愚慫空論

庶民vs市民(後)

前回の続き。今回は、前回最後で提示した倫理観の対立の解決へ向けて、バカはバカなりに何らかの方向性を示さないといけないのだが...、そこまで行くかな?

庶民の側も市民の側もともに、昨今蔓延っている「新自由主義」には反発している。ともに反発しているけれども、それぞれ反発する理由が違う。庶民は「場の倫理」に拠って、市民は「個の倫理」に拠って反発する。
「個の倫理」にとって「新自由主義」は、個人の自由と平等を競争の名の下に侵害すると受け止められる。一方「場の倫理」では、侵害されると受け取るのは共同体としての絆であろうか。それを「伝統」と称して固守しようとしている。自由と平等にしても絆にしても、それぞれの倫理体系とっては要の部分だ。「新自由主義」はそのどちらも破壊しようとする。
「個の倫理」「場の倫理」はどちらも倫理体系なのだけれど、「新自由主義」は違う。これは倫理とは正反対の「力の関係」だ。これがあたかも倫理体系のように装っている。この「装い」が庶民の側から見れば「個の倫理」に似通っているように見えているのではあるまいか。ここに「場の倫理」が先鋭化してしまっている理由があるように思う。そして先鋭化した「場の理論」は、市民から見れば国家権力の強化に無批判で手を貸すことで、自由と平等を侵害しようとしているように見える。

「個の倫理」も「場の倫理」も、それぞれに豊穣な実りを持つ複雑な体系だが、ともに完全無欠な体系ではない。これらの倫理体系(=道徳)それぞれに新自由主義のような「力の関係」を抑制する力があるが、それは正常に機能すればの話しだ。
日本はもともと「場の倫理」が支配する国で、戦後日本の高度経済成長を支えたのも「場の倫理」。一時的には世界のどの国も実現させたことがないほどの平等な国にしたくらい。だが同時に戦前、日本を破滅に向かわせたのも「場の倫理」だ。これは「場の倫理」が正常に機能しなくなったため。そして現在、また再び「場の倫理」は正常に機能しなくなりつつあるようだ。
どうも「場の理論」はストレスに弱い。「場の倫理」を共有する共同体内のストレスが高まって、そのストレスを跳ね除けようと「父性原理」が強く働くようになると、正常に働かなくなり暴走する傾向にあるように思う。「場の倫理」は「母性原理」と親和性が高く、こちらが強く働く時には先鋭化せず、平和志向となる。
戦後の日本に平和憲法が広く受け入れられたのは、「場の倫理」と「母性原理」のセットが強く働いたからではないか。戦前戦中に強く働いた「父性原理」が敗戦でリセットされ、もともと「場」+「母性」の日本に、偶然にも戦力放棄の条項が盛り込まれた憲法が施行された。平和憲法が出来上がった事情については諸説あって、いろいろと説明が試みられているが、その憲法が日本の国民に広く支持された理由については、見たことがない。これが欧米の国であれば、まずそのような憲法が成立することはなかったろうけれども、何らかの事情で成立したとしても、日本のように戦後60年以上も改正せずに守り続けるということもなかったろう。

注目すべきは、日本と国における「場の倫理」の支配力の強さだ。敗戦によって国民の意識には大変革がもたらされたけれども、それでもまだ日本人の心は「場の倫理」に強く支配されている。庶民の倫理観はいまだに「場の倫理」だ。
だが、そういった日本の中においても「個の倫理」を行動原理とする人たちもいる。つまり市民だ。いるにはいるが少数派だし、かなり特殊な事情をもつ人たちではないかと推測する。
まず思い浮かぶのは、真面目に勉強した人。日本は明治維新から以後、欧米の法体系を取り入れてきた。明治憲法にしても体裁としては欧米の法体系が原型になっている。この欧米の法体系の根本にあるのは「個の倫理」だ。法体系の学習等から「個の倫理」を会得した人。
または「場の倫理」に阻害された経験を持つ人。「場の倫理」の中でアイデンティティを確立させることが出来ずに、紆余曲折の末、「個の倫理」に辿り着いた人。
他にも様々なケースが考えられるだろうが、それらをひっくるめても「個の倫理」を自らの行動原理とする人は少数派に留まる。これは紛れもない現実だと思う。

