愚慫空論

『あん』

もう11月に突入してしまいました...
またもや存在証明をしなければ (^_^;)

というわけで、『あん』です。
小説です。
いい話です。お薦めです。名作だと思います。



この本の存在を知ったのは、アキラさんのブログ記事でした。
読んですぐに本を注文して。
(ちなみに、映画は観てません。)

今回、何か書こうと思ったとき、すぐに思い浮かんだのが、この『あん』でした。
それで、再度読み返してみた。
やっぱり、いい。
是非お薦めしたい作品です。

最初、『あん』という文字が目に入ったとき、人名を連想しました。
カタカナの“アン”と被ったんでしょうね。
けど、正体はどら焼きなんかの中に入っている「あん」でした。
...“あんこ”としてくれたら、すぐわかったのに (^o^)
まあ、どうでもいい話。

もっとも、物語には「あん」のような甘さはありません。
むしろ苦い。
けど、とてもとても優しい。
そして、それが不思議でもなんでもない。
シンプルなストーリーの上で、不思議ではない不思議が展開されています。
繰り返します。名作です。


『あん』のこの「優しさ」は何なのか?

「優しい」という言葉が拡げる的(まと)の範囲は、かなり広いものがあります。
僕が、この『あん』という物語の的を狙って言葉を放つなら――
そう、「悲」の物語としたいと思います。

僕に「悲」というものが何なのかを気づかせてくれた物語だと言い換えてもいい。

ただ「悲」というのは、「悲しい」というのとは、ちょっと違います。
このあたりは説明が必要ですね。



僕は以前から「悲」という言葉のイメージに矛盾したものを感じてました。

「悲」といえば、「悲しい」で、これはどうしてもマイナスのイメージです。
なにせ、心非ず、ですからね。

けれど、すごくプラスの意味に使われることがある。
ほとんどが仏教の宗教用語なんですけどね。
例えば「大悲」というと、仏の大きな慈悲という意味。

「慈悲」というと、「優しさ」の的のど真ん中という感じですが、
これにしたって、「悲」というマイナスを「慈」という大きな大きなプラスが補う、というふうなイメージを抱いていました。

けど、だったら、「大悲」ではなくて「大慈」になるのでは?
なのに、なぜ「大悲」なのか?

抹香臭い宗教用語だから...と言ってしまえばそれまでかもしれませんが、
どうもそういうのは、僕は引っかかる質で、ずっと心の何処かで気にしていたんです。

その引っかかりを、『あん』は見事に外してくれました。

僕に『あん』を紹介してくれたアキラさんが追究しておられる野口整体の、始祖の野口晴哉氏に『風邪の効用』という本があります。



風邪は治すべきものではない。経過するものである。
自然な経過を乱しさえしなければ、風邪をひいた後は、あたかも蛇が脱皮するように新鮮な体になる。
本書は、「闘病」という言葉に象徴される現代の病気に対する考え方を一変させる。



風邪についてのこの見方は、「悲」についてもそのまま当てはまると思います。
心と身体の違いはあっても。

「悲」は治療すべきものではない。経過させるべきもの。
「悲」が自然な経過をすれば、
風邪を経過させた後の身体が新鮮なものになるのと同じように。
その心も新鮮になる。


『あん』のストーリー上の主人公は、どら焼き屋の雇われ店主である千太郎です。
ですが、内容的には、明らかに徳江。
徳江は若かりし頃にハンセン病を患ってしまって、理不尽にも療養所に隔離されてしまいます。
国の施策がようやく変わって、長かった隔離から解き放たれはしたものの、もう、すでに人生は終盤。
その徳江の人生は、どう見ても「悲しい」ものでしょう。

けれど、徳江は見事に「悲」を経過させていた。

「悲」が上手く経過すると、それは「慈」とよばれるものになる。

『あん』の優しさは、滋味です。
豊かで深い精神的味わい。
 徳江の「慈」が優しさとなって、主人公の千太郎やワカナちゃんに降り注ぐ。
『あん』はその様を描いた物語。
滋味掬すべき作品。
〈生きる〉力を与えてくれる作品です。

またも繰り返します。名作です。



さて、僕の存在証明はこれからです(^o^)

『あん』は名作だと思いますが、万人向けかというと疑問があります。
シンプルなストーリーで「優しさ」の核心に斬り込む作品ですが、それゆえに作品理解の焦点が絞られてしまう。

この難点は、なにも『あん』に限らずあらゆる表現の構造上の問題で、致し方のないことです。
しかもそれは、小説といった芸術上の表現に留まらず、〈生きる〉ということそのものの難点でもあります。

『あん』に関して言えば、それは次の点です。

あなたはお月様や木々の声を聞くことができる、と信じていますか?

