愚慫空論

『困難な成熟』絶賛読書中!

またしても、内田樹さんです。
実はこの本、ずいぶん前に購入しておいてはいたんです。
けど、なんとなく読む気にならなくて...。
まあ、疲れていたんでしょうね。



感想は読み終えてから書くのが順当なんでしょうけれど、そこを敢えてはずというのがマイ・ブームのようです。今回も、それに乗っかって、途中なんですけど、ちょっと書いてみます。


どのような社会的概念も、人間が幸福に、豊かに、安全に生き延びるために考案されたものです。

(P.26)



ページを繰り始めてすぐ、この記述に出会いました。
そして衝撃を受けた。
まったくその通り! 
この記述が正確かどうかはともかく、この“断言”には全面的に賛成です。いや、参りました。(^_^)

しかしながら、です。
読み進めていくと、その感想が少し変わってきてしまうのです。
(まだ一章しか読んでいませんが..(^_^;)

確かに内田さんは、この“断言”の通りに、根源的な概念について文章を連ねていきます。
 責任について。
 正義について。
 ルールについて。
 フェアネスについて。
これら各概念が人間社会に資するための、その有りようについて。
とても腑に落ちます。

だから、「日本を変えていくには」という文章で一章の終わりが閉められるというは、とても自然な流れに思います。
いうまでもなく、今の日本はダメダメ、という前提になっているということです。
『困難な成熟』という本を書こうという動機自体が、ダメダメという前提があってのことなのでしょう。

けれど、しかし、僕はここにある「欠落」を感じてしまいます。
なぜダメダメが生じたのか? この疑問が欠けている。
不思議に思うんです。

だって、現にダメダメなんだから。
「どのような社会的概念も、人間が幸福に、豊かに、安全に生き延びるために考案されたもの」であり、その通りに運用されるなら、ダメダメになるわけがない。ダメダメになっているということは、内田さんの“断言”にも関わらず、事実はそうではないといわざるを得ないということです。

「どのような社会的概念も、人間が幸福に、豊かに、安全に生き延びるために考案されたものである」という断言の前に、内田さんは責任について考察しています。

原理的に責任を取ることは不可能。
だったら、責任とは何なのか?
内田さんはこのように言います。

「どうすんだよ、おまえ、こんなことをしやがって。どうやって責任を取るんだよ。でも、おまえがどのようなかたちで責任をとったつもりになろうとしても、オレは『それでは責任をとったことにならない』というからね」と言っているんです。
 だからこそ、「眼には眼を、歯には歯を」という古代の法典が作られたのです。
 これは「同罪刑法」と呼ばれるルールですが、別にこれは未開人が考え出した残虐な法律というわけではありません。逆です。
 どこかで無限責任を停止させなければならないので、法律で「これ以上は責任を遡及してはならない」という限度を定めたのです。



すごいと思います。こんなふうに考えられることが。
つまり、責任とは有限だと言っている。
この考えは、私たちが持っている責任という概念のイメージに合致します。
鍵は「だからこそ」ですね。もう、何の力みもなく、ぽーんと言葉をひっくり返す。
その手並みの鮮やかさは、まるで合気道の達人の技を見ているかのようです。

「どのような社会的概念も、人間が幸福に、豊かに、安全に生き延びるために考案されたもの」であるなら、「人間は自身が幸福に、豊かに、安全に生き延びるために社会的概念を考案する」です。これは人間は性善だということを示している。それ以外に考えようがありません。

一方で、どうやって責任を取るんだよ、と言いたいのも人間の性ですね。
凄むとなると性悪の色が濃くなりますが、そうばかりとは限らない。
かけがえのないものを返せ! という悲嘆の叫びだってある。
相手が性悪であろうがなかろうが、ピタッと決めてみせる。
その技を駆動している原動力が

どのような社会的概念も、人間が幸福に、豊かに、安全に生き延びるために考案されたものです。


という“断言”。性善だという人間への信頼なんですね。

けど、本当にそれで割り切れるのか?
僕を含めて、普通の人間はそう考えない。考えることができない。
責任が有限だ、ということには同意できます。けれど、その原動力は「悪」である場合が多いのではないでしょうか?
それは必要悪で、どうしようもないんだ、という論理。
内田流が切れ味で勝負なら、こちらは力業ですね。「スパッと決める」のと「力で押し切る」のの違い。後者はとても後味が悪い。

凄いと思います。そんなふうに出来たらいいな、と思います。
思いますが、ほとんどの人ができない。
だから、『困難な成熟』ということになるのでしょうが...。

ふつうは、迷いが出るものです。
人間を性善だと思いたくても、そうでないところにも反応してしまいます。だから、責任の有限性が「人間が幸福に、豊かに、安全に生き延びるため」と言われれば同意をすると同時に、「それが必要悪ゆえ」と言われても同意できてしまう。どっちにも反応してしまうというのは、迷いです。