こうした少数派・市民が庶民と対立しているのが、現在だ。といっても庶民本体と対立しているわけではない。もともと庶民は対立を嫌う。市民と表立って対立しているのは、右翼自身の言い方に倣えば「プロ庶民」である。彼らが先鋭化し、それが庶民本体を右傾化の方向へ引っ張ってきている。そして庶民を右傾化させるのに、市民も一役買ってしまっている。
この対立の典型的な例が、先に東京地裁で判決のあった「国旗国歌」を巡る訴訟であろう。こうした対立は、事象を単純化させてしまっている。単純化させた上で、どちらかを選択するように庶民に迫る。元来庶民はこうした問題には不感症なのだろうが、大きく報道で取り扱われ問題が庶民の意識の俎上に上ることになると、そこで何らかの判断を下される。そのとき下す判断基準が「場の倫理」なのである。「個の倫理」による市民の意見は庶民には理解できない。シンパシーを示すのは先鋭化した「プロ庶民」の意見の方である。左右の対立→問題の単純化→プロ庶民へのシンパシー という回路を経て、庶民全体が右傾化して行っているのだろう。

国旗国家の裁判を巡っては原告の東京都が控訴し、上級審で争われることになった。1審では原告勝利の判決が出たが、2審以降では逆転するのではないかと予想する向きが多いし、最初は私もそう考えていた。
だがよくよく考えてみると、一部逆転はありえるにしても、根本から1審の判決内容が覆されることは不可能ではないか、と考えるようになってきている。理由は「個の倫理」だ。
先にも書いたように、日本の法体系は欧米流、つまり「個の倫理」に基づいたものになっている。先の判決も当然、「個の倫理」に基づいて組み上げられた論理に従っている。上級審を裁く裁判官も「個の倫理」によって判断を下すはずだ。彼らは法のプロであり、「個の倫理」の会得者であるはずだからだ。そんな彼らが1審の論理構成を覆すことができるだろうか? 
もちろん私は法について詳しいわけではないので、専門家から見れば逆転判決は十分可能であるのかもしれないが。
上級審でも原告勝利の判決が出て、それが確定するならばとても喜ばしいことなのだけれど、ひとつの懸念を持たざるを得ない。それは「場の倫理」と「個の倫理」の対決、つまり庶民vs市民の対立が決定的になってしまうのではないか、ということだ。
今回の判決についての「プロ庶民」たちの意見をいろいろと見てみるとわかるのだが、彼らには全く近代法の精神が理解できていない。「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」というのは憲法76条3の条文だが、この記述は「個の倫理」そのものだ。
市民の側から見れば、理解できない庶民が悪いのであって、法がそのようになっているのなら従うべきという論法になるのだが、果たしてそれで決着がつくかどうか。現段階ではまだ裁判官個人の資質への批判で済んでいるが(このこと自体も「個の倫理」に基づく法体系ではあってはならないことなのだが)、上級審で再び原告が勝訴し、庶民が法体系そのものが自分たちの倫理観に沿わないと考えるようになったら? 最悪の場合、反革命に至ってしまう...、というのは大胆すぎる危惧だろうが、これはプロ庶民たちの願望に適っているのでは、とも思う。

いずれにせよ、市民と(プロ)庶民との対立がこれ以上進むことは危険だと思う。市民が自らの「個の倫理」に従って発言・行動することそのものを批判するつもりは全くないが、庶民たちに自らの思いを理解してもらおうと考えるなら、別の方法を検討した方が良い。権力側が「愛国心を涵養」するために国旗国歌を強制するのが拙い選択であるのと同様、市民が自らの論理を声高に叫ぶのは、現状では対立を深化させる結果にしかならないのではあるまいか。そして庶民vs市民の対立は、庶民でも市民でもない人たちを利することになるのではないか。

庶民vs市民の対立を避けるには、月並みだけれど、「理解する」しかないだろう。そしてこれは決して不可能ではないはずだ。なぜなら市民は同時に庶民でもあるはずだからだ。
前編の最初で庶民・市民を定義してみたが、これはあくまで論を進めるためのもので、一人一人の人間がキレイに市民・庶民に分かれるはずもない。接点はかならずどこかで見つかるはずだ。
市民の方々は死刑廃止・残置の議論においては、おおかた廃止論に組しているのではないだろうか。廃止論を展開する中で、重大な犯罪を犯す人間にだって理由はあるのだと、理解の眼差しを向けている。その眼差しをそのまま、庶民の方向へも向けられないものだろうか、と思う。

