愚慫空論

今いちど、『あん』

前回、conversion ということに触れました。
『あん』にも、conversion は出てきます。



僕の中の順番でいうと、実は『あん』の方が先だったんです。
『あん』を読んでいて、これはconversion だと思った。

『あん』には、conversion が2回出てきます。
言うまでもなくconversion するのは徳江です。
月との対話が1回目。木々のとの対話が2回目です。

こうした「対話」が、パウロやムハンマドのconversion と同等かというと、疑問はあります。
彼らのconversion は、相手が限定されていますからね。
対して徳江の、というより僕を含んだ我々のは、相手が限定されない。
だから違うと言えば違うんですけど、僕は同じようなものだと思う。

同じようなものとはいえこの違いは重大で、この違いこそ、
一神教と、我々のような多神教的、あるいは無神教的宗教観の違いだと思うんです。
言語的な宗教と、非言語的というより感覚的な宗教
シャーマニズム vs アニミズム。

シャーマニズムだと「声」を聞こえるのは、限られた人ですよね。
限られた人にしか聞こえないと、明確に思っている。
でも、アニミズムだと「声」はみんなのもの。
誰もが「声」は聞こえるものだと、漠然と思っている。
この感覚の違い。

この「明確」と「漠然」は、明確に別れるものではなくて、その境目は曖昧なんですけどね。
けれど、一部にその境目を明確にしたものがある。
それが一神教だな、と。
今回『あん』の読書から始まって、つらつらと考えたなかで思った。

この明確化は、どのように為されるか。
それは、conversion の言語化によって。
「聖典」によって教えが広まるということが、conversion の限定になっていく。
言葉から信仰に入っていくことが、そのままconversion の限定なんだな、と。

限定が進むと、それは独占になります。
そういう目で一神教を眺めてみると、歴史が進むに従って、寡占から独占へと進んだのだと理解できなくはない。
現状、一神教の最終バージョンはイスラームですけれど、この宗教は、神が唯一ということと同等か、あるいはそれ以上に「ムハンマドが最終・最大の預言者」ということに重きを置く。


の本で知ったのですけど、ムスリムに入信する際には、
「アッラーが唯一絶対」ということと「ムハンマドに従う」ということの2つを宣誓する。

不思議に思ったのは、前者はわかるにしても、なぜ後者が必要なの? ということ。
最初に宣誓するのはとても大事なことだからのはずなんだけど、それが2つあって、一方は神のことで、一方は人間のことでしょう? なぜこの2つが並ぶのかがわからなかったんだけれど、『あん』の conversion を経ることで、得心がいきました。

なるほど、これは conversion の独占なんだ、と。
そうしないと成り立たない構造をしているんだな、と。

僕の昔話なんですけれど(以前このブログのどこかで書いた覚えもあるんですけど)、
牧師さんに(正確にはその卵に)告解したことがありました。

「神が唯一だということは、理解できません。
理解できるけれど、信じることができません。」

その卵さんは、一生懸命に信じることの御利益みたいなことを説いてくれましたけれど、僕にはわからないとしか応えられませんでした。
今は、その理由がよくわかります。
conversion の限定に違和感を感じていたんです。
僕も、それが神かどうか知らないけれど、「声」を聞くことができると思っているから。
根拠はどこにもないのですけれどね。
無根拠であるがゆえに、どうしようもなく僕の中にあって、揺るがないんです。

不思議ですけれど、ね。


話は続きます。


この僕の確信を、さらに深めてくれることがありました。
そのきっかけは、はじめの『あん』の記事にアキラさんがくれたコメントでした。
映画の方には「まさにそこ」の描写がないよ、という指摘です。

これは非常に面白い。

今の時点ではまだ映画を観ることができないので、ちょっとネットで調べてみました。すると、こんな記事が出てきました。作者ドリアン助川さんへのインタビュー記事です。

http://www.huffingtonpost.jp/2015/07/13/an-sukegawa-interview_n_7790076.html

ここにはドリアン助川さんのこんな言葉が記されています。

映画化のオファーもあったんだけど、聞こえないものを聞こうとする、見えないものを見ようとする人の物語。そんなものを撮れる人は河瀬直美さんしかいないと思った。



実現した映画『あん』の監督は、もちろん河瀬直美さんです。
で、ドリアンさんは映画の出来に満足しているという。
ということは「聞こえないものを聞こうとする、見えないものを見ようとする人の物語」は、映画でキッチリ描かれている、ということなになるはず。

