというのは、とても真っ当な感覚です。そもそも「わからないもの」だから。複雑すぎて言葉に置き換えられないんです。だから、原理的に“考える”ということができない。言葉に落とし込んで定義しようとすると、その時点で嘘になります。

だから、“感じる”しかない。だから、身体感覚なんだということです。
シンプルでしょう?

“人間は性善です”として【この社会】で生きていくのは本当に厳しい。そう言い切る愚慫さんは、自分に対する態度表明したと言えるでしょう。
言葉では賛同します。
では、ワタシはどうかというと、自分に甘い。はたして“人間は性善です”と言い切ることができるのか?

>社会的善が薄っぺらになったのは、それは身体性の裏付けがなくなったからでしょう。口先だけになってしまった。

ワタシもまたこういう状態かもしれない。正直にいえば「身体性」という感覚が解らなくなっている。その「身体性」というのは、もしかしたらワタシの言葉でいえば「感性が鈍くなっている」ということかもしれない。
その鈍さの原因はやはり【隠蔽】【欺瞞】です。
【ベタ】というのは【隠蔽】【欺瞞】が見えなくなる、というか、発想さえもない状態です。
今のワタシの「感性の鈍さ」から一歩踏み出すのは、オノレの【隠蔽】【欺瞞】を直視することかもしれません。

それを受け止めなければ“人間は性善です”という態度表明はできない、、、、気がするのだけど、いかがでしょう?

「感性の鈍さ」を防止するひとつの方法は「こうした対話」をし続けることかもしれない、と、最近思い始めています。テヘペロ。

・毒多さん

【隠蔽】と【欺瞞】の直視は、身体感覚でしかできないと思います。

アタマでやると、どうしても「正/誤」になります。
けど、何度も言っていますけど、それじゃないんです。

それが何かって、ちょうどアキラさんがそういう記事をあげておられます。
http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/52376912.html

こういうのって、なぜかタイミングが重なるんですよね~(^_^)

「大丈夫♪」でないというのはどういうことなのかは、アタマでも考えることが出来ます。
【怯え】ですよね。
怯えているから正解をすがります。

じゃあ、怯えなければいい! とアタマは応えますけど、
身体は、「そんなこと言ったって、怯えているものはどうしようもないじゃないか」と応える。
でも、アキラさんのところにコメントをしましたけど、大丈夫♪、言い換えれば「安心感」は誰もが識っているはずなんです。

「こうした対話」で可能なのは、「識っているよね?」と確認するか、あるいは、なぜ忘れたのかを問いかけるくらいのこと。結局は、自分で見つけるしかない。それも大人なら、「自分の中」に見つけるしかありません。

これは、見つかると自分で「確信」していなければ見つかりません。なんたって「自分の中」なんですから。「外」で探そうとすると、愛国心~wとかいったたぐいの話になるか、「アラーは偉大です」といったような「帰依」をするしかない。

「帰依」もお薦めではあります。それができるなら、それもいい。
ただ、ボクは無理。そういうのが「自分の中」にないから。

「人間は性善です」という“態度表明”には、確かにある種の覚悟が要ります。
けれど、これはボクにたまたまそういう必然性があるという話でしかありません。

リンクした記事で、アキラさんは「みんな癒氣をすればいいのに」って“お薦め”しているでしょう? ボクだと“態度表明”と重たくなるのに、アキラさんだと“お薦め”と軽やかなんです。(^_^;)
それがボクの「道」であり、アキラさんの「道」なんだろうと思います。
ですから、毒多さんには毒多さんの「道」がある。

他人の「道」は、参考にはなります。
が、あくまで参考です。正解ではない。
自分には自分の「道」があると確信して、「懸命に待つ」しかないと思います。

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