コメント

おはようございます。ワタシ、かなり特殊な部類のうえ、勉強不足の「アマ市民」です。よって論理もアマい。「プロ庶民」に何か言われるタジタジになってしまいます。
「理解」が出来るか、出来ないかは解りませんが、寛容する努力はしたいと思ってます。
と、読み進むと、最後に愚樵さんも(プロ)庶民を極悪非道の犯人に例えてしまって……、きっと彼らは怒ってますよ(微笑)。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/8-fd014c93

里の秋

 しーずかぁなぁ しーずかなー さーとのあぁきー私の大好きな童謡の一つだ.おそらく懐かしき文部省唱歌.田舎の囲炉裏端で母と子がお父さんを思い浮かべながら夜のひと時をすごしているのだろう.そのお父さんはどこに行ってるのかというと,戦争. どうかご無事で帰っ

「憲法九条を世界遺産に」(2)…マジだったワタシって一体!?

 ♪世界中でたったひとりだけ取り残された気がして……!! どんな答えを見つけるRock,どんな答えが待ってるRockぅううう、Wooo、Wooo、Rock'n'Roll Night、ロクンロウルナイトぉ、wo、うぉ、今夜こそぉ!! ロクンロールナイト、たどりつぅきぃぃぃたぁいぃぃぃぃ!!!♪……暗

「平良夏芽はかく語りき」(1)…沖縄の空気、戦争の予感

 北朝鮮で核実験が……という、ニュースを聞きながら家をでた。 一昨日の夜、以前から予定されていた平良夏芽の講演が、予定どおり開催された。10年ぶりの再会ということで、いやその長い年月以上に「最前線で命をかけて闘う男」と「いくじなし連合に参加するヘタレブロガ

「近代経済システム」における競争

■ 「近代経済システム」における競争 競争原理こそが歴史の進歩や経済社会の活力を支えるものであると主張する論も後を絶たない。 私的所有を基礎とした社会的分業が「近代的市場原理」であるとしたら、その交換過程を通じて利潤をより多く獲得する仕組みが「近代的競争原

天皇の「敗戦責任」

なかで書いているように、「敗戦責任」論を持ち出しているのは、誰某に責任があるかを明らかにしその人を鞭打つためではありません。(どちらにしても、60年ほど昔の国策に関することであり、その決定及び遂行指揮の頂点にあった人たちは亡くなっている問題です)戦前も

『六ヶ所村ラプソディー』

某所でいただいてきた情報を転載します。青森県六ヶ所村の核廃棄物再処理工場とそれを取り巻く人々を描いたドキュメンタリー映画『六ヶ所村ラプソディー』鎌仲ひとみ監督(2006)が、現在東京の「ポレポレ東中野」で劇場公開中です。ところが、これが大苦戦しているのだそう

「国」とは何か、自分の頭で考えてみる

安倍政権が最重要視する教育基本法の改正について考える。特に、「愛国心」を条文に盛り込もうとしている点について考えたい。私はこの問題を自分の思考や経験のレベルから捉えてみたい。とても長い記事になってしまったが、私がこのブログを開設した時から考えていた問題で

死刑存置の希望は本当に「多数意見」か

 luxemburgさんの「とりあえず」で始まった「死刑廃止問題リレーエントリ」が、「お玉おばさんでもわかる政治の話」→「とむ丸の夢」→「華氏451度」→「doll and peace」→「薫のハムニダ日記」の順に続き、ほかに「愚樵空論」「アルバイシンの丘」その他のブログでも

貨幣の怖さは「主-客意識」をも破壊する超越性

●【なぜ彼ら(金融家)はあのように冷酷に成れるのか】チェイニー、パール、ウールジーそしてカソリックの枢機卿たちの“爬虫類顔”におぞましさを感じない人の感性や美意識を疑うくらいです(笑)“彼ら”があれほど冷酷無比になれるのは、「支配-被支配関係構造」を超え

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード