愚慫空論

『絶歌』について

もう数日で平成27年も終わりますね。

年が改まるなんてことは、僕のあずかり知らぬうちに誰かが勝手に決めたことなんで、関係ない。

――と、年甲斐もなく捻くれたことを言いたいのですけれども、そうはいっても、やっぱりどこかで影響されてしまう自分がいます。「区切り」という感触がなぜか湧き上がってきます。

そして、そうやって「区切り」を意識すると、今度は「やり残し感」が浮かび上がってきます。
なんとなく「区切り」を付けておきたいこと。
別に年内にする義務はないんだけど、周囲の「区切り」にあやかって、この際、吐き出しておけばスッキリするだろうな、という気がするもの。





僕がこの本の存在を知ったのは、ネットのニュースで。

まあ、そのうち機会があったら目を通してみよう、
けど、図書館に置かれる可能性は低いだろうから、
ブックオフあたりで安く売られていたら――

なんて思っていたら、毒多さんから読ませていただくことになりました。

今から思い返して興味深かったのは、実は『絶歌』の読書そのものより、『絶歌』を巡る反応とやりとりの方でした。

 『「絶歌」元少年A     読了』(dr.stoneflyの戯れ言)

毒多さんの記事のコメント欄にも書かせてもらったんですが、僕の『絶歌』の感想は「正直」でした。
著者自身が自分に正直に書いた。
その社会的な意味はともかく、正直であること自体は、評価に値すると思いました。
今でもその評価は変わりません。

これも毒多さんのところへコメントしたことなんですけど、『絶歌』を読んで連想したのは、サルバードル・ダリやヘルベルト・フォン・カラヤンの「表現」。
芸術だと一般的に評価されている、彼らの自己表出ですね。
同じ感触が僕には感じられると思いました。

それは一言でいうと、「自分だけ」。
協調性の欠落です。

絵画のダリはともかく、オーケストラ指揮者のカラヤンに協調性が欠落しているなんて――と思われるしれません。
けど、可能性としてはあります。
というのは、「協調」というのは、外形的技術的な側面と内面的心情的な側面とがあるから。
このふたつは、切っても切れないものです。
それが「表現」というものの性質です。

このあたりの議論の典型例をあげるとしたら、「愛」が相応しいでしょう。
エーリッヒ・フロムの名著『愛するということについて』は、そういうところから議論をスタートさせます。
すなわち、「愛とは技術である」と。

カラヤンの場合でいうと、彼はオーケストラと協調して音楽を作るという意識は欠落していた。
そんな意識が欠落していても、技術がしっかりしていて、周囲に協調性があれば、協働はできる。
立派にできてしまいます。
それは、彼が残した揺るぎない業績が示しています。

カラヤンの業績の最大のものは、実は、西洋クラシック音楽を破壊したことなんです。
ヨーロッパのローカルな音楽でしかなかったものを、グローバルなものにした。
それは協調性が欠落していたからこそ、できた。

人間は誰もがみな、文化的な慣習の中で生きています。
「ローカル」ということは、そういうことです。
大人数で協働するときに協調性が作用していれば、「ローカル」から抜けだすことは困難です。

カラヤンは、それを成し遂げた。
彼は「目をつむって指揮をする」ことで有名でしたが、
その理由は「自身の中にある音楽(だけ)を聞く」ためだったそう。
ヨーロッパの「ローカル」の中にある音楽を、オーケストラと協調して協働する、ではなかったんですね。

ですから、「協調性に欠ける」というのは、必ずしも欠点はありません。
社会的な変革を進歩(といっていいのかどうかはわかりませんが)、促進させることがある。
というか、進歩はほとんど、そういうところから起きる。

他に例を挙げれば、先頃なくなったスティーブ・ジョブズなんかもそうですね。
社会の進歩は、幸運な「協調性の欠落」によって引き起こされる。

しかし、一般的なイメージは「協調性の欠落」は不幸です。
実際、それは正しい。
この「欠落」の99.99%は、不幸な結果をもたらすことになるから、です。


『絶歌』の著者は、そちらの典型なのだと思います。


人には不幸に感じられることは、いくつもあります。
内容はぞれぞれ違うでしょうが、ほとんどの人に共通してあげられることもあります。
身近な者の不慮の死というのは、間違いなくその筆頭でしょう。

