愚慫空論

「媒体」


前回「触媒」ときて、今回は「媒体」。

実は、「触媒」と「媒体」は“同じもの”なんだよね。

もう一度前回の動画を。



プレートが振動しているところに、砂を蒔く。
そうすると、砂が「触媒」となって、振動のなかに潜んでいた“構造”が顕在化する。

この“構造”はプレートの材質とか振動数によって決まっている。
けど、見えない。

砂は構想を可視化・顕在化させるだけで自身は何も変化しないから「触媒」。
変化しないから可視化・顕在化させることができると言えるかもしれない。
また、変化しないから他人と共有することができる。だから「媒体」。


こんなことを考えながら思い出したが、ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』に紹介されていた話。
下巻12章の「文字をつくった人と借りた人」のなかの「インディアンが作った文字」というセクション。

『銃・病原菌・鉄』

1820年頃、アメリカ・アーカンソー州にセコイアという名前のチェロキー・インディアンがいた。鍛冶屋だったセコイアは、そのころのインディアンの多くがそうであったように、読み書きが出来なかった。白人たちが紙になにやら記号を書き込んでいるのは知っていたが、何をしているのかは謎だった。

そんなセコイアが文字を発明してしまう。『銃・病原菌・鉄』では「アイディアの模倣」と表現されている。白人が話す英語を全く理解できなかったセコイアは、文字の形こそアルファベットの模倣だけど、英語とは全く関係なしにチェロキー語の文字を作ってしまった。

このことが出来事が示すのは、文字を知らなかった人間でも、文字を作るだけの“土壌”は持っているということ。土壌はあるから、「アイディアの模倣」という“種”を蒔いてやれば発芽する。振動しているプレートに砂を蒔いてやれば潜んでいた“構造”が顕在化してくる。


英語を「教育」などする必要など、別にない。
チェロキー語の“構造”は英語とは当然、違うから、文字がなくて読み書きが出来ないインディアンを哀れんで、白人がお節介にも「教育」を施そうとすると、それは、潜在的な“構造”を破壊してしまうことになる。

そのような啓蒙教育は数限りなく行われてきたし、今も行われているだろう。
現に、言語はその数をどんどん減らしていると言われるし。
でも、言語は「媒体」だから、共有するためのものだから、社会が「発展」して大きくなると、必然的に減っていってしまう。
守れ! といっても守れるものではないだろう。

コメント

ここではおひさしぶりです。

どくたさんとこがにぎやかですね。

かのブログのコメント欄という「媒体」で、コメントという「触媒」を通して、いろいろな模様が描き出されていますけど、同じ模様を見てもそれぞれのひとで受け取るものが違う。

その中にも理解が似てる人もいれば、ぜんぜんかけ離れている人もいる。

みんなの理解が一致するする必要はないと思うけど、ひとそれぞれの理解の歪みは多かれ少なかれ確かに存在して、それは本人のためにも直した方が良いと思いますね。

理解の歪みは誰にでもあって、それは正した方がよいーーというならば、如何にもの正論ですが、そういった類いのものにはマユツバをしてしまう愚樵です。( ̄▽ ̄)

人間がそれぞれに歪んでいるのは自然なことですよね。「歪んでいる」というより「違っている」と言った方がいいかな?

違っているのを受け入れることができるか? できれば、多少時間はかかるかもしれないけど、自身が変わって行くことができる。変わった姿もまた歪みでしかありませんけど、それでいいんじゃないでしょうか?