現実に聞くことができるか否かが問題ではないんです。
ここは微妙なところですが、「信じている」か否かの問題なんです。

徳江が月や木の声を聞いたと『あん』には書き記されています。
ここに引っかからず、すんなり受け入れられるかどうか?
すんなり受け入れて、悦びを感じるかどうか?

『あん』の描写から悦びを感じたなら、現実問題として聞くことができると「考えている」かどうかは関係ありません。「感じた」ならあなたは「信じて」います。

この「信」が『あん』の鍵になっています。

もしこの「信」がなければ、(たとえ徳江の優しさは感じられたとしても)『あん』は支離滅裂な白けた物語になってしまうでしょう。

ネタバレになってしまいますが、触れずにいられないのでここに記します。
『あん』の物語の上でも、徳江のこの「信仰告白」がクライマックスになっています。

徳江は聞くことはできないと「考えて」いますが、だからといって聞こうとすることを辞めません。
そうでないと、生きることが辛すぎる。
そんな境遇にいたという設定です。

過酷な環境において、「信じる」ことと「生きる」こととが結びつく。
そうすると、「生きること」の意味がひっくり返ります。

徳江は「感じることができれば生きている意味がある」と言います。
他人と比較すると、如何に不幸に見えても関係がない。
「感じた」なら「生きた」のであり、そこにもはや意味がある。

「聞こうとすること」とは、「感じること」の飽くなき追究です。
結果は問題ではない。問われるのはその姿勢です。
飽くなき追究は、その人の主観においては「信じている」に他なりません。

いうまでもなく、徳江は架空の人物です。
けれど、架空か実在かは、読者の主観には関係がない。
『あん』では、徳江と千太郎やワカナちゃんの「信の一致」が描かれます。
千太郎やワカナちゃんは徳江ほどの確信に至っているわけではないが、
それでも「信の一致」によって、生きる力を与えてもらえる。
徳江と千太郎、ワカナの「信の一致」を感じた読者は、その裡に同じ「信
」があるならば、これもまた「生きる力」を与えてもらえる。


つまり逆に言えば、もし『あん』から力をもらったとすれば、
それはあなたはすでに心の奥底では「信じて」いるということです。
お月様や木々の声を聞くことができるということを。

...と言われても、信じられないかも知れませんが (^_^;)



コメント

ひさびさですね

こんにちは。

久々の更新、ここにきましたか。 (^o^)

そう! 僕が感じていたこと、想っていたことも、まさにそこ! でした。
これもネタバレになりますが、映画は「まさにそこ!」を描いていないんです。
というか、映画(河瀬さん)含め、この「まさにそこ!」に気がついてない(気にしてない)人が多い気がしてます。
(ハンセン病関係者含め、いろんな人の感想を聞いた結果です)

愚慫さんが「まさにそこ!」を感じていたことが、僕はとても嬉しいです。 (^^)

アキラさん、コメントをありがとうございます。
嬉しいコメントです。

そうなんですか、「まさにそこ!」が映画の方では描かれていないんですか。


映画の方は特に観るつもりはなかったんですが、アキラさんのコメントに触発されて観てみようと思いました。で、もうそろそろDVDが出ているだろうと思って調べてみたら、来年にならないと出ないんだそうで。まだ上映している映画館があるらしく、出せないとか。人気あるんですね。

そんなこんなでネットを巡っていたら、こんな記事に出くわしました。映画『あん』についてのドリアンさんのインタビュー記事。

http://www.huffingtonpost.jp/2015/07/13/an-sukegawa-interview_n_7790076.html

ドリアンさんは、河津監督に深い信頼を寄せているようですから、「まさにそこ!」が映画に描かれていていなかったのは、必ずしも河津流というわけではないのかもしれませんね。

これは本当に興味深いことです。

続きの文章を書いてみようかな。

映画化をドリアンさんの方からお願いした、ということは知ってました。
またドリアンさんが、「どう生きたら納得できるのか」ということについての、あるひとつの答えを書きたいと思って書いたことも知っていました。

ドリアンさんは「ハンセン病ありき」ではないですよね。
「生まれてから死ぬまで椅子に座り続けて、花や光や鳥を、地球や宇宙や人生を真剣に受け止め続けた人生があったら、それは宇宙的にはあっぱれな人生じゃないか」ありきの人。

だから、その意味で言えば、ドリアンさん自身も『「まさにそこ!」に気がついてない(気にしてない)人』なのかもしれません。 (^o^)

というか、「まさにそこ!」を気にしているのは、僕なのです。
僕の知っているハンセン病関係者の方々の感想の中にも、「まさにそこ!」の話は一切出てきませんでしたし。

ですから、僕が感じた「まさにそこ!」は、ハンセン病だった方々への僕の持っているイメージなのでしょうね。
それと同じようなところに反応した愚慫さんとのシンクロが、ですからやっぱり面白いと思います。

なかなか買うことができず、やっと読むことができました。
はい泣きましたよ、笑
それで再度ブログを読まさせていただきました。
「まさにそこ」がブログ記事のどこを指すのか解りませんが、とてもよい読後感想をよまさせていただき、あらためて納得しました。
ワタシに関していえば、「信の一致」を感じ、「生きる力」をもらったくちです。

ワタシは社会からの疎外された3人だからこそ得たもの、分け合えたもの、という読み方をしていました。
疎外されてしまったからこそ、求めることが出来たのではないか、というイメージ。疎外されていたからこそ真理が聞こうとしたのではないか、、、、あれ? いつかどこかで書いたような、、青カン関係の記事のときだったかな?

ワタシにしても、ついつい社会に乗っかっていこうとしていますが、まだ多少は、こうした小説をよんで力をもらおうとする感性は残っているようです。

DVDがでたら観てみるかな。笑

毒多さん、読まれましたか。
そしてコメントを、ありがとうございます。

毒多さんも「信の一致」を感じられた。
嬉しく思います。


社会から疎外されたからこそ、得られたもの――というのは、そうなのだと思います。
けれど、僕が思うに、それは必ずしも必要条件ではない。社会から疎外されているという境遇は「信の力」に気がつく契機にはなりやすいものではあるでしょうけど。

環境が個々人の「信の力」に気がつくことを導くような環境だって存在すると僕は思っているし、そういう社会が実現することが実現することが僕の夢だったりもします。

(トリコロールフェイスが溢れるようでは、残念ながら...、ですが。)

>必ずしも必要条件ではない

そうですね。「社会」と書いてしまったのは拙いかな。
「今のこの社会のシステムからの疎外」と変更します、汗。

> 「信の力」に気がつくことを導くような環境だって存在する

はい、人間にとって社会が必要な以上、めざしたい社会をもっていなければ「悲」ですね。
「悲」をもって批判だけしていては、「悲」が乗り越えるものではなく、中心になってしまう。ここに陥るのはそれこそ「悲」ですね。とは、分かってはいるつもりなのですが、、、、ふぅ

あいや、毒多さん、それは違います。

>めざしたい社会をもっていなければ「悲」ですね。


目指したい社会を持っていること、もってしまったこと、持たざるを得ないこと。これこそが「悲」です。

ここでいう「悲」というのは、マイナスを踏まえた上でのプラスです。
マイナスを経たプラスの状態を指します。

毒多さんのニュアンスだと「悲」は、マイナスの状態のように読み取れてしまいます。


いつものように、〈悲〉と【悲】にわけて表記すればよかったですね。

意識では解る「つもり」なのですが、上のように書くところをみると解ってないのかもしれませんね。
正直の本音をいえば、現状に「悲」をさほど感じていません。ゆえに頭の中だけの理解ゆえのコメントだったかも。
いずれ愚慫さんの言われることに身体をもっておちるときが来そうなきがしていますが・・・・

私には今はまだ「あん」を読んで感動して落涙したに留めておいたほうがよさそうです。

毒多さん、申し訳なかったです。
否定するようなレスをしてしまって。

一般的な「悲」の意味において、毒多さんの言わんとするところは間違っていないのですよ。


僕の言わんとすることを「身体」をもって感じる。
もしくは(一般的な意味合いで)「身」をもって感じる、でしょうか?

もし後者なら、そうはならないことを切に願う次第です。
だって、それこそが人々の願いじゃないですか。
そのために懸命に生きようとするわけで。

僕は「身」をもって感じないと、「身体」をもって感じることができないとは思っていないんです。
人間、そんなにバカではないと思っています。

いえ、信じている、かな。

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