愚慫空論

内田樹のジレンマ

私たち夫婦は、現在の住まいである紀州熊野に越してくる前、都会に仮暮らしをしていた頃には携帯電話を所有していた。ひとりひとつずつ、家族で2つ。仮暮らしの部屋には固定電話はなかった(但しADSL回線は引いていた)。今の時代であれば、ごく当たり前の通信環境といってもいいだろう。
こちらに越してきてからはケータイは2つとも解約すると同時に、固定電話に加入した。ケータイは新しい住まいでも充分通じたけれども、田舎にはケータイは不要だろうという浅はかな先入観があって、ケータイは必要ないと判断したのであった。

田舎にケータイは不要というのには、田舎ではケータイはさほど普及していないだろうという、田舎者をバカにしたわけではなくて、憧れのような気持ちがあったわけであるが、それが間違えた判断であったことはすぐに判明する。さすがに私たちが住む限界集落の大部分をしめるお年寄りたちはケータイなど所有はしていないが、就労している年代以下の人たちはほぼ全員、ケータイは所有していた。それも、もう何年も前から。それもかなりの割合の者が、自宅では携帯は通じないというのに。これには少し驚いた。

驚いたが、私たち夫婦にはケータイは不要という判断は揺るがなかった。別にそんなもの、ないならないでも充分に暮らしていける。現在は仕事の都合で私が自宅にいないことが多いためまた再びケータイを導入したが、それでも約4年間、ケータイなしの生活であった。それまでケータイありの生活を知っていたので、ケータイがあればと便利なのにと思うことはしばしばあったが、どうしてもそれなしでは暮らせないというものではない。多少の不便は我慢すればよいし、そういう我慢はできると思うからこその田舎暮らしでもあったわけだし。


私たちはケータイなんかなくても充分暮らしていける。今、契約しているケータイだって、とりあえず契約時の2年という縛りがあるからそれまでは継続するとして、そのあとはどうしようかと考えている。家族でケータイ2つ、なんだかんだで月7000円ほどの出費(今は、もう少し安いかな?)は、どこかバカバカしいという感覚がある。そんなことにを使うなら、ほかにも有効な金の使い道はいくらでもある。

ただ、私たちのケータイに関するこの感覚は、現代の日本人では少数派であるらしいことは自覚している。私たちの周辺にいるケータイ所有者は、皆、ケータイなしでは暮らしていけないという。そして、そういう感覚のものたちが今の日本人の大多数であるということも、情報としてなんとなく知ってはいる。


ケータイ所有に関するこの感覚の違いで面白いと思ったことがひとつある。それは“どのあたりからが山奥か”という境界線の感覚についてである。私の仕事仲間、ベテランもいれば20代くらいの若者もいるのだが、ケータイ必須の若者たちの感覚で言うと、ケータイが圏外になるところが“山奥”なんだそうである。(山を知らない都会のケータイ必須の人たちにはおそらくこの感覚は容易に理解できると思う。ドライブなどで郊外に出かけ、ケータイが圏外になると“辺鄙なところへ来た”と感じるのではなかろうか)

「もうここはケータイが圏外だから山奥だな」っと若者たちが話しているのを聞いて、私は思わず笑った。この意見は決して合理的な意見ではない。因果関係でいうとむしろ逆で、山奥だからケータイが通じないのである。そうした場所に電波が届くように基地局が整備されていないということだ。

いや、しかし、そうした感覚の若者たちはケータイ圏外の合理的な理由を理解していないというわけではない。そうしたことはちゃんと理解はしている。理解はした上で、圏外≒山奥なのである。そういう感覚を醸成して身に着けている。

