愚慫空論

『日本戦後史論』を読んでみました

白井聡さんと内田樹さんの対談本『日本戦後史論』を読んでみました。


この対談の元になった白井さんの『永続敗戦論も読んだ上で。


『永続敗戦論』についても何か書くつもりでいました。何か書いてから『日本戦後史論』を読んでみよう――と予定を立てたいたのですけど、まあ、思った通りにことは運ばないもの。誘惑に負けて『戦後史論』の方を読んでしまうと、『永続敗戦論』は、まあ、いいか――になってしまいました。


本題に入る前に、ちょっと嬉しかったことを。

『永続敗戦論』を読んでみて思ったのは、第一に、著者の白井聡さんは尖った人だなぁ、ということ。とても強い敵愾心をうちに秘めている。けれど、敵愾心には流されずに、それを原動力にして知性を駆動させ、見事、完全燃焼してみせた。ホンモノの知性だ思いました。

昨今、“反知性主義”という言葉が流行のようで、それについての著作もいろいろ出ていて、僕もひとつふたつ読んではみたけれど、そんなニセモノの解説(解説がニセモノという意味ではなくて、ニセモノを解説ということです)に時間を費やすより、ホンモノの知性に触れてみる方がずっといいんじゃないか、と思うくらい。

反知性主義というのは、敵愾心に煽られて知性を駆動させてしまうこと――なんだけど、そうではない、ということを想像してみるのは案外難しい。

で、嬉しかったことというのは、『日本戦後史論』のあとがきで、内田さんもそういうことを述べていたということ(反知性主義云々はでてこないけど)。そうそう、やっぱりそうでしょ? と嬉しくなってしまいました。(^_^)


そんな白井さんと内田さんの対談がどのようになったかというと、これも事前に予想していたことなんですが、高等知的遊戯になっていました。「お遊び」というのは、これまた最近、内田さんに浴びせられている批判のようなのですが、これも、もっともだな、と。

肯定的にもっとも、と言っているんではないですよ。
力の抜けた「対決」は、脇から見るとあたかも遊んでいるように見える。
それを本当に「遊び」だと感じてしまうのは、敵愾心に呑まれているんだな、と。

白井さんは、最初はとても力が入っているように感じます。
力のこもった『永続敗戦論』がベースなのですから、もっともなこと。
それが、力の抜けた内田さんとやり合ううちに、どんどん力が抜けていく。
対談といっても編集されたものだから、生ではないんだけれど、そういう「力の経過」はよく伝わってくる――
と僕は思います。(事前予想に囚われた僕の主観かも知れませんが)


話を進めるには、「永続敗戦」に触れておかなければならないでしょう。これはなにか?
“敗戦”を“終戦”と言い換えるような、敗戦の否認。
その否認を都合良く運営して検疫を守ろうとする国家権力とその周辺。
つまり、否認を核とした権力構造の、日本バージョン。
否認の核を天皇制が支えているという形。

『戦後史論』の中の内田さんの話の中で特に面白いと思ったことを、ふたつ。
そうした構造の萌芽は戊辰戦争から始まっていたんだ、という指摘。
もうひとつは、他バージョンの提示。主にフランスですね。

僕は、これらを読みながら、この話の展開に『逆説の日本史』の井沢元彦さんもくわわったら、もっと面白くなるだろうなぁ、と想像していました。井沢さんが加われば「構造の萌芽」をさらに遡って、くわえて「永続敗戦」のさらなる別バーションを提示してくれるだろう、と。

僕の知識の範囲で話をしてみます。
萌芽の遡及と別バージョン提示という二本の線は、一つの事件に辿りつくことになります。それは『靖康の変』。中国史です。

靖康の変(せいこうのへん)は、1126年、宋(北宋)が、女真族(後世の満州族の前身)を支配層に戴く金に敗れて、中国史上において政治的中心地であった華北を失った事件。靖康は当時の宋の年号である。


「変」なんて取り繕っていますが、この事件は中国にとって一大事でした。革命どころの騒ぎではない。中国の革命思想は王朝交代の正当化のためのものですけど、これはあくまで中国(というより中華)の内側の論理なんですね。蛮族にやられるということは想定しない。なぜなら、中国は世界一のはずだから。

なのに、宋が金に敗れた。敗れただけではなくて、現皇帝・元皇帝という国のトップが、その周辺の官僚や後宮に含めて偏狭に拉致されてしまった。日本で言うなら、第二次大戦後、天皇や戦犯たちがアメリカに連れ去られて収容所の放り込まれた、というような事態だったわけです。ユダヤのディアスポラに匹敵するような事件です。

この後、宋は南方で再興します。そこで「敗戦の否認」の試みが始まる。その成果が「朱子学」というやつです。

朱子学は儒教の一学派、という理解では不足です。「敗戦の否認」を儒教のツールをもって行ったもの。もともとの儒教の精神とは別物だと思ったほうがいい。ルサンチマンの塊。それが金に圧迫され、のちにモンゴルに滅ぼされることになる宋(南宋)で発展した。そして、日本にも輸入されることになる。

採用したのは徳川幕府です。朱子学というのは、表面上は統治の正当性を示すものです。徳川家は朱子学を導入することで、学問の面からも統治を確かなものにした。武力がモノを言った戦国の世が終わり、官僚機構を整えるのは必要なことです。

ところが、これが徒になる。というのも、朱子学の統治の正当性を追求するという構えは、日本においては天皇制に辿り着いてしまう結果にならざるを得ない。実態はどうであれ、形は、徳川幕府は天皇から統治を委任されているということになっている。学問においては、この形こそが大切。

それが幕末の倒幕へと繋がる。「尊皇攘夷」というのは朱子学の思想です。つまり、すでに幕末の時点で日本は中国化していた。その先鋭が薩長。特に長州。

長州については『逆説~』に興味深い話が紹介されていました。長州藩、すなわち毛利家は、関ヶ原の怨みを忘れていなかった。毎年、正月に、萩城の天守閣において、次のような“儀式”が行われていたというんですね。家臣が「今年は、倒幕をいかがしましょう?」と殿にお伺いを立てる。殿は「もうしばらく様子を見よう」と答える。200年以上もそんな儀式が執り行われて、ついにその悲願が実現する。けれど、そのルサンチマンは、実現しただけでは解消されない。明治に入っても、長州閥の陸軍支配という形で引き継がれる――。

すこし話が前後しました。戊辰戦争です。
この倒幕戦争は朱子学が理論的な支柱になっていました。その戊辰戦争の戦没者を“顕彰”するために建立されたのが東京招魂社。今の靖国神社ですね。

元来の日本の理論では、神社は鎮魂のための装置です。怨霊を怖れた日本の統治者は、敗者の霊魂を慰めるために神社を建てた。ところが顕彰は違う。霊を慰めるというのは同じでも、理屈が違う。鎮魂は「負けたけど、勘弁してね」だけど、顕彰は「勝ったから、よかったね」。統治の正当性を基準にすれば、当然「勝ってよかったね」になる。そうやって、靖国は建立されることになった。中国化した神社です。

それが現代、中国との対立のネタになっているのは皮肉な話です。いや、中国化して同じ土俵に乗ったから、対立するようになったのか――?

というなことを『日本戦後史論』を読んで考えた次第。

『日本戦後史論』で内田さんの話に興味を持たれたかたは、『逆説の日本史』も、是非。

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