なのに、アキラさんは「まさに、そこ」の描写がない、と仰る。
これは、とてもとても面白い。

先に触れたように僕は映画をまだ観てないし、アキラさんにも確認していないので、「まさに、そこ」が僕の想像しているところとピタリ一致しているかどうかは知らないんです。それを確認しない状態でこの文章を書いているんですけど、本来なら、その確認をしてからこの文章は書くべきなのでしょうけれど、でも、まあ、その必要はないな、と思ってます。だから書いてます。

というのも、ピタリ同じである必要がそもそもないから。
その理由が、非言語ということなんです。問題は漠然とした感覚のほうであって、明確な言葉ではない。

我々にとって、conversionの明確な記述は必ずしも必要ではない。
それなくしても「聞こえないものを聞こうとする、見えないものを見ようとする」姿勢は十分に伝わる。

アキラさんの指摘と作者である助川さんの言葉を信用するなら、そういうことになります。

僕はどちらも信用しています。
なんといっても助川さんは作者だし。
作者が明確に「聞こえないものを聞こうとする、見えないものを見ようとする人の物語」と言っているんだから、そうに決まっています。
そして、アキラさんといえば「漠然とした感覚を明確化する」ということを生業としている人です。
(アキラさんにしてみれば、「感覚はそもそも明瞭なもの」なのかもしれませんが。)

小説『あん』の方を読んでみればわかることですが「「聞こえないものを聞こうとする、見えないものを見ようとする」ということの極点は、明らかに僕が conversion と呼んでいる場面です。「聞こえるはずがないものが聞こえた」と、そう記述されているんだから。

『あん』の最初に出てくる、徳江が小豆の様子をかぶりつくように観察するという描写。
こちら方は「見ようと思って努力を続ければ見ることができるもの」です。
そういうことを読者は意識しないでも諒解します。
その姿勢、見ようと思うという意志。
これは、容易に感知できるものです。

『あん』という小説は、その「意志」が conversion に至るという構造をしている。
つまり、徳江のこの「意志」こそが、この小説の主軸です。
その「意志」を伝達するに当たって、実は conversion そのもの(の描写)は必ずしも必要ではない。

もう一度、整理しますね。
助川さんは、この「意志」を「聞こえないものを聞こうとする、見えないものを見ようとする」と言っています。けれど、最初に出てくる描写は「見えるもの」についてでした。
確かに素人には見えないかもしれない。
けれど、その「意志」を持ち、見ようと努力すれば見ることができる。
この「意志」において、「見ることができる」あるいは「聞こえることができる」かは、決定的に重要な要素ではない。
「見ようとする」「聞こうとする」ことこそが大切で、結果、聞こえようが見えまいが、どちらでもいい。

だからこそ、小説の方には描かれていることが映画には描かれていなくても、伝えるべきことは描かれていると諒解される。誰より作者自身がそのように諒解しています。その諒解に我々は共感をし、だから「生きる力」を分け与えてもらうことができる。

僕は前々回の記事で、もし『あん』から力をもらったとすれば、それはあなたが心の奥底ではお月様や木々の声を聞くことができると「信じて」いるということなんです――と、書きました。ここでもまた、同じことを、少し言い方を変えて書きます。

「意志」を「信じて」いるということは、その結果が問題ではないです。
聞こえようが聞こえまいが、「聞くことができる」「見ることができる」と信じていることが大切。
そして、そう信じてさえいれば、どのように見え、どのように聞こえたかすらも、問題ではない。
というより、「問題にしないこと」が大問題なんです。

この文章の始めに一神教を持ち出したのは、僕の趣味ということもあるんだけれど、それなりの理由もあります。
「意志」という点において、つまりは信仰という点において、一神教もそうでないものも同じだと僕は感じています。
けれど、一神教は「意志の形」を規定しようとする。conversion の限定という形によって。