この感覚は、ケータイ必須という生活感覚と深い関係があると思う。

私は、いささか大袈裟にいうならば、ケータイ所有のケータイ不要論者である。私の周辺の圏外≒山奥感覚ケータイ必須論者たちは、そのことを理解してくれている。自分たちはケータイなくしては生きていけないが、私はなくても大丈夫な人種だということをちゃんと理解してくれている。それは、私は確かに一度ケータイを放棄し、長期間所有していなかったという「歴史」があるし(みんなにかなり執拗に所有を勧められたが、ずっと渋っていたということもある)、ケータイというアイテムそのものがまだ新しいアイテムだから、そうした可能性があることを充分に理解しているのである。

だが、もし仮にケータイがずっと以前から普及していたアイテムで、また私にそうした「歴史」もなく、もしくはそうした「歴史」があると認知されていない状態で、ケータイ不要論を展開したらどうであろうか? 圏外≒山奥感覚ケータイ必須論者たちは、私のケータイ不要論に理解を示してくれただろうか?

もしくは彼らの仲間内のなかの誰かが、ケータイ普及の歴史的経過とケータイなしの生活を研究し、ケータイ不要の結論に至った者がいたとして、彼らはその彼の結論に理解を示すだろうか? “そんなのはただの精神論”と言われてしまいはしないだろうか?


内田樹という学者は、誤解を怖れずに大胆に言ってしまえば、金持ちの金不要論を展開する。

「格差社会」というのは、格差が拡大し、固定化した社会というよりはむしろ「金の全能性」が過大評価され、その結果「人間を序列化する基準として金以外のものさしがなくなった社会」 のことではないのか。
(『格差社会って何だろう』内田樹の研究室より)

ここで言われる金をケータイに置き換えると、「金以外のものさしがなくなった社会」とは「ケータイ圏外=山奥」という感覚に塗りつぶされてしまった社会ということになろうか。

金が不要いうのは、財の交換・蓄積手段としての金の機能が不要というのではなくて、人間の価値の判断基準としての金は不要ということである。
確かにこんなのは当たり前なんだけれども、現代人は感覚的には必ずしもそうなってはいない。ケータイ必須の若者たちが不合理だと知りつつも「圏外≒山奥」だと感じるのと同じように。

「ケータイがなければ生活できない」「金がなければ生活できない」という感覚
これを「思い込み」と表現してもいいかもしれない)が根底にあるからこそ、「圏外≒山奥」「金が人間の価値基準」というものさしは不合理とは知りつつも、ケータイに支配され、金に支配される。それがケータイ必須社会、格差社会なのではあるまいか?

ケータイというアイテムはまだまだ新しいから「オレはそんなものに支配されていないよ」という感覚は理解しやすいのだろうが、金というアイテムの歴史はケータイとは比べようがないほど、古い。ゆえに「金による支配」は「圏外≒山奥」感覚から脱するほど容易ではない。まして現代は、経済学という、よく考えてみるとあまり根拠のない学問(需要と供給が市場という場で金というものさしを持って計測されるというだけ。そんな計測結果と、ある人にとってある財がどれほど必要なのかという必要性の間にどれほどの合理性があるというのだろうか?)によって「圏外≒山奥」感覚を公理として論理と制度の構築(市場による計測結果によって個々人の必要性が支配されているという仕組みを構築してしまった)がなされ、ますます「圏外≒山奥」感覚が合理性のあるもののようにカムフラージュが施されている。だから「金が人間の価値基準ではない」という至極当然のことが精神論としてしか響かない。

しかし、「ケータイなんかなくても生活できる」「金がなくてもなんとか生活できる」という感覚をいまなお保持している者にとっては、「圏外≒山奥」感覚は不合理そのものだし「金が人間の価値基準ではない」ということも精神論などではない、ごくごく身近な実感なのである。


内田樹という学者がなす数々の評論は、「ケータイなしでも生活できる」感覚によって支えられているように感じる。その「ケータイなし感覚」は金にだけに留まらず、さまざまな外形的・数値的なものにも適用される。

