愚慫空論

天命を知る

160103天命



数を数えるのは「0」からか、それとも「1」から始めるべきか?
「0」だとすると、「無」から始めることになる。
「1」だと「有」から始まる。すでに始まっている。
「始まる」は誰かが始動させる。
「始める」は自ずから起動する。

どちらかが正しくて、どちらかを選ばなければならないということはないでしょう。
ケースバイケースというやつでしょう。

こんなことを考えたのは、この正月で、ボクが五十になるからです。
俗にいう“数え”という数え方で。

“数え”の数え方は、誕生日以前なら、一般的な満年齢に2を加える。
誕生日以後なら、1をプラス。
毎年の元旦に1を加える。

現在は満年齢が一般的ですが、年齢というものは「始まる」ものなのだから、“数え”の方がふさわしいのかな、と。


「無」から始まるということも、あるのではないか?
そうかもしれませんが、もし、そうだとすると、それは何なのでしょう?
それが「何か」であるとするなら、すでに「有」であるわけだから。

親が子どもの年齢を数えるのに、満年齢はそれなりに合理的だろうと思います。
けど、自立したはずの大人はいかがなものでしょうか?

〈私〉は誰かによって始められたものではない。
すでにあった〈私〉のなかから、立ち上がってきたもの。
母親の胎内から生まれたものであるのは間違いありません。
けど、親が〈私〉を始めたわけではない。

そんなことを考えると、親が子どもを満年齢で数えるもの考えものかもしれません。
科学的ではある。けれど、どことなく所有感が漂う気がします。
決して、子どもを所有しているつもりで満年齢という言葉を使っているわけではないでしょう。
そういうつもりはなくても、言葉の無意識の次元で仕組まれたものが漂う。

無意識の次元の言葉というものは、強力なものです。


なにはともあれ、否が応でも、五十です。
そして、五十といえば、天命を知る。

それにしても、「天命」とはなんなのでしょうか?

孔子さんの中国には「天」という概念があるようですから、
「天命」は誰かから与えられるものなのでしょう。
けれど、僕は日本人で日本教徒ですから、
何ものかを与える人格的な概念としての「天」と言われてもピンと来ません。

ボクが生まれるより先に「天」はあったことは間違いない。
ボクの誕生に「天」がずっとずっと間接的にですが、関わりがあったことも間違いないでしょう。
とはいえ、自ずからあっただけのことで、何かを命ずるような存在ではない。
「天」は、いろいろなものを包摂するもの。

いろいろあるうちの、そのなかのひとつ。
そのことを自覚する。
そのひとつもまた、「天」というものの中に包摂されているのだ、と。

「いろいろ」を「十」とします。
「十」があって「一」があるということではない。
そうだと「始める」になります。
「天命」は与えられるものになる。

「一」があって「十」です。
絶対的な時系列で言えば、「十」が先、「一」が先です。
そうではなくて、意識に上った順番です。
「一」が始まらないと「十」も知覚されない。
「十」に包摂されているということもわからない。

絶対的な時系列を否定しているわけではありませんよ。
それとは別の順番がある。
矛盾しない。
両方成立するんです。
両方ということが大切なんです。


天が先で〈私〉が後だという絶対的な時系列は、これは与えられるものです。
〈私〉はこの世界に数十億存在します。するはずです。
いずれの〈私〉にとっても、こちらの時系列は当てはまる。
だから「正しいもの」として、均一な、客観的確信をもって与えることができる。

〈私〉が先の順番だって正しいんです。
数十億それぞれの〈私〉にとって正しい。
ただし、こちらはバラバラなんです。
均一の、つまりはひとつの「正しい」があるわけではなくて、
独立した数十億の「正しい」があるだけ。
だから、こちらの「正しい」は主観的な確信でしかありません。

均一バラバラとが、ひとつの人格のなかで矛盾することなく成立する。
こういう状態を“自立”というのだと、僕は思います。
その自覚を指して「天命を知る」という――

そんなことを考えていた年明けでした。


ところで、こんな歌を見つけました。


コメント

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l Start Counting

Pascal Comeladeに“Musiques Pour Films Vol.2”というタイトルのアルバムがあります。

Vol.1は、存在しません。

まあ、一種の韜晦やら抵抗やらの表れなのだと感じます。なぜそのような韜晦じみたものが立ち上がって来るのでしょうね。
烏や鸚鵡などにも定量的な認識能力があるようですが、彼らは人間のように「数える」わけではないようです。

その視点に立つと、数えることは自ずから始まることなのか。
それとも、始めさせられることなのか。
ふと、ビダハンという数の概念を持たない民族がいることを思い出しました。

パスワードを事前にセットしないと訂正出来ないのでしたね

×→ビダハン
○→ピダハン
です。ピダハンについては本も出ており、持ってはいるものの未読です。

数が発明されたのは家畜を数える必要があったから、と聞いた覚えがあります。
必要に迫られて発明を為すのは、自ずからなのかどうかは微妙なところですね。

ピダハンはネットで知りました。
言語学の常識を覆す言葉を操るということで、話題になりました。

http://matome.naver.jp/odai/2140984050340815001?&page=1

こちらのまとめ記事を眺めてみると、ピダハンの人たちはごく当たり前に「全生」を生きているように思えてしまいます。

ミレニアムの時に感じた強烈な違和感。

2000年という1年間が「わからない」というのが僕の2000年問題でした。

10進数の日付けの数え方がいまだにだめ。その日まであと何日?とか言われると指折り数えてしまう。

連続しているはずの数が、そこでいったん途切れる、そのことのわからなさ。

きっと、止まる、ということが理解できないのだと思う。僕は。

だから、正直、死は、憧れです。

わからないので。

そして、この世に執着を持てる人生を歩ませてくれているこの世界が大好きです。僕は。

正念場ですね。ことしも。


そういう「わからない」は宝物ですね。何かの折にふと顔をのぞかせる。いつも違った表情で。そのたび、新しい発見があります。

死は憧れですか?
わからないから?
怖くはないのですか?

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