僕の中では「意志の形」は限定され得ない、つまり「無形」ということと「信じる」ということとがセットになっています。だから一神教とは相容れない。
それは『あん』の読書で改めて確認できたことであると同時に、たぶん(僕を含む)我々に共通のものでもある。
なぜなら、それは、表現においてconversion が必須ではないから。

どのような形であれ、conversion にまで至れば、「形」は出現します。
例えば、徳江においては、お月様の声を聞く、木々の声を聞くという「形」。
いえ、conversion にまで至らなくとも「形」は必須です。

実在であれ、想像上であれ、「個」が定まると「形」が定まる。
逆に言えば、「個」がなければ「無形」である。
「無形」であれども「意志」は共通する。
だから諒解し、共感し、「信じる」ということができる――。

我々はこういう生き物なんだなぁ、と思います。

(そうすると、次の疑問は「我々」に一神教の人たちが入るか否かなんですが。
 僕は入るような気がするんですけどね...)


コメント

なるほど

『というのも、ピタリ同じである必要がそもそもないから』
というのを、まず前提として。

なるほどでした。
そういう方向で読んだのか、と。(^^)

僕のコメントした『まさに、そこ』は、『conversion』のところではなくて、『confession』のところだったのでした。

僕も愚慫さんと同じく、誰もが「声」は聞こえるものだと漠然と思っているんじゃないかという、無自覚の前提を持っていました。

で、小説の方も映画の方も、確かに「聞こえないものを聞こうとする、見えないものを見ようとする人の物語」として、描かれています。

ですが、映画の方は、僕個人の感触としては、『(皆には)聞こえないものが聞こえる、(皆には)見えないものが見える人の物語」として描かれているように思われたのです。
河瀬さんの作品は、どうしても『わたしには聞こえます』の押しつけのように感じてしまう描写が多いと僕には思えてしまうので、今回もそういう風に感じられて、それで今イチだったんです。

僕には、ですから、徳江さんは『わたしには見えます、聞こえます』の人だと思われたので「どうなんだろう?」と感じたわけです。
(僕の周りに「そういう人」が多いからかもしれません)

ところが、小説を読んだら違っていた。
『見えるわけではない、聞こえるわけではない』という『confession』が描かれていたのです。
それがあるなら、全体としてすごくよく分かる気がする。
『まさに、そこ』だったんです。
けれど、映画にはそこが描かれない。

愚慫さんの言う『conversion』は、ですから映画でも描かれています。
「聞こえないものを聞こうとする、見えないものを見ようとする人の物語」は、キッチリ描かれている。

そうして、
>『あん』という小説は、その「意志」が conversion に至るという構造をしている。
つまり、徳江のこの「意志」こそが、この小説の主軸です。
・・・・・・・・
この「意志」において、「見ることができる」あるいは「聞こえることができる」かは、決定的に重要な要素ではない。
「見ようとする」「聞こうとする」ことこそが大切で、結果、聞こえようが見えまいが、どちらでもいい。
<
というのも、同じ感想です。

しかし映画の中の徳江さんは、『わたしには見えます、聞こえます』の人のように、僕には思われたのでした。

追伸です

・・・というわけで、そうであれば僕は逆に愚慫さんが映画の『あん』を観たときに、どういう感想を抱くのか、とても興味が出てきました。

DVDが出たら、是非観て 感想を聞かせてください♪ (^^)

・アキラさん

レス遅くなって、申し訳ありません。
DVDは見ます。これは見なくては。


それにしても、です。

実は、僕の印象では、「confession」の方は、「これは、ギミックだな」だったんです。作為臭を感じてしまったんですね。「conversion」を印象づけるための操作というか。

月の声を聞いて、旅立つ直前に仲間の木々の声を聞いて。それでいいんじゃないの? と思ったんです。


だもので、無意識のうちに思索の対象から除外してしまっていました。

でも、考えてみると、アキラさんの「まさに、ここ」が「confession」だったとすると、助川さんの言葉もすんなり納得できます。


助川さん自身が『わたしには見えます、聞こえます』を訴えたかったんだろうな...。

おっと、これは映画を見て、自分で確認しないと。でも、先入観を持ってしまったなぁ...(^_^;)