「家族のひとりひとりの幸福や満足」よりも、「家庭が他人から見て幸福であるように見えること」が優先的に追求されている
それは「家庭の幸福」というものがもっぱら「社会的成功」の記号として機能しているということである。
そういう家ではおそらくすべての家族メンバーが「社会的成功の記号」として機能することを他のメンバーから期待されることになるだろう。
年収や学歴や特技など外形的・数値的なものしか記号的には役に立たない。
記号の条件は「誰が見てもすぐにそれとわかる」ということだからである。
「どこでも寝られる」とか「何でも食べられる」とか「誰ともすぐ友だちになれる」とか「相手の気持ちを配慮できる」というような資質は外形的には無徴候であるから、記号的には役に立たない。
だから、そのような能力の開発には現代の家族たちは誰も資源を投じない。
悲しい時代である。
(『たまのオフなのに愚痴ばかり』)

この文章からも内田樹氏が「外形的な記号」をものさしとして用いられることを批判していることが読み取れる。


ただ、この内田樹というお人は、「ケータイなし感覚」を重んじるがゆえに、その感覚に沿った部分のみをピックアップしてしまっている感がないわけではない。さらに内田氏は、「外形的な記号」に支配される感覚を批判しながら、ご自身は「外形的な記号」で飾り立てた場所に座っていらっしゃる。つまりケータイ所有のケータイ不要論をぶっておられるのである。

内田氏はケータイを放棄していた「歴史」を語っていないわけではないし、氏がケータイを不要とする拠所(師を持っていること)も語ってはいる。だが、その理解は氏の文章の読み手に充分理解されているとは思えない。たぶんそのことは氏自身もわかっているのだろうけれども、どうにもそのことは意に介していないようにも見える。だから氏の評論は見る者から見れば、生臭坊主の説教くらいにしか響かないのだろう。

それは確かに無理もないことなのかもしれない。この世の快楽を満喫しながら節制を説いても(氏は何も節制を説いているわけではないが)、耳を傾ける者は少なかろう。ただ、生臭坊主の説法ではあっても、真理の一端は含まれていると思う。

思うに、氏の外形的な記号への批判は決して精神論ではない。しかし、氏が批判を向ける論理で構築された社会への氏の接し方は、ある種の精神論に支えられているように思える。“私は師を持っているから大丈夫だも~ん”という感じの。


あ、「内田樹のジレンマ」について書かなかった。
生臭坊主の説教はそれがたとえ真理でも、それらしく響かないということ(笑)。

コメント

うんうん

>「外形的な記号」に支配される感覚を批判しながら、ご自身は「外形的な記号」で飾り立てた場所に座っていらっしゃる。
ここなんですね。妙に嫌われるところは。
正しいと思って言ってる内田樹は、
じゃあ丸裸になって言えば、わかってもらえるんか~!! 
正しい間違いはそんなことじゃねーだろ~!!
というようなジレンマかな?

たしかにお嬢様大学の教授でいまや売れっ子の人が語ると、胡散臭く思われる部分はあるでしょうね。
この人の経歴を見ると、けっして順調なエリート人生などではないのですが。
それと、フェミニズム(とくに上野千鶴子)に対する評価には、いささかバイアスがかかっているように思います。
それはともかく、わたくしはこの人の発言は「ラジカルな社会変革は不可能だ」という断念のうえに成り立っているように思います。
そこが、一部左派からは「精神論だ」と批判されるゆえんなのでしょう。

携帯電話とは?