身も蓋もない言い方をすれば、死んでしまえば終わり、です。
にもかかわらず、人間は死を恐れる。
これもまた協調性の為せる技でしょう。

ヒトという種は、仲間との協働によって生存してきました。
協働を支えるヒトとして本能的な能力が協調性です。

協働する仲間の死は自身の生存のリスクを高め、不安を掻き立てます。
これは、現に、今、協働している仲間とは限らない。将来的な協働でいい。
というより、将来的な協働の可能性のある相手の方が、種の生存欲求と相まって、本能的な協調性を発現させる相手としては相応しい。
ヒトが子どもを愛する理由です。

著者の過去の所業は、そうした対象を亡き者にするものでした。
これは周囲を本能的な不安を感じさせてしまう。
しかも、強烈に。
それからすると、彼の「欠落」が、社会的に幸運をもたらすことは、99.9999%ないと言っていいでしょう。


しかし、ここは考えなければいけないと思います。
協調性の欠落と邪悪とは、別のことだからです。

邪悪というのは、他人の不幸を願うことです。
確かに、彼は協調性の欠落によって他人を不幸にした。
だからといって、邪悪であるとは限らない。

「他人を不幸にしたんだから、邪悪に決まっているだろ!」

こういう断言のほうが、僕にはずっと邪悪に感じられます。
これは他人の不幸を願っていなければ、はき出せない言葉だからです。

「アイツは不幸になって当然。
 なぜなら邪悪だからだ。」

とても邪悪な言葉です。

邪悪というものは、陽の下に晒されて顕在化されてしまえば、その性質を発揮することが妨げられてしまいます。
だから邪悪な人間は、その邪悪さを隠蔽しようとする。

そうした邪悪の性質からすれば、『絶歌』はそこから外れています。
陽の下に晒して顕在化しようと試みたのが『絶歌』なのですから。
ただ、陽の下に晒されたものは、確かにおぞましい。

隠蔽のための有効な手段は、他人の攻撃です。
他人の否定できない過ちを邪悪だとして攻撃する。
多くの人がおぞましいと感じることを攻撃する。

その過ちによって不幸にされてしまった人は、もちろん別です。
不幸に陥れられた人が、攻撃性を発揮してしまうのは、もう、どうしようもありません。

そういう「どうしようもなさ」に共鳴すること自体は否定できないと思います。
自分をその身に置き換えてみたら、と想像して身もだえする。
それはいい。
けれど、それはどこまでいっても想像でしかないんです。

そうした想像を元に攻撃するのはお門違いというものです。

お門違いの攻撃を為すものは、代償行為をしているだけです。
そういう攻撃を為す人は、おそらく不幸なのでしょう。
けれど、その不幸の原因は違うところにある。
なのに、それに立ち向かう勇気がない。
だから、攻撃しやすいところを攻撃する。
私は不幸なのだからオマエも不幸になれ、と攻撃する。
他人を傷つけたことをネタにして、金儲けをするなんて許せない。

本当に許せないなら買わなければいいんです。そんな本は。

けれど、現実は売れた。
攻撃的批判が大半なのに、売れた。
ということは、多くの人が攻撃をするために買ったということです。

苦痛に対して自ら進んで身銭を切る人間はいません。
不幸に陥った人への共感がホンモノなら、そうした本を読むことは苦痛のはず。
でも、そうだったら売れないはずでしょう?
けれど、売れた。

ということは、何かの快感があったということです。
それは、現象から見る限り、攻撃の快楽とみて間違いない。
攻撃が快楽なのは、自身が不幸になっていないからです。
不幸に陥れられて、どうしようもない攻撃性を発揮してしまう人間のどこに快楽があるというのでしょう?
そんな攻撃は苦痛に満ちているに決まっています。

その身体は快楽を感じているのに、そこは隠蔽して、アタマだけ苦痛な振りをして、攻撃性を発揮する。
こういうのを邪悪というのです。

(こうした邪悪は、協調性が基盤になっていると僕は考えています。
 いうなれば、協調性の誤動作です。
 ここらあたりは、いずれ。)