僕にとっては、常に療養所の人たちありき、なんですよね。

その感覚で言うと、「月の声を聞いて、旅立つ直前に仲間の木々の声を聞いて。それでいいんじゃないの?」というところだったら、何もハンセン病の人たちを題材にする必然性はないと思うんです。
何だっていい、先天的な難病の人とかでいいわけです。
それでキチンと話が成立するでしょうから。

それで済んじゃうなら、むしろその話は療養所の人たちには失礼な話になってしまうと思うわけです、個人的には。

でも、あの「confession」があったから、小説『あん』は僕の知っている感触に無理なく重なり合ったんです。
そうして、「部外者として寄り添う」というニュアンスで、とてもいい話になっていると感じたんですね。
(現実はもっともっとシビアなわけで、でもそれは当事者が語ればよいことですし、当事者しか語れないことですから)

だから、僕にとっては その「confession」が「まさに、そこ」だったわけです。 (^^)

ちなみに、療養所関係の方々からは、あまり映画『あん』に感動した、共感した・・という話は聞きません。
(難しくて・・という話は耳にしました)
僕には、逆に、「conversion」がギミックっぽいんじゃないかと思えたりします。

愚慫さんが言っていること含め、そんなこんなを考えると、どうやらドリアンさんは狙って書いたわけではなさそうですね。 (^_^;)

・アキラさん

>でも、あの「confession」があったから、小説『あん』は僕の知っている感触に無理なく重なり合ったんです。

ああ、これはとても腑に落ちました。
うんうん、やっぱり対話はするものですね~ (^_^)v

アキラさんの指摘で思い出したことがあるんです。
これは最初の文章に書こうかと思ったのですけど、せっかくの「いい話」に水を差すかな、と思って割愛したんです。それがまさに、

>現実はもっともっとシビアなわけで、でもそれは当事者が語ればよいことですし、

というところ。

僕の最初の『あん』についての文章は、「小豆を焦がさない」というところに触れていたんです。小説の中でも出てきますよね。ここの「見切り」について。

助川さんは、きっとここに神経を遣ったろうと思います。徳江や療養所の人たちは、「つらいことがあった」とは言いますけど、怨みがましいことにまでは一切踏み込まないですよね。そこに踏み込むと、どうしても物語が焦げ臭くなってしまいます。助川さんは、そこをしっかり「見切った」と思ったんですよ。

だから、僕も自分の文章の中でそこを指摘するのは差し控えました。『あん』を「いい話」にするということを、「あん(こ)」を焦がさず見切るということに掛け合わせて文章を展開するのは、我ながらなかなか魅力的だと思えたので、割愛するのはかなり残念だったんですけどね。^^;


僕がギミックを感じたというのは、もしかしたらこの「残念」が影響しているのかも知れません。

元ハンセン病患者の人たちが“焦げ臭い”怨みを抱いていないはずがないと僕は思います。そんなふうに人間は出来ていないと思う。

『あん』は注意深く「焦げ臭さ」を見切ることで、滋味深い優しい味のお話に仕立てました。それでいいと思うんです。でも、だからこそ、僕にとっては「confession」にリアリティが感じられなかったのだと思います。

逆に、もし仮に作者が「焦げ臭さ」にまで踏み込んでいたら――おそらく、としか言えませんが――リアリティを感じていたことでしょう。

そう思えば、あの「confession」は、「焦げ臭さ」のほんの寸前ですよね。

そんなふうに考えなければ生きていけなかった――
なぜそんなふうに? と(自然な)問いを立ててしまえば、もう「焦げ臭さ」が出てしまいますね。ハンセン病、療養所、隔離政策――そうした背景から、暗黙のうちにわかってはいるものの、そのものには触れない。

その意味では、僕は『あん』は元ハンセン病患者の人たちを題材にした必然性はあると思います。



それにしても、面白いです。

僕も「confession」に引っかかってはいたけれど、リアリティを感じることが出来なくて、スルーしました。けれど、このようにリアリティが感じられなかった理由が見えてくれば(それがたとえ独りよがりでも)、もう一段と理解が進みます。元ハンセン病の人たちへのリアリティの無さは相変わらずですけれど、「無い」ことに気がつけば、その周囲の構造がよく目に入る(ような気がする)。