内田樹氏には、今まで十分に文句を言ったので、今回は携帯に対しての嫌味です。
サラリーマンにとっては「ポケベルは悪魔の発明」と言われていた時代が昔あったが、時代は進み昨今は防衛庁内局職員などが携帯のGPS機能を利用して現在位置を把握するなどが検討されている。
昔のポケベルと今の携帯では、能力に子供の三輪車とスポーツカーほどの差が有るのに『携帯は悪魔の発明』と言う者は誰一人いない。

確かに携帯は色々と機能があり便利かもしれない。通信が便利になったことは誰も否定できないだろう。
しかし、本当に良いことだけだろうか。?
光あるところに影があり、効用の影に副作用がある。
人類600万年の歴史の内、今日ほど人が電磁波に曝され続けた経験はなかった。
英国の9年間の疫学的調査に因ると携帯の電磁波による悪影響は無いとされている。しかし高圧送電線からの低周波の電磁波による小児白血病の発病は疫学的に証明されている。
それなら頭蓋骨に限りなく近づけて使用する携帯は、距離の二乗に反比例して強まる電磁波の特性から本当に危険性は無いのか。?
絶対に安全と考えられていたアスベストが危険と判ったのは今から30年ほど前。
安全性が高いと考えられたPCBが怖いと判ったのは其の10年ほど前。
同じ時期に便利で安全が謳い文句のDDTの危険性が判ったが、其の頃は自然界に大量に出回った後だった。
便利さと引き換えに、金以外にも携帯の為に失ったものは多いのではないだろうか。?
石綿もPCBもDDTも安価で『安全』で便利だったので長い間大量使用してしまった後に『実は危険でした』と言われても被害者には後の祭り、一般市民は救われない。
便利な携帯電話も2~30年後に『実は危険でした』と言われない保証はどこにも無い。
便利なものが実は不便だったり、良いものが悪かったりするのは人類の歴史がたびたび証明しています。

こんにちは(^^)

ケータイって、なんとまあ余計なものを開発しちゃって!と思いますけど、もはや存在してしまった以上、お守り(子どもとの連絡用)として手放せなくなってしまいました笑 ケータイ会社の思う壺ですねー、やだやだ!  

ところで その内田樹さん、私は存じ上げないんですけど、ご自分はその記号に守られて好き放題言える立場なのでは?
なんだか、おかしいですね。

dr.stoneflyさん>
>じゃあ丸裸になって言えば、わかってもらえるんか~!! 

たぶん、それらしい「外形的記号」が必要だって事だと思いますよ。お坊さんならお坊さんらしい格好、ヤクザならヤクザらしい格好。内田氏の「外形的記号」は外形的記号批判をするのにあまり相応しくないのかもしれません。


かつさん>
>この人の経歴を見ると、けっして順調なエリート人生などではないのですが。

私の勝手な予想ですが、内田氏にとって見れば氏の現在の外形的記号など“たまたまそうあるだけ”程度のものなんだろうと思います。

>フェミニズム(とくに上野千鶴子)に対する評価には、いささかバイアスがかかっているように思います

同感です。私自身はまだフェミニズムそのものをよく理解できていないのでそこを取り上げるのは避けましたが、フェミニズムは内田氏の「不要論」では充分に捉えられない問題のように感じています。

>この人の発言は「ラジカルな社会変革は不可能だ」という断念のうえに成り立っているように思います。

これは私にはよくわかりません。私にむしろ、氏はラジカルな社会変革の条件みたいなものを浮き出そうとしているのではないかと見ています。それが外形記号批判なのですが、氏の論証はいささか感覚的で、充分な外形的論証(≒科学的論証)に欠ける部分がある。そのあたりが「精神論」といわれる理由なのだろう、と。


布引さん>
>内田樹氏には十分に文句を言ったので、今回は携帯に対しての嫌味です。

なんだ、少し残念。また布引さんの毒舌を聞けると楽しみにしていたのに(笑)。

>確かに携帯は色々と機能があり便利かもしれない。通信が便利になったことは誰も否定できないだろう。

ケータイがこれほど普及したのは、私は単に便利になったからという理由だけではないと思っています。それ以上の理由、そうですね、いわば酒飲みが酒を飲まずにいられないといったような理由がある。

とにかく酒が好きという人も世の中にはたくさんいますが、心に開いた穴に酒を流し込まずにはいられない人もいる。演歌の世界ですね。日本の若者がケータイにのめり込むのは、寂しい主婦がキッチンドリンカーに陥ってしまうのと同様の心理的理由があるように感じられて仕方がありません。

そうした理由を持つ者にとっては、いくら体に悪いからといってもなかなかケータイは止められないでしょう。アル中が酒を止められないのと同様に。


ママちゃん>
>ケータイって、なんとまあ余計なものを開発しちゃって!