迷いがあると、それは筆に出るはずです。情理を尽すのなら、なおのこと。なのに、迷いが全くない。ということは、そのように鍛錬したのか、あるいは、その方面への感受性が欠落してるかのどちらかでしょう。

切れ味鋭い技を決めてみせるというのは、とても大切なことだと思います。
その様を見せつけられれば、そこには憧憬が生まれる。
宮台さんの言わせれば「ミメーシス」というのでしょう。
その際、それがその人固有の才能なのか、鍛錬すれば誰でも到達できるのかの違いはとても重要です。
前者であれば、内田さんの迷いの無さは特異な現象ということになりますが、後者なら、困難ではあっても自然な現象ということになるでしょうから。

もちろん、本書は後者だと思います。
現時点ではまだ読み通していないので、これは予想でしかありません。
が、間違いないと思っています。

コメント

ご無沙汰しています。

久しぶりに覗いてみたら更新されてて嬉しかったです。
お元気そうで何よりです。

折角なのでコメントしてみますね。

この内田さんの本は読んでないので愚慫さんのこの記事からの情報だけですが、最近はワタシも考え方が以前とは少し角度が変化しているのか、1点、ちょっとワタシとは違うなと思ったので書いてみます。

>つまり、責任とは有限だと言っている。

確かに内田さんはそう表現されているとおもうのですが、ワタシはやはり責任はある意味「無限」だとおもうのですね。

「責任」は、何か事故、事象が発生した原因について負うものですが、それはその事故、事象が発生した直接的な原因のみではないはずです。

だから責任は「無限」。
生死に関わらず今と過去のすべて、つまり「無限」の人々が「無限」に責任を負うべきなのだと思います。

ワタシは「正義」や「法」は、責任の有限性や局所性を主張することで思考停止を示唆し、本来なら「無限」に責任をシェアすべき多くの人びとの免罪をしているのだ、と最近は思っています。

久しぶりに覗いてみたら更新されてて嬉しかったです。
すぺーすのいどさん、コメントありがとうございます。

夏はわざわざおいでいただいたのに、ロクにお構いも出来ず申し訳ありませんでした。
ええ、今は、かなり元気です。

折角のコメントにお答えさせていただきますね (^_^)


>>つまり、責任とは有限だと言っている。

>確かに内田さんはそう表現されているとおもうのですが、ワタシはやはり責任はある意味「無限」だとおもうのですね。

鋭い!

いえ、実は内田さん自身は有限と言っているわけではないのです。“知恵”というふうにに言っています。


>「責任」は、何か事故、事象が発生した原因について負うものですが、それはその事故、事象が発生した直接的な原因のみではないはずです。

>だから責任は「無限」。

すぺーすのいどさんのこのご指摘は、“智慧”の方ですね。

“知恵”と“智慧”は、漢字表記が違うだけですが、意味は少し異なるように思います。

“知恵”は実際的な意味合いが強く、“智慧”は哲学的神秘的な色彩を帯びます。物事の実相をありのままに認識するというか。

「責任」の実相は、無限なんだと思います。
けれど、実相が無限だからといってそのように「責任」を運用してしまうと、無責任にならざるを得ません。

「責任」が無限だからといって際限のない遡及を認めてしまうと、社会が崩壊します。だから、「責任」は有限なものとして運用するほかない。そういう意味で、実際的な“知恵”なんです。「責任が有限」ということは。


>ワタシは「正義」や「法」は、責任の有限性や局所性を主張することで思考停止を示唆し、本来なら「無限」に責任をシェアすべき多くの人びとの免罪をしているのだ、と最近は思っています。

その通りだと思います。ですが、それは多分に空想的でもあります。空想的というのは、身体的なところから逸脱しているということです。

内田さんは、次のように書いています。

「見たこともない人の苦しみへの想像的共感に基づいて、会ったことのない知らない人に罰を与えようとする」というようなことは、あまりしないほうがいい。正義の執行は『生身の他者の受苦を目の当たりにしたとき』に限定したほうがいい。それはひとつの人類学的叡智だろう」と。

世界は無限だし、想像も無限に近い。これは私たちに人間がもつ優れた能力だと思います。ですが、私たちは限られた認識力しかもたない有限な存在です。有限な存在が無限なものを背負うなんてことは、それがたとえ正しくはあっても、土台無理な話なのだ――と僕は思います。

この本の表紙に出ている問いを、少し補足してみると次のようになるかと思います。

「(無限の)責任を取るということは可能でしょうか」
「(私たちは有限の存在なので)不可能です」

(^O^)/

流石は愚慫さん
ワタシの相変わらず下手な作文からちゃんと回答してくれますね。(^O^)/

内田さんの言わんとすることは愚慫さんの解説で理解できました。
内田さんらしい論理展開ですね。
やはりちゃんと本を読まないとダメですね。www

>有限な存在が無限なものを背負うなんてことは、それがたとえ正しくはあっても、土台無理な話なのだ――と僕は思います。

ワタシが引っかかったのは、というか前回のコメント時でも内々に引っかかってたのはこの点です。

この考え方は言い方が良くないかもですが「上から目線」の奢った考えじゃないかな、と思います。

ゴールは無限の彼方だからココらへんで妥協しとこう、って感じでしょうか?

