愚慫空論

〈学習〉とは何か?


〈学習〉とはいったい何か?
これもクラドニ・プレートの振る舞いをみると、とてもよくわかる。比喩的に理解することができる。



プレートが「振動」している。
「触媒」を撒くと、「構造」が視覚化される。
「振動」の周波数を上げる。
「構造」がより複雑に変化する。

この「構造」の変化が〈学習〉である。
〈学習〉が為されると内的「構造」が変化し、外界の認識が変化する。
つまり、風景が変わる。
今までと同じ客観的には同じ現象を見ているはずなのに、違ったものに見える。
今まで見過ごしてしまっていたことに気がついて、細かなところまで見通すことができるようになる。


もっと詳しく見てみよう。
「学」と「習」に分けて考えてみる。

(参考は『生きるための論語』)  



「学」とは知識を受け入れること。
言葉を受け入れること。
「媒体」をバラ撒くこと。

「習」は、“後天的に身につくこと”。

†「学」から「習」への飛躍
 「学」という段階では、受け取ったものが何なのか、学ぶ者にはまだ意識化されていない。より正確に言えば、細部に意識が集中してしまうことによって、全体が無意識化されてしまっている。ここには余計なものが染み込んでおり、この行為によって魂は多かれ少なかれ、呪縛されている。
 それがある時、「習」によって完全に身体化される。すなわち、細部が身体化され、無意識化されることによって、逆に全体が意識化され、「ああこれか」とわかるのである。そうなることによって、不必要なもの、余計なものは解除される。こうして呪縛から抜けだしたときに、人は学んだことを自由に駆使できるようになり、喜びを感じる。
(『生きるための論語』p.19~p.20)



「振動」の周波数が高くなると、「構造」を視覚化するために多くの「媒体」が必要になる。
なので、余分に撒かれた「媒体」は「振動」の周波数を上げることで、使い切ることが出来るようになる。
まず、「媒体」を受け入れ、「媒体」を使い切るために「振動」の周波数を上げることが、〈学習〉である。

学而不思則罔
思而不学則殆

学んで思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)し。
「媒体」を受け入れても、「振動」の周波数を上げないと魂が抑圧される。

思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し
「振動」の周波数を上げても「媒体」が少なければ、「構造」を組み上げることができない。

コメント

『それがある時、「習」によって完全に身体化される。
 すなわち、細部が身体化され、無意識化されることによって、逆に全体が意識化され、「ああこれか」とわかるのである。』

これ、よく分かります。
「受け入れた媒体が組み上がる」=「学習」だというのは、なるほどです。
「媒体を受け入れる」ということだけを学習だと思っているケースも多いですよね。

あと、では一体何によって「振動」の周波数が上がるんだろう?と思いました。
少なくとも「媒体を受け入れる」ということで周波数が上がるわけではないですよね。
「媒体を受け入れる」ということと「周波数が上がる」ということとに、直接的な関係はないということでしょうか。

>一体何によって「振動」の周波数が上がるんだろう?

この問いに答えるのは難しいですよね。

比喩に用いているクラドニ・プレートだと、周波数を上げるには、より大きなエネルギーをかける必要があります。ならば、「魂」にだって、より大きなエネルギーが必要ということになりますが、では、「魂」にエネルギーって? という問いになってしまいます。疑問は解決しませんよね。神秘としか言いようがない。

しかし、この神秘を信じることこそが、私自身「生きる」の基礎だという気がします。

>「媒体を受け入れる」ということと「周波数が上がる」ということとに、直接的な関係はない

いえ、あると思います。「媒体を受け入れる」ときの“構え”ですね。

「媒体」というのは、私はやはり「霊」という言葉を用いて語りたいと思っているのですが、周波数上昇を促すのは〈霊〉ですね。自身の「魂の振動」よりも高いものと思いなして「媒体」を受け入れる。そういう状態が「学習回路が開いている」ということだと思います。

「媒体」は自身の受け取り方によって「振動」を惹起する〈霊〉にもなれば、抑圧する【霊】にもなる。受け取り方だけに左右されるとも思いませんが...、

『大きなエネルギーがかかる』
『「媒体」を〈霊〉として受け入れる』

どちらもなるほど♪です。

『細部が身体化され、無意識化されることによって、逆に全体が意識化され、「ああこれか」とわかる』
このような分かり方だと、決して受け売りにはなりませんよね。
その〈振動〉なりの受けとり方が身体化されるわけですから、ある意味オリジナルですね。
内田樹さんの師弟論にも通じるなと思いました。

アキラさん

武道などの修行の言葉に「守離破」というのがあるじゃないですか。

師匠の“教え”を忠実に「守る」。これは、師匠の「構造」をとにかく受け入れるということになるんでしょう。「学」ですね。

「離」は、「構造」を自分のものにする。師匠のものでありながら、オリジナルになる。「習」。

「破」になると、師匠よりさらに〈振動〉が高くなる。その「構造」は、真の意味でのオリジナルですね。

>内田樹さんの師弟論にも通じるなと思いました。

私もそれを思い浮かべていました。

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