家計的にですか?(笑) 

>お守り(子どもとの連絡用)として手放せなくなってしまいました

そうでしょうねぇ。世の中がこれだけ不穏な雰囲気になると。

ケータイも余計なものですが、金(カネ)はさらに余計なものです。いえ、余計な機能を持ちすぎたと言った方が正確かな。モノを購入するとか貯金をするとか、そうした機能は必要でしょうけれども、「金利がつく」という機能は必要ないでしょうね。必要ないどころか、これが今の社会の諸悪の根源みたいなところがあります。

ただ、これがなかなか感覚的に理解できないんですね。

内田流格差論と携帯とカルト

内田流格差論については>生臭坊主の説教はそれがたとえ真理でも、それらしく響かないということ<
これ以上に短く的確な批評はありませんね。

逆の例え、言い方では、碧巌録の『心頭滅却すれば火もまた涼し』に対しては色々評論や批判が出来ても、炎上する恵林寺の山門に立つ快川禅師の『心頭滅却すれば火もまた涼し』には誰も反論できない。


携帯はもはや電話ではないんですね。いまや電話機以上のモノになっている。
愚樵さんの酒の例で、嗜好品としての『酒』の範囲を越えて依存症のレベルに達している話と、内田流格差論と携帯の類似性の話。
私はこの二つにカルト宗教を加えてみました。この三つの類似点の話です。
面白いことに依存症の特徴(定義)がカルト宗教のマインドコントロール下の特徴、定義と酷似しているんですね。
「比較に必要な価値観のすり替え」によって「物事を社会的な軽重に照らして比較(社会的比較)する能力」を奪うのがマインドコントロール。
知性や判断力に問題があるのではなく、「比較する力」が歪んでいる状態で、色々な依存症状態と酷似しています。
カルトの一番の特徴は癒し、救い、救済、喜び(快感)と不安、恐怖、悪、懲罰(苦しみ)、「救済と不安(恐怖)」の対比でこの点も依存症の症状と酷似している。
一番大事な類似点は本人の自覚の無さ。此れは依存症の特徴の自身の『否認』と酷似しています。
内田流格差論信者達の内に一人でも自身の依存症を自覚しているものはいるだろうか。多分一人もいない。

カルトのマインドコントロールを学者風にマイルドにしたものが内田流格差論といえば言いすぎだろうか。

正しい事言ってる?うそでしょう

すみません.ひとことだけ.いつの間にか内田さんが正しいことを言ってる,という方向に固まりつつありますが,ウソでしょう?いや私はその一度しか見てないので強くは言えませんが・・・
次のような喩えでいけませんか?
布引さんの例を取って言えば,『炎上する恵林寺の山門に立つ快川禅師の言』の代わりに,内田氏の方は離れた所から『炎なんてないよ』と言ってるのと違いまっか?

生臭坊主をなめてはいけませぬ

かのとんち小僧の一休さんも名うての生臭坊主でしたが、世の中「生臭坊主」の言うことだからこそ、信用できるという場合もあるのでは。
私としては、不犯不殺生の坊主よりも生臭坊主のほうにはるかに魅力を感じます。ちょっと話、ずれましたかね。

「人間は社会的動物である」というアリストテレスの命題をそのまま受容するとすれば、「精神論」は社会的存在である人間の本質を語る上で重要です。言語学の立場からいえば、実際に人間が生誕以降獲得する「言語」は社会に依存した産物であるということになるのであって、社会が個人の言語を規定する要素が大きいと思います。つまり、社会は言語獲得のアプリオリな要件であるわけです。

