愚慫空論

「不可思議」

今回の話は、小学生の頃の思い出話から始めます。

5年生の時だったと思います。
算数の授業でした。先生が

「ノートに数字を1から1000まで書いてみてください」

と言ったんです。うわ、めんどくさいことを――と思ったのを覚えています。
面倒くさいことは、今も昔もキライです ^^;

それでも、お勉強なんだし、負けず嫌いだし、どうせやるなら一番になってやるか
よく憶えていませんが、たぶん、そんなことを考えたのでしょう。
文字を書く速さには自信がありましたし。
それで、1から順番に数字をノートに書き込む作業に没頭した――
すると、僕がまだ500も書き終わらないうち、隣の席の女の子が

「できた!」

と叫んだのです。
僕は驚いて(この子に負けるはずがない!)と隣に振り向くと、そこのには満面の笑顔。
この笑顔は今でもまぶたに焼き付いています。
半信半疑でその子のノートを見せてもらうと、

・・・、195、196、197、198、199、

  1000!

エクスクラメーションマークが付いていたのも、しっかり覚えています。
その後の脱力感も。

その授業の主題は「数の単位」でした。
1000までの数字をノートの書かせたのは、数の大きさを体感してもらうことが目的だったのですね。
僕にとってはその目的は達せなかったようですが、その後の「出来事」も含めて、とても印象に残る授業になりました。

(余談ですが、なぜこんなことをよく覚えているのかが、疑問でした。
 記憶はそんなものといえばそうなんでしょうけれど。
 腑に落ちたのは、僕はどうやら捻れ体癖の、それも奇数型らしいということ。
 負けたと感じたことが記憶に繋がったんでしょうね。)

さて、その後の「出来事」です。
といっても、たいそうなことではありません。
授業が終わった後に、なぜか教壇の上に放置してあった先生の教科書を覗いてみたんです。
先生の教科書は児童のものよりも大判で、授業のためのあんちょこがいろいろ書き込んである。
数の単位の授業のページの欄外に、単位が網羅してあったんです。
この網羅を覗いたというのが今回の主題を提示する「出来事」なんです。

 一、十、百、千、万、億、兆、京、垓・・・

このあたりまでは記憶にあります。今でも時々見かけますし。
そのあと、途中で漢字一文字ではなくなって、最後の「無量大数」の手前に「不可思議」という文字があった。

「不可思議!?」

この「不可思議」がなぜか、とても印象に残っています。
なぜそんな言葉が数の単位として使われるのか、不思議に思ったんです。


その不思議に自分なりに回答してみるというのが、今回の主題です。

数の最終単位「無量大数」は、要するに「無限」です。
「京」とか「垓」は知らなくても「無限」は広く知られていますし、気軽に使われもする。

しかし、「無量大数/無限」の前に「不可思議」があるのとないのとでは、
「無量大数/無限」の意味合いが違ってくるのです。

 1から数が増していって、やがて無限に至る――

ごく常識的な数字についての知識をもっていれば、これは常識でしょう。
なんの不思議も違和感もありません。

ところがここの「不可思議」という単位(言葉)が織り込まれている。
不思議も違和感もないはずなのに、そうではなくなります。

1から数が増していって、やがて無限に至る」

というのは直線的です。さらにいうならば頭脳的。

「1の次は、2」
「2の次は、3」
「3の次は、4」
 ・・・

以下、延々と、無限と繰り返すことが出来ます――
ではなくて、無限に繰り返すことができると考えます。
この「考え」は無時間です。

「n の次は、n+1」

と抽象化されることで、時間が奪われている。
たとえ頭の中で考える乗せよ、数字を具体的に次、次、次、、、
とやっていくには時間がかかる。
頭脳は時間を割愛することができます。
私たちが通常、イメージしている「数」あるいは「無限」は、
直線的な無時間の“流れ”なんです。

ところが、ここに「不可思議」が織り込まれると、流れに節目ができてしまいます。
直線的ではなくなる。
一直線に把握できていたはずなのに、もうここから先は把握でないということになってしまう。
「不可思議」というのは、そういう意味でしょう。
思議することができない。
把握することができない。

 1から数が増していって、やがて認識不可能なところへ辿り着いて、
 そのさらに先に無限がある――


「無量大数」の前に「不可思議」があることで、「無限」は文字通り無限になります。


直線的な「無限」が頭脳的であるならば、直線的でない「無限」は身体的なのか?
この次には、こんな疑問が湧いてきます。
「頭脳的」の反語は「身体的」。
直線的が否定されるなら、その反対になるのか?

そんな単純ではないと思います。
直線的でなくても「無限」はやはり頭脳的でしょう。
が、抑制が効いています。
「直線的無限」が、多少誇張していうならば、頭脳の暴走であるのに対して。
そういう意味では、「非直線的無限」は理性的です。

とはいえ、この「非直線的無限」は、どこか身体的な感じがしないでもない。

頭脳的ではあるが抑制が効き、どこか身体的な感じが漂う――
この印象を言葉にするとなると、

 「神秘」

が相応しいのではないかと思います。


なお、Wikipediaの「命数法」のページには、僕が小学生の頃に目撃した「単位の網羅」が掲載されています。
これによると、「無量大数」は「10の68乗」にあたるそうです...、
ここには「神秘」の欠片もない。

「べき乗」という表記法は、大きな発明だと思います。
この発明によって、人間が頭脳的に認識できる範囲が大きく広がった。
しかし、そのことによって「神秘」はさらに遠くに追いやられる異なってしまいました。
遠くになりすぎて、気軽に「神秘」という言葉を用いようものなら、胡散臭いという身体的反応が返ってきてしまいます。

頭脳が認識できる範囲が大きくなるのは、良いことだと思います。
ですが、何ごとにも裏表がある。
良いことの浦には、悪い面もある。
「神秘」が遠ざかったということは、僕には良くないことに感じられて仕方がありません。

「神秘」とは「有限の思考」です。
限界があると心得るということです。

現代、僕たちを支配しているのは「無限の思考」でしょう。
節目のない直線的な頭脳の暴走。

べき乗という言葉の用法が発明される、
「言葉のシステム」のイノベーションといっていいでしょう。
そのおかげで、頭脳が認識できる範囲が拡大する。
ですがそのおかげで、「言葉のシステム」の中に埋め込まれていたはずの理性が忘れ去られようとしてるのではないでしょうか?

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