でもそれだと進歩自体が止まってしまいますよね?

ワタシはこの「土台無理な話」への挑戦を諦めたこと諦めさせたことが「ダメダメ」の元凶だと思っています。

表紙の問いを、ワタシ的に補足してみると次のようになるかと思います。

「責任を取るということは可能でしょうか」
「(責任とは「取る」ものでなく「担う」ものだから)不可能です」

でしょうか。

「上から目線」というなら、『困難な成熟』という本のタイトルからして、すごく上から目線ですよね ^^;

成熟なんてことに言及できるのは、成熟ということの構造上、現に成熟している者だけ。つまり、成熟を困難だと言えるのは、困難な成熟を成し遂げた人間だけ。
ということは、『困難な成熟』などという本を書くということ自体、「オレは成熟しているんだぞ」という上から目線になります。どうしてもそうならざるを得ませんよね?

しかし、考えてみると、これは書き手の問題です。書き手は、成熟ということの構造上、上から目線でしか書くことができない。では、受け手も上から目線でしか受け取るという選択肢か出来ないのでしょうか?

僕はそうでないと思います。そうではなくて、「上から目線」という選択を受け手がしている。そして、そういう選択をするということは、受け手が成熟を拒否しているということですよね。無意識的かつ主体的に。しかも、それを「書き手が上から目線だから」という言い訳を用意して。

これは、よく言われる「上から目線」について、僕が思っていることです。

では、すぺーすのいどさんが、そういう「上から目線」を感じているのかというと、ちょっと違うと思う。


>>有限な存在が無限なものを背負うなんてことは、それがたとえ正しくはあっても、土台無理な話なのだ。

>ゴールは無限の彼方だからココらへんで妥協しとこう、って感じでしょうか?


僕が内田さんの

「どのような社会的概念も、人間が幸福に、豊かに、安全に生き延びるために考案されたものです。」という“断言”に感激したのは、実際には社会的概念がそのように運用されていることは少ないからです。せいぜい映画やドラマのなかでしかお目にかかることができません。

「責任」という概念についてもそうですね。多くの場合、「責任の無限性」は“盾”に使われる。典型的なのは、

「私は最高権力者なんだから、私が決める」

というようなやつですね。

「責任を取れるのか!」 という反駁には

「オレは責任を取る“立場”に選ばれたのだ」 と応える。

けど、これ、自発的に責任を担うつもりはさらさらない。


>責任は「取る」ものではなく、「担う」もの。
すぺーすのいどさんが仰りたいのは、“自発性”なのではないでしょうか?

内田さんの“断言”を「自発性」という言葉を組み入れて言い換えると

「どのような社会的概念も、自発性に基づいて運用されないかぎり、人間が幸福に、豊かに、安全に生き延びざせることはできません。」


『困難な成熟』に書かれている文章は、徹頭徹尾、(内田さんの)自発性に基づいてです。それをどのように受け取るかは受け手の自由ですが、自発性をもって受け取るなら(「自発性をもって受け取る」ということがどういうことなのかについては、第三章で言及されています)、逆に「他律性」が欠落していることに気がつきます。(これは驚くべきことです。)

話は「上から目線」に戻りますが、ここに感じられるのは「他律性」ですよね。他律性への反発、苛立ちが「上から目線」という言葉になって出現するのだと思います。

そう考えていくと、すぺーすのいどさんは苛立ちを抱えておられるんだろうと推測するのですが、それは

「(無限な)責任を負うなんてことは、土台無理な話」

という言葉に対してではないと、思います。この言葉によって、もともとの「苛立ち」が掻き立てられたのだろう、と。


ますます上から目線で、申し訳ありません。^^;

No title

>仰りたいのは、“自発性”なのではないでしょうか?

なるほど、そうだとおもいます。

>他律性への反発、苛立ちが「上から目線」という言葉になって出現・・

あぁ、そんな感じですね。

なんだか、本文とか読み直してたらワタシのコメントが最初のコメントからスジがズレてる気がしてきました。

なんだか突き合わせちゃってすいません。

まぁ今更ですが今後ともよろしくおねがいします。

No title

スジずれていても、歓迎ですよ(^^)/

責任追及ならばスジがズレているのは問題ですが、
知的な愉悦が目的なら、スジがズレていなければ面白くありません。

(スジに無関係はご容赦、ですが(^_^;)

というわけで、こちらこそ、今後ともよろしくおねがいします。 m(_ _)m

Re: 鍵コメさま

ご連絡、ありがとうございます。

ええ、2,3にち前からレイアウトが崩れています。こちらでも確認しています。

レイアウトのテンプレートを確認してみました。
特に異常はありません。
公式のテンプレートの切り替えても、同じ症状がでますので、サーバーの方の不具合だろうと推測しています。

まあ、そのうち復旧するだろうと、思っているのですが...^^;

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