さてこのような言語という視点から見てみるならば、「精神論」こそ「具体」であり重要であるといえるでしょう。人間がその生存のために所属を余儀なくする「社会」から様々な圧力を受け、その「精神」を変容させざるを得ないと言うことはほとんど否定不可能でしょう。そうであれば「精神」の動きをどのように推し測っていくかが、学問上の問題でもあるでしょうし、場合によっては逃れられぬ宿命を彼岸の存在を告知することで受容するための「精神」のテクノロジーを提供すべき「宗教」の、大きな役割でもあるでしょう。宗教はこの現世の社会的な「格差」を、来世において逆転させる機能があり、それを信じることで現世に生きる人々の精神の維持を図る重要な機能が存在しています。

現代の日本人は死や病や天変地異などなどの、運命のいたずらによってこのような逃れられない宿命を、人間のん力で乗り越え可能であるという言説で、空想的に否定することで「宗教」を徹底的に忌避する傾向を持ちます。しかし、その宗教性は隠れて「人工的」に温存されているといえなくもありません。

このような立場から「携帯」を眺めてみると、一種の宗教感覚の否定が読み取れるような気がします。携帯で社会とつながっている、個人の不安をその永続する会話で解消することが可能であるという感覚は、ある意味で現代の「護符」という意味すらもつように思います。

護符が古代以来、神との会話の糸口であったということを考えあわせるならば、携帯で話している他者は現実の相手ではなく、もはやその人にとっての「神」でしょう。昔の人々はこの現世で人と語り合うように、護符を通して彼岸と語り合ったわけです。たしかに、携帯を持っていれば、たんにビジネスのうえでスピーディーに便利であるだけでなく、救急車もすぐ呼ぶことができますし、不安な心理が起きればそれを手軽に友人との会話で紛らわせることができるからです。

まさに現代日本人が潜在意識の中で求めている宗教性は、人工的に歪められて発露しているということができるかもしれません。古代以来の護符は、現世からの必死の問いかけに対して「沈黙」という返答をしました。人々は「人間の願いが、聞き入れられるも拒絶されるも、神の計らいである」というふうに神の大きな手の中で喜びも苦しみも忍んで受け止めるべきことを学んだのです。それが死によって限界づけられた人間が悟るべき、分であったはずです。

すべてを答えてくれる現代の「護符」は、「人間の心に逃れられない運命などこの世にないのだ」という傲慢な心を育て、他者との共感を本当に阻害する要因となっていないとは言い切れないと思います。その意味で、本来の「信仰」とは離れた、空想的信仰の神に現代人は救いを求めて、語りかけているといえなくもないでしょう。

当事者主義の問題

問題の存在は、当事者でなければ分からないこともあります。
しかし、問題の解明は当事者ではなく第三者だからこそできる場合もあります。
もちろん当事者には絶対に不可能というわけではありませんが、その場合は当事者としての立場からいったん離れることが必要です。
「評論家」や「学者」の理説に反発する人は、この二つをしばしば混同しているように思います。
火の熱さは確かにその中にいる人しか分からないかもしれません。しかし、その問題を解決するには、頭の中だけでもいいから、いったんその外に出る必要があるということです。もっとも、その前に焼けちゃっては困りますが。
当事者の言葉には確かに否定できない力があります。だからといって、その正しさが保証されているわけではないですね。

>> 当事者の言葉には確かに否定できない力があります。だからといって、その正しさが保証されているわけではないですね。

同様の問題は死刑に関する最近の議論でもいえるかもしれません。

内田樹=生臭坊主説は

内田樹=生臭坊主説は受け入れていただけたようで(笑)。先生は、世が世なら、きっと本当に生臭坊主をなさっていたことでしょう。それも侮れない生臭坊主に。

内田坊主の説教は、全部が全部ウソというわけではないと思います。玉石混交といったところでしょうか。つい最近、出先の宿舎でTVを見ていたところ、細木和子が説教を垂れているのを拝聴する羽目になったのですが、これ、内田坊主と同じかも、と思ってしまいました(笑)。
「いいことを言う」という話から、「見方を変えればそれもよし」、そして「それは違うだろ」という話まで、実にいろいろなレベルの話が入り乱れている。それだからこそ、人気も出るのだなとひとり納得した次第。