ご指摘、感謝です。

蛇足ですが

ここで終えるのがよいように思えたのですが、やっぱり蛇足で。 (^^;)

僕の知っている範囲で書きます。

「元ハンセン病患者の人たちが“焦げ臭い”怨みを抱いていないはずがない」
です。
これは断言します。
当たり前のことと言えば、当たり前のことですが。

で、ドリアンさんが見切る以前に、そもそも彼らはそういうことを語らないのです。
戦争で深刻な体験をした人たちが、それについて語ろうとしないことと似ているのかもしれません。

今、僕らの目や耳に入ってくるような話は、その中で、おそらく喉から吐き出すのも苦しくてしょうがないような想いで語られているようなことなのだと思います。

関わりの深い「部外者」でも、なかなかそれをほかへ伝えることは難しい。
ましてやドリアンさんのような立場の「部外者」が、やすやすとそれをやってはいけない気がするのです、僕は。

その意味で、愚慫さんが言う「見切り」によって、ドリアンさんはそこをちゃんと踏まえた格好になったものを書いている。
実際の彼らの「焦げ臭さ」は、僕ら部外者には到底分かり得ないことです。
いくら話を聞いたとしても。
ドリアンさんはその「焦げ臭さ」を謙虚に?書かなかったので、滋味深い優しい味のお話になりました。
僕は「それがいい」と思ったんですね。

もしもドリアンさんが聞きかじった「焦げ臭さ」を書いてしまっていたら、それによって愚慫さん(読者)が「confession」にリアリティを感じたとしても、そのリアリティはまがいものでしかなかったでしょうから。
一般的には「らしい」話になるかもしれませんが、でもまがいものはまがいもの。

ですので、仰るように、その「見切り」によって小説『あん』はとてもいい話になっていると感じるんです。

・アキラさん

なるほど、ということは、謙虚であったとするなら(そうなんだと思います)、もし仮に聞きかじっていたとしても書けなかった、ということになるのが順当でしょうね。

そうなると、僕の

>逆に、もし仮に作者が「焦げ臭さ」にまで踏み込んでいたら――おそらく、としか言えませんが――リアリティを感じていたことでしょう。

は、ズレているということになりますね。

そう言われれば、確かにズレています。
うん、でも、何というか、まるで見当違いではないとも思う。

自己弁護かなとも思うんですが、「confession」にリアリティを感じなかったというのは、やっぱり本当のところなんです。となると、僕にその感性がなかったと考えるのが順当かも知れませんが、だとすると、ギミックとも感じなかったろうし、「見切り」の話を遠慮することもなかっただろうと思うんですね。

そうすると、考えてみなければならないのは、リアリティってなんなのか? ということでしょう。


そんな話、昔もしたことがあるように思います。アキラさんの動画引用させてもらって、『当事者の時代』と絡めた話。たしか笠松杵次の葬式で、清吉が怒るシーンでしたよね。

あれは、部外者がやすやすと入るな! という怒りだと指摘した覚えがあります。

(動機が自己正当化だなぁ~、まあ、いいか...^^;)

リアリティがない、というのは、本当にないということなんでしょう。肌触りがない。僕にはすっぽりと、ない。アキラさんもドリアンさんも、どちらもその「肌触り」はありますよね、元ハンセン病患者さんたちの。

とどのつまりは、僕は部外者も部外者なんだ、ということになるのでしょう。これは事実なんで、是も非もないわけですが。

はい、ドリアンさんはいろいろ聞き知っているでしょう。
エントリーで引用されている記事に、
『ハンセン病療養所の「多磨全生園」で・・・森本美代治さんから、ハンセン病の歴史などを始め、いろいろ教えていただきました。
・・・・
森本さんも「その方が広がります。患者のことは患者が書けばいいから」とおっしゃってくれました。』
と書いてありますから。

これは仰るとおり是も非もなく、ドリアンさんや僕には 彼らに対する何となくの「肌触り」が多少ある…だけのことだと思います。
それがあったからといって、彼らのことが理解できるわけでもありませんし。 (^_^;)

・アキラさん

そうですね。「肌触り」があったからといって、理解ができるとは限りませんよね。まあ、それは人間一般に言えることもあるのですが...。^^;

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