愚慫空論

『9条』の心

今年締めくくりの文章です。
――って、締めくくるというほど、書いていないんですけどね。(^ ^;
でも、邪悪、邪悪って連呼したようなので締めるのは、ちょっと気が引けて。

『9条』というのは、もちろん日本国憲法の第9条のことです。
僕はかつては護憲派で、自身を左翼と規定して、
あ、護憲派は今でもそうですけど、
左翼はやめにして、
アナーキストで護憲派だと自認しているわけです。

『9条』はあくまで憲法の規定です。
アナーキストというのは、憲法といったようなものによって規定される「体制」を認めないという考え方ですから、矛盾しています。
ですけど、『9条』というものが国家という歴史的虚構と矛盾する。
そのように僕は考えるに至った。
だから、「『9条』の心」を追及するなら、アナーキストにならざるを得ない。

僕にとっては「国家」よりも「僕」のほうが上位だということです。
「『9条』の心」って、そういうものでしょう?


日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。



ご存知、日本国憲法前文です。
左翼護憲派にとっては、“聖典”と言っても過言ではものです。
とても立派。崇高。

この前文に戦争放棄の9条の規定が加わって、『9条』の精神
そう、“精神”です。“心”とはちょっと違う。

僕の言いたい「『9条』の心」ってやつは、そんな立派なものではないんです。

 戦争なんて、嫌だ。
 他所の国の見ず知らずの人を殺す理由なんて、ない。

たったこれだけのことです。
身体がそう言うんです。
そう、“心”は“身体”なんです。

それからすると、「『9条』の精神」は立派すぎる。
立派だけど、身の丈を超えている。
アタマデッカチなんです。
たとえ立派であっても、こんなのに飲み込まれるのは、嫌なんです。


この地球上には残念ながら、見ず知らずの人を殺す理由を抱えている人がいます。
それは、見ず知らずの人から見知っている人を殺されてしまった人々です。

歴史というものが始まって以来、そういう人がいなくなったことはありません。
証拠はありませんが、断言して構わないでしょう。
これは断言できるかは微妙ですが、昨今は、そんな人が加速度的に増えているようです。
それも見ず知らずの人を殺すことができる能力に秀でた国の人々の中に。

バカバカしいことですが、笑ってはいられません。

そういう人が増えたというのは、「能力」の問題です。
それだけではありませんが、能力のファクターが大きい。
なぜなら、大量に人を殺すというのは大変なことなんですから。
人も技術も金も要る。
そういうことが出来るところはどこか?
お金持ちのところに決まっています。

お金持ちが見ず知らずの貧しい人を殺して、
貧しい人たちの中にお金持ちの見ず知らずの人を殺す理由が出来てしまって、
「死にものぐるい」になって、見ず知らずのお金持ちを殺す。
すると、お金持ちの人たちの中に、さらに殺す理由ができてしまう。

これは憎悪の連鎖です。
そうやってどちらも「死にものぐるい」になる。
けど、「死にものぐるい」の度合いはどちらが強いかって、
それは貧しい人たちに決まっているんです。
絶対、決まっている。

だから、「死にものぐるい」競争を続けたら、お金持ちは勝てない。
本当の本当に「死にものぐるい」になると、本当に死にますから。
現実、そうやって死んでいっていますから。
死ぬ人たちに「豊かさ」なんてものは不要です。
「豊かさ」を抱えた人とそうでない人と、どちらが死ねるか?

こうなると、「国家」の問題ではない。
「人間」の問題です。

僕はそんな「死にものぐるい」は嫌です。
「生き生き」としていたい。


「生き生き」としている人間が、見ず知らずの人を殺す理由を抱えるはずがありません。
地球上にはいろいろな人間がいますから、「生き生き」と殺す人ももしかしたらいるかも知れない。
けど、想像するのは無理です。
ヒトはそんな生き物ではない。

仮にそんなヒトがいたら?
けど、そんなヒトだって、ヒトに育てられないと生きられないんですよ?
あ、オオカミに育てられた、なんてヒトもいましたっけ?
もし可能性があるとしたら、そんなヒトくらいでしょう。
そんなヒトが、大量の見ず知らずの人を殺す能力を持つに至るなんて、考えることができない。

人を大量に殺すだけの資金と技術を持ち、人員を動員する能力は組織でなければなりません。
国家にせよ、会社にせよ、テロ集団も、組織です。
そして、組織というやつは、いくらでも「立派」を整えることができる。

本当に、いかなる種類の「立派」でも整えることが可能です。
こういう分野では、人間の想像力というのは凄い。
本当に凄いですよ。
もう、いくらでもアタマデッカチになることができる。


だから、もう、その手の「凄い」はいいんじゃないか、と。
だから、凄い「国家」よりまったく凄くない「僕」。
これが「『9条」の心」。

アメリカという国家が日本という国家を骨抜きにするために、9条を押しつけたというのは、本当だと僕は思います。
でも、それでよかったんじゃないの――?
凄くない僕は、そう思います。

コメント

いいエントリーだなぁ。
よかったよかった、前のが締めじゃなくて、爆!!
やっぱり、締めはこうでなくっちゃね。
うんうんうんうん、激同だ。
いいエントリーと感じるオレも変わったんだな。
気楽にシンプルに素直に本質に気づかなくちゃいけない。
これを身体的というなら、オレも身体の声をきくことができるぞ。

またイラぬことを書いてみるが、今朝「慰安婦」「問題」のニュースがあったので、
何ヶ月かぶりに秘書室を覗いてみたのよ。
気持ち悪くて反吐をリバースしそうになっちまった。
遠い過去、オレもあんなんだったと思うと、、、orz

なので、再度この清涼エントリーを読まさせてもらった。
気分よく今年も終われそうだ。
オレもなん書きたくなってきたぞい。

ということで、よいお年を、、、^^

毒多さん

気分よく読んでもらえて、よかったです。
ありがとうございます。

よいお年を。


今、考えているのは、「僕」は「国家」より上にいるってこと。
そんな「僕」は「自己責任」は「僕」にあるんだぞー、ということ。
「国家」「社会:」によってどんな酷い目にあわされても、
「僕」の「自己責任」は、「僕」より下に在る「国家」やら「社会」やらに押し付けないぞ〜、ということ。

本質的な「自己責任」を放棄して、本質的な責任を「国家」やら「社会」に転嫁する、ブサヨやネトウヨはくだらねーぞー、ということ。
従軍慰安婦も、ホームレスも、らい病患者も、拉致被害家族も、いじめられっこも、最期まで国家やら社会に責任を追及してどうすんだ〜ということ。責任は最後には自分にしかないぞ〜ということ。

それを死に物狂いで追及してどうすだぁ〜ということ。
そこを乗り越えないと生き生きできないぞ〜ということ。

と、自分に言い聞かせて年を超そうと思う。

じゃな、今回で今年は最後だぜ、^^
来年は実会おうではないか!!

そう、最終的には、そうなんですよね。

(すぺーすのいどさんも、そういうことを言っておられるんだと思います。)

来年が楽しみです (^^)/

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