人間は宗教的動物である

MSさん

人間は社会的動物であると同時に宗教的動物でもあります。世の中には無神論を信奉する人も多くいますが、私はこれも一種の宗教だと思っています。

MSさんは一神教的な見地から日本人の傲慢さを批判します。その批判はあたっていると私は感じます。ただ思うに、その傲慢さはある種の未熟さからくるものです。つまり一神教的見地からみた未熟さ、自らのアイデンティティを「個」ではなく「集団」においてしまいがちなメンタリティからくる未熟さです。

一神教では、「個」は神と直接対峙することを求められます。しかしこれは「人間は社会的動物である」というアリストテレスの命題から外れるものです。一神教は、精神的に人間を孤立させることを求めます。つまり一神教は、個的宗教といえるでしょう。

対して日本人のメンタリティは、社会的宗教をもとにしています。「人間は社会的動物である」ということと「人間は宗教的動物である」ということとが同じベクトルを向いている。自然か人為かという観点で見れば、私はむしろ日本人的宗教メンタリティの方が自然であると考えます。

根本的なメンタリティが自然であるがゆえに、かえって人工的なもの(合理的・科学的精神)には不慣れ。その不慣れな未熟さが傲慢と映るのではないかと、そう見ています。

日本人のケータイ依存症も、社会の表層は「個」を基本単位にするものになりつつあるも、根本的メンタリティは社会的宗教から脱し切れていないゆえの、心理的コンプレックスからくるものでしょう。

こんにちは。
更新されてないので、、どこにコメントしようかと悩んだのですが。。。ま、いいか、ここに付けます!
ようやく落ち着きました、励ましのコメントをありがとうございましたm(__)m
また寄らせていただきます(^^)/

「限界集落」と「限界国家」

愚樵 さん
コメントありがとうございました。

私は都会にいていつ親を引き取るかわからない立場ですが田舎に帰った仲間もいます。
昨今の状況を見ると、「限界集落」と共に「限界国家」という言葉があってもいいのかもしれません。

今後ともよろしくお願いします
(私のブログにも同文を書きました。)

今晩は。何度も、しかも、横レスですみません。
>布引洋
さんの
>炎上する恵林寺の山門に立つ快川禅師の『心頭滅却すれば火もまた涼し』には誰も反論できない。

S.ヴェイユが『ローマ帝国に喜んで殺されるクリスチャンを』批判してました。彼等の信仰はローマの神々を祭る者達と同じく信仰という『力』に屈していると『恩寵と重力』で。その精神力の強さには感服しますが、そういう火事場のクソ力的なものが要る「極限」というのもあるのかもしれません。その辺を宮崎哲弥氏が藤田省三氏の『鴎外』に対する「読み」に絡めて、朝日新聞で書いておられました。
http://www.shgshmz.gn.to/shgmax/public_html/review/asahi_nationalism.html#2 
「97年、ジェノサイド実行者の残党が寄宿学校を襲い、十代の女子学生17人を捕らえ・・襲撃犯が少女たちにフツ族とツチ族に分かれるよう命じ・・彼女らは「自分たちはただルワンダ人である』とこれを拒んだ。そして無差別に射殺された・・(フイリップ・ゴーレイヴイツチ『ジェノサイドの丘』WAVE出版)。
 この話も一見、単なるナショナリズムの発露のようにみえる。無論、そうした側面もあったに違いない。だが、その裏で『偶然に繰る或る不幸』 (藤田)を事もなげに引き受けてしまえる意思が働いている。安逸に流されず、偶然の不幸、死の虚無を見据えながらも、なお善く生きることを求め続ける意思。これこそがナショナリズムに内在しつつ、ナショナリズムを超える自由の可能性ではあるまいか。」