では、『絶歌』の著者や出版社に邪悪さの欠片もなかったのか?
そういう疑問も湧くと思います。
協調性の欠落した著者は、もしかしたら、あまり想像はできなかったかもしれない。
けど、出版社はわかっていたはずです。
『絶歌』の出版が、世間の邪悪を掻き立てることを。

だから『絶歌』は世に出すベきではなかった。
邪悪を掻き立てることを知っていて、敢えて為すのは邪悪ではないのか。
一理なくはないと思います。

でも、本筋は外していると思います。
『絶歌』への攻撃性は『絶歌』とは関係なく存在していたからです。
『絶歌』は、そのきっかけを与えただけ。
『絶歌』がなかったら、その攻撃性は他に標的を探すだけのことです。

その意味から言えば、『絶歌』は、“ガス抜き”になったとすら僕は思います。
お隣の韓国や中国へのヘイトなどに振り向けられるよりは、よほどましでしょう。
というのも、この標的は、あまり感じないだろうから。
そういう感受性が「欠落」していますから。


そう、もう一つ言及すべきことありました。
被害者への仁義の問題です。
これは問題あり、だと思います。

僕とても、気の毒なことだと想像します。
けれど、やっぱりあくまで想像なんです。
その想像で身体は起動しません。
だから、上で述べたのと同じ構造なんです。


もとより、僕は『絶歌』著者を知りません。
その被害者も知りません。
ですから、どの問題もみな、想像上のことでしかありません。
ほぼ全ての『絶歌』読者と同じく。

アマタの想像上のことでは、身体は起動しない。
とはいえ、アタマの想像が展開してしまうことは止められません。
ヒトというのは、善くも悪くもそういう生き物です。

ただ「善く」と「悪く」は選択できます。
キチンと自身の身体と向き合っていれば。
これは意志と理性の問題だと思います。

だから、僕は『絶歌』を評価したい。
評価するという選択をしたいんです。
評価するための要素を探したい。
探せば、ちゃんとあるんです。

他の誰でもない、僕自身のために。


コメント

絶歌ぁああああああ

締めくくり? がこれですか(笑)
名指しで挙げられちゃコメしないわけにはいかないな、爆!!
もしかしてワタシのボロ屋の件のエントリーのほうに今だにコメが来ているのを見られたかな^^
「絶歌」がよかったというマイノリティの書き込みがあるだけで、即座に協調性の邪悪が発動されてます(と、この言い回しと理性はここで初めて気付かされましたが、、、)。
あれだな、協調性の邪悪は「隠蔽」のみではなく、危機感を感じているのだな、きっと。

今年のワタシにとって「絶歌」はとっても大きな出来事だったなぁ。
もっとも愚慫さんのように反応を面白がる余裕もなく、やたらイライラしていましたが。ブログよりもFBの「友達」(同窓会系リアル知人)がマズかった。「邪悪」だった。まあ、向こうからすればこちらが「邪悪」なんだろうけどね。
リアル知人だけにイライラもリアルだったのだが、イライラするということは、まだ期待していたのかな。そのイライラをそのままブログにももちこんだ。イライラしていちゃ思索なんぞできないのにね。

ワタシが未読への批判にこだわったのは、読めば解る、評価できるかもしれないと思う、という思いからです。ここにあるような「構造上アンチ評価になる」という思索には思いもよりませんでした。
結局は、ご立派な社会人(協働人)は構造上相容れないのかもしれません。
いかん、全然すっきりしてないじゃないか(笑)

それにしても評価を見いだすか、、、
読後の印象が薄れてきているなぁ
来年は再読してみるか(^^)

解りやすいエントリーありがと。よいお年を、、^^

毒多さん、すばやいコメント~~ww

いえいえ、これで締めくくりは、ちょっとヤです ^^;
もう一つくらい...、と思っていますが、わかりません。

『絶歌』を評価したら、リアル知り合いから警戒された?
そりゃ、そうだろうと思います。
けど、それが毒多さんなのじゃないかな?
僕の勝手な想像ですけど。

構造上アンチ評価になる。
ここは毒多さんは、感知していたんじゃないでしょうか?
だからこそ、持ち前の反骨精神が作動したのでは?
「毒多」と名乗るような、そういう気質ですね。
違いますかね?

