愚慫空論

『I Love You』

まだ『あん』を引きずっています...。
いえ、引きずっているのは「悲」なのかもしれません。
『あん』に触発されて僕の中に浮かび上がってきた「悲」がくすぶり続けている、という感じでしょうか。

それで『「悲」の響き』というタイトルで、音楽の文章を一つ書いてみようと構想しました。
この構想はMy favorite の楽曲を主題としているのですけれど、

それよりもオレの方が先だ!

といって、割り込みを欠けてきたヤツがいるんです。
こいつです ↓




ご存じ、尾崎豊の『I Love You』です。
が、歌い手は玉置浩二。

これがとてもいい。
聞き惚れて、シビれてしまいます。
もしかしたら、尾崎が歌っているのよりもいいかもしれない。


僕にとっては、という限定付きでいうならば、玉置浩二に軍配を挙げたい。
ん? さらに「今の」という限定が必要かな。
若かりし頃なら、まず間違いなく尾崎の方だったろうから。

ということは、何か変化があったんですね。
受け手である僕の中に。

楽面的には、同じ歌。
けれど、歌い手が異なる。当然、表現が異なる。
この差異、一目でわかるのは年齢です。
歳を経て、何ごとかが「経過」したということでしょうね。

では、この「何ごと」とは何か?


僕が尾崎豊を知ったのは、この『I Love You』においてでした。
それも直接その歌を聴いたのではなくて、間接的に。
とあるドラマの中で用いられていたんです。
これでもう、ピンと来る人はいるでしょう。



動画の2'30"過ぎから、『I Love You』は登場します。

(余談ですが、この『'87初恋』が僕の『北の国から』初体験です。
 これ以降このドラマのファンになりましたが、視聴を重ねるごとに脚本を書く倉本聰がキライになります。
 なんてイジワルなヤツなんだろう、
 そんな次から次へと不運をお見舞いしないでもよかろうに――
 「それはないじゃないか!」
 と、思わずにはいられません。)

『I Love You』は「悲しい」歌です。
「生きる」ことが塞がれている、と歌います。

♪今だけは悲しい歌、聞きたくないよ――

生きようとして、塞がれて、そこから逃避して引きこもる。
「悲しい」か、あるいは「哀しい」と書くべきか。

上の『北の国から』の動画のシーン、純は
「それはないじゃないか、れいちゃん」
と呻きますけれども、『I Love You』は、まさにこのシーンにピッタリ。
尾崎豊の歌いぶりは純粋で、だから、切迫しています。

現実の前に、もう、どうしようもなくて、
「それはないじゃないか!」
と呻くくらいしか、やりようがない。
せめて、『I Love You』の歌のように、“ふたり”なら...。


尾崎の純粋さと比べると、玉置の方には余裕がありますね。
「優しさ」と同時に、包容力。
同じ歌なのに印象が異なります。
尾崎の方にも「優しさ」はあるけど、でもアップアップしていて、だから切迫感が凄いんですけどね。
命を削っている感じ。

尾崎と玉置は、言うまでもなく別人です。
別人だから違うのは当たり前ですが、同じ人間という尺度で見れば、
というのは、もし尾崎が生きながらえて「経過」を経ていたなら、と想像につながりますが、
「何ごと」とは、何なのかの答えが見えてくるような気がします。

それは、とにもかくにも「生きる」ということなんだろうと思います。

僕たちはとかく、「生きる」ということと「方向性」とをセットにしてしまいがちです。

純は、「それはないじゃないか、れいちゃん」
と呻きますが、でも、れいちゃんだって、「それはないじゃないか」と思っていないはずがない。
純だってそのことはわかっているなんだけど、でも、「方向性」はれいちゃんに向いていて、
さらに、ドラマとして視ている僕たちだって、純がれいちゃんに「方向性」をむけてしまうことを、ちっとも不思議に思わない。「れいちゃんに向けても仕方ないんだよ」とお説教をたれることはあるかもしれないけれど、れいちゃんに向いてしまうことそのものに違和感を感じはしませんよね?


けれど、よくよく考えてみれば、「生きる」ということと「方向性」はセットではない。
セットになれば、それは「幸せ」なんだろうし、誰もが自身にも、他人にもそう望むことだけれど、
でも残念ながら、このふたつは別個のもののようです。

「悲」は、自然な経過を辿れば自然に至るものなんだろうと僕は考えています。
とはいえ、社会には自然な経過を見出す要因がある。
「方向性」はそのひとつなのだろうと思います。


蛇足です。

上の話の流れからすると、
 尾崎豊が歌う『I Love You』 ⇒ 「悲しい」歌
 玉置浩二が歌う『I Love You』 ⇒ 「悲」の歌
ということになります。まあ、その結論でいいと思うのですけど、でも、そう断言できるのか、ちょっと心許ないところがあるんですね。というのは、玉置浩二のは、どことなくニセモノ臭いというか。
「玉置さん、アンタのその歌、本当にそうなの?」
と問い質してみたいような気持ちになるところがあるんです。

その表現が「ホンモノ」なのか「ニセモノ」なのかと、「一流」「二流」は基本的に関係がありません。「ニセモノ」だから二流三流ということには必ずしもならない。「ニセモノ」の表現が「ホンモノ」の思いを喚起させるのなら、それは超一流ということになります。

僕が感じるこのニセモノ臭さはどこから来るのか? 
これがよくわからない。
錯覚である可能性は、かなり高いと思います。
というのも、「ニセモノ」「ホンモノ」というのも、これまた「方向性」だから。
言葉というものが根源的に持つ「方向性」なんだろうと思います。

言葉で考えつつ、言葉の「方向性」をキャンセルするのは原理的に無理なのかも知れません。

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