「精神論」でいいじゃないか

内田さんみたいに割り切れるかどうか、ということもありますが、携帯が必要だとか、テレビが必要だとか、金がいるいらないとか、そういうのは結局は「生活スタイル」によって異なるものです。
確かに、現在の世の中でカネがないと食べることすら困ることもありますが、そういう最低限のことが確保できれば、あとは「何が幸せなのか」ということに尽きると思います。

「幸せ」とは「感じるもの」であって「決めるもの」ではない。財産が多くてもいつも命を狙われ、時間に追われているのがいいのか、貧乏でもゆったりとした自然の中で生きているのがいいのか。
大豪邸の中で家族が各自バラバラに自由に過ごしているのがいいのか、小さな家で家族の団欒がある生活がいいのか。
そんなのを私に決めろといわれても、私自身困ってしまいます。

宮崎哲弥は「?」

三介さん>

宮崎哲弥の文章、いいですねぇ。この方、TVでよく見かけるのですが、そちらのほうの印象はさっぱりなのに、ご紹介の文章はいい。「死の虚無」という言葉の使い方には違和感がありますが、「『偶然に繰る或る不幸』を事もなげに引き受けてしまえる意思」なんてところに感じることができるのは、大したものだと思います。

...だがしかしこれは、TVでの彼の発言とは完全に矛盾する。TVでは死刑を求める本村氏に全面的に賛同して「友」とまで言った。なら友に“『偶然に繰る或る不幸』を事もなげに引き受けてしまえ”となぜ、いえないのか。ジェノサイドを偶然というなら、本村氏の妻子が殺されたのだって偶然でしょう。

やっぱり私は宮崎哲弥は信用なりません。

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 生活保護基準の切り下げがされようとしている。原油価格高騰やらバイオ燃料やらで食料品でさえ値上がりしているなか、これまででさえギリギリの生活をしている人々にギリギリ以下の生活を強いるのか!? 死ねっちゅうんかい!? 福田の所信表明はなんだったんだ。なにが「格

クラスター爆弾と日本

何日か前の毎日夕刊の記事ですが、クラスターの不発弾が投下国に除去責任のあることが禁止条約に盛り込まれることになったとか。 今年2月にノルウェーのオスロで開催された49カ国が参加した会議で、2008年中にクラスター爆弾

現行消費税制度のまま消費税率をアップしていけば国民経済は崩れていく 上

お二人は、消費税“精算”後に事業者の手元に残る利益金額を比較して現行制度の正統性を説明されています。しかし、これまでも書いたように、消費税制度は、法人税と違って付加価値に対して課税されるものですから、利益金額とは直接関係ありません。(赤字法人でも消費税を

山田洋行 インド洋給油

すごい。一昨日23日付の「日刊ベリタ」に掲載された「山田洋行がインド洋給油に介在」。 「自衛隊の退官者や現役隊員らで組織する非公式情報機関は22日までに、11月1日から停止されている海上自衛隊のインド洋での給油活動に

フザケンナ!! 麻生太郎元総務大臣が郵政民営化の失敗を公言

来年も年賀状は元旦に届かない!? 問題噴出「日本郵政」11月27日10時0分配信

自分の問題としての環境問題(下)

 (前回からの続き) 「アマゾンで地球異変〓」(11月13日)は、貧しい農民がアマゾンの森に火を放ち、土地を広げてコメやトウモロコシを植える状況を描いている。[画像] 「アマゾンで地球異変〓」(11月14日)は、野生の行動を引き裂く道路について描いている。アマゾン

大晦日

写真は京都南禅寺聴松院の狛猪です。 今年はみなさんにとってどのような一年でしたか

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愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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