それにしても今回は、「道楽」の範囲を逸脱したんじゃないですか?
僕はそこに期待したのですけどね~ (^▽^)

けれど、「反骨」には大抵の人は怯えます。
それは【体制】にしがみつくことに“死にものぐるい”だからでしょうけど。
だから、必死になって共感を隠蔽しようとする。

哀しいものだと思っています。

おはようございます。朝からですが、、、^^

「反骨」かぁ?まあ他に言葉が浮かばないから反骨でもいいのだけど、嫌悪感みたいな要素はある。それが死に物狂いで【体制】にしがみついていることにさえ気づいていないことへの嫌悪感かもしれない。FBの(リアル知人:絶歌を未読で攻撃するヤツ)ほうでは、別件で「だって皆のをみてみ、皆そうしているぜ(だからオマエもそうすべきだ)」と言われて唖然とした。ええ歳こいて、まじめに言っているのだ。こうした台詞が生で聞けることへの驚愕。世の中バカばっか、それももやはり構造上仕方ないのか?? ちゅうか平たく言えば、そうじゃないとサラリーマンはやってけなくて、疑問をもちながらやっているうちに、それを正当化しないと自己崩壊するというのが、慢性化しただけだと思うのだけどね、爆!! 宮台氏いうとこの「ネタからベタ」ってやつかも。
しかし、これでは悲しいかなどれだけ譲歩しても表面的にも付き合えない。

で、はたしてワタシは反骨が理由で「絶歌」を評価しているのだろうか、と思い返してみると、それはちがう、といいたいのだが、やはり完全に否定はできないな。
指摘のように、絶歌に対する評価が純粋に内容に対する評価ではなく、やはり反骨・嫌悪感があるがゆえの評価するという部分も多いにあるのだろう。もう少し吐露するなら、絶歌の著者にたいて「上から目線」で評価しているワタシがいる。
「上から目線」というのは、好意をもって肩入れという部分もあるだろう。よく書けたね、よく自分を相対化できたね、偉かったね、、という上から肩入れ。
言うまでもないが、全く評価に値しなければ、反骨だろうが嫌悪感だろうが、評価しないはな(笑)

で、「道楽」、ん?、、、はて? 何故ここでこの単語がでてくるのか理解に苦しんだのだが、なんのことはない、ワタシが言った台詞ではないか、爆!!
「道楽」ならば、前出リアル知人にも、ブログコメ欄の「邪悪」(Gじゃないよ^^)にもキレることはないのだろうし、「上から」で抱擁できたかもしれないが、やはり、できない自分を自覚しましたんで、前言撤回、、、ちゅうか、こんなに尾を引いていたとは!!
いつぞやは、軽く言い過ぎたと、反省して謝罪しときます。御免、悪かった!!^^

覚えてくれていましたか ^^;

「道楽」というのを言われたとき、「あ、これはリミッターだな」と思ったんです。確かご自身もそのようなことを仰った。だから、その自覚はあると思っているんです。

リミッターということでいうなら、『絶歌』への反発もまたそうだと思います。ただもちろん違いはあって、余裕のありなし。反発は余裕がない。リミッターというより、ハリネズミでしょうか?

また「余裕のなさ」でいうなら、『絶歌』絶賛も危うい。毒多さんの記事は、そういう危うさが無きにしもあらず、だと感じはしましたけど。

この記事で「代償行為」と書きましたけど、その手の危うさは、必ずもその対象に直に向くわけではありません。むしろ、そうでないことが多い。『絶歌』への反発もそうだし、毒多さんの「絶賛(?)」もそうだと思ったわけです。

しかし、「反発への反発」というのは憎悪の連鎖と同じ構造ですからね。“戯れ言”では済まなくなりますね。そこから毒多さんのリミッターが外れるか? と思ったんですが、そういうものではないなあ、というが今回の僕の感想です。

スミマセン、上から目線で。
けれど、いろいろ考えさせてくれました。感謝しています。

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