愚慫空論

『罪と罰』

『あん』を読了した後、読み返してみようと思った小説があります。
『罪と罰』。もちろんドストエフスキーのほうです。

(マンガにもあるみたいですね、『罪と罰』。
 手塚治虫と、そうでないのとが。
 そうでない方も、いずれ目を通してみたいと思ってます。)

『罪と罰』を読み返してみたいと思った理由。
それは、『あん』の徳江と『罪と罰』のソーニャが重なったから。
重なったけれど、それゆえに違いが感じられたから。


僕が始めて『罪と罰』を読んだのは、二十歳の時です。たった一回だけ。
実はそれ以来、『罪と罰』は読み返していません。
でもなぜか、その読書はとりわけ強く印象に残っています。

わからなかったからです。ソーニャが。

ラスコーリニコフは、まあ、わかります。
不幸な境遇に拗ねてしまって、大それたことを空想し、実行し、失敗した。

ラスコーリニコフほど華やか(?)ではなくてもそんな人間はこの世にたくさんいるし、
これまでたくさん出会ってきた。知己、実在を問わず。

実在なら、誰よりも僕自身。
知己を問わないなら、例えば元少年Aとか。
実在を問わないなら、『あん』のストーリー上の主人公である千太郎とか。

ラスコーリニコフの劣化モデル(笑)は、ごろごろ転がっている。
だから、わかる。感覚的に。
人間なんて、そんなもんです。

もちろんソーニャは「そんなもん」ではありません。
特別なキャラクターです。徳江と同じように。
「悲」の人。

でも、ソーニャはまったくわかりませんでした。
どうしようもない境遇で、なぜ、ラスコーリニコフを救おうなどという離れ技ができたのか?
それが「信仰」に拠るものだということくらいは『罪と罰』を読めばわかるけれども、
その理路がまったく腑に落ちなかった。

にもかかわらず、最期のシーンは強く打たれました。
ラスコーリニコフがソーニャに寄り添われて「覚醒」するところ。
理路はまったくわからないのに、結末を感覚的に受け入れてしまったというギャップの所為でしょう。
僕にとって『罪と罰』、わけてもソーニャは忘れらないキャラクターになりました。


とても大雑把なだけれども、『あん』と『罪と罰』は、似たような構造をしています。
世を拗ねて迷う人物を「確信」の人が生きる力を与える物語。
物語の王道ですね。

僕にとっていまだソーニャは支離滅裂なのだけれど、
先に記したとおり、徳江は、感覚的に、とてもよくわかります。腑に落ちる。

ここは大切なところだから、重ねて記しておきますね。
それは「信の一致」があるから。
「信の形」、具体的に言うなら、木々や月の声を聞くことができるという「信」。

これはなにも、木や月でなくてもいいんです。
森羅万象、あらゆるものの声を聞くことができる。
森羅万象すべてである必要もなくて、その中のどれかでいい。
『あん』では、それがたまたま月であったり木であったりしただけのことです。


回心という言葉があります。
かいしん」と読んだり、もしくは「えしん」と言ったり。
「かいしん」の場合は、英語ならconversionの訳語。
「えしん」なら、仏教用語。
どちらで読んでもいいだろうと思います。

conversion でいうなら、もっとも有名なのは、パウロのそれでしょう。

パウロというのは、いうまでもなくキリスト教の人ですね。
キリスト教は、パウロ教だといわれたりするほどの人。

このパウロ、イエスその人は知らなかったらしい。
クリスチャンでさえなく、それどころかクリスチャンを迫害しようと思っていた。
もっとも迫害というのはクリスチャン側からの視点で、
パウロは体制側の一員として、勢いを増すクリスチャンたちを秩序を紊乱するものとして制御しようとしていただけ。

(こういう構図は、現代にもそっくりそのまま存在しますよね。)

ところがあるとき、パウロは「神の声」を聞いた。
その衝撃な個人体験のおかげで、パウロは回心してクリスチャンとなり、伝道を始めるようになった。
『新約聖書』は、もっとも重要なのはイエスの言動を記した福音書ですが、その他の大部分はパウロの伝道録だったりしますよね。

また、アラビア語の世界であるなら、もっとも重要なのはムハンマドのそれでしょう。
『クルアーン』は、ムハンマドが聞いた「神の声」の記録とされています。

「神の声」を聞いた人のことを預言者といいます。
言葉を“預かる”人。
未来のことを言い当てる予言者とは違います。
一神教世界では、預言者は重要な存在です。

これら一神教を信じる人たちは、この世界を創造した神が存在すると信じます。
ゆえに「神の声」も信じる。
ところが「神の声」は誰もが聞けるものではないですから、その「信」は、直接的には「神の声」を記録した書、あるいは「神の声」を伝える人や組織を信じるという形になります。

ここには矛盾があります。
実在するはずなのに、聞くことができない。感じられない。
だから、信じるほどに渇望が生まれる。
聞きたいという渇望。
ヒトとして、必然の生理でしょう。


『罪と罰』の印象として強く残っているのは、この「渇望」です。
ソーニャはもちろん「渇望」の人。
ラスコーリニコフもそうです。

ただ、ソーニャの「渇望」とラスコーリニコフのそれは違います。
僕の中には、ラスコーリニコフの渇望はあるけれど、ソーニャの「渇望」はないんです。
たぶん、だからわからなかった。

「渇望」があるということはわかるんです。
ラスコーリニコフだと、その渇望の中身もわかる。感じられる。
ソーニャのは、中身がわからない。感じられない。

おそらく、というより間違いなく、ソーニャの「渇望」は作者ドストエフスキーその人の「渇望」でしょう。
それがわからないということは、作品そのものがわからないということなのかもしれません。

が、それでいいと思っています。
そのことを確認したいと思って、だから『罪と罰』を再読してみたいと思った。
『あん』を読んで、「まさにそこのところ」を感じたと思ったので、
わからないということを確認したいという、奇妙な欲求がでてきたんでしょうね。

(小説の方より、マンガの方が先になりそうな気がしますが...)


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