Re

そう、『正す』のはマユツバですよね。
私も「みんなちがってみんないい」というスタンスで、それを「歪み」とは捉えていません。
いつも通り私の作文はなんか大切なキーワードが抜け落ちるようです。笑
私のいう「歪み」は「バランスのとれてない状態」とでも言いましょうか。
バランスの具合というのも人それぞれなんでしょうが、必ずどこかにバランスがとれる「点」?「面」?は存在するとおもっています。
それが狂っているとやはりどこかに無理が出るので痛みや不具合で表面化し、しかも原因が掴みずらいところから、意識的、無意識的に、そとに出てくるものにもそのアンバランスが現れるのではないでしょうか?
そこは私はバランスを取る方向に持っていく事は正しいことだと思います。
しかし、これはなかなか外からは難しいですよね。愚樵さんの方がわかっているとは思いますが。

すぺーすのいどさんのおっしゃりたいことは、わかります。「歪みを正す」の時点で、すぺーすのいどさんの言わんとすることは察しはついていましたし、その表現が間違いと思ったわけでもないのですけど、ただ、私はそういった表現はしないので、言い換えさせてもらいました。

バランスが狂っているというのは、端的に病んでいるということですね。病んでいるとは、クラドニプレートで例えて言えば、砂がプレートにくっついてしまって、周波数が変化しても模様が変化していかない、といった感じでしょうか。

周囲から波動を受けると、プレートの振動に影響が出ますよね。コミュニケーションをすると影響を与え、影響を受けるわけですが、健全なら受けた影響に即して砂の描く模様も変化するはず。多少時間はかかるかもしれませんが。

振動と模様とが食い違ってしまう。こうした状態が、すぺーすのいどさんのおっしゃる「バランスが狂っている」ということなのだと思います。

人は多かれ少なかれ、こうした症状がありますよね。特にオトナになれば。プレートに傷がついてしまって、傷の隙間に砂が入り込んでしまうようなことが起きる。「魂に傷が付く」というのは、そんなことだと思っています。

(^。^)

>バランスが狂っているというのは、端的に病んでいるということですね。

そうそう。そうゆうことです。
さすがは愚樵さんですな。

話は戻りますが、
「結局この病は治る(直る)んですかね?」
この言い方は変かな?
「復旧可能なんですかね?」
これもどうかな?

最終的には自分自身で自分自身を変えるしかないので、他人の心配してもしょうがないのですけどね。

すぺーすのいどさん

この病は治癒可能なのか?

嬉しい問いですねぇ ^_^
もちろん可能ですとも。

(^^ゞ

>嬉しい問いですねぇ ^_^

嬉しいんですかぁ?笑

先ずは本人にその病に気付いてもらわないといけない訳ですが、多分そこが第一の難関な気がします。

すぺーすのいどさん

それは難しいですねぇ。その関門をこえれば、半分癒えたようなものですからねぇ。

けれど、優しくする方法がないわけではないと思っているんです。
環境を整えること。これですね。

人間は適応力の高い生き物ですから、環境が整えば、そこへ適応していきます。
逆に、病むのも環境に適応した結果なんですね。

ただ、人間は環境を改変する力がある。
生き物はみな環境を改変するんですけど、人間のそれは極端に大きい。
人間が改変した環境に人間が適応することで、人間が病んでいく。

病んだ環境のなかで自分が病んでいると気がつくのは、病んでどうしようもなくなったときなんですよね。不幸がないと気がつかないし、不幸を乗り越える力がないと気がつく前にどうしようもなくなってしまいます。

人類はそういう歴史を繰り返してきて、ついに放射能をまき散らすところにまで来てしまったという悲しい状況です。

>けれど、優しくする方法がないわけではないと思っているんです。
>環境を整えること。これですね。

そうですよね。
人間は適応するのは得意ですからね。

あ、でも実際には身体の適応はそれほど幅は無くて、幅があるのは脳の認識なんですよね。
結局のところ「脳はだまされやすい」ということなのですね。

私は逆だと思っているんですよ。
カラダの方が適応の範囲が広い。というより、適応はカラダの領分だと思うんです。
適応しようとするカラダをアタマが補助する。もしくは阻害する。

脳が欺されやすいのはそう。
脳≒アタマで、なおかつアタマとカラダは密接につながっていますから、
脳が欺されるとカラダも欺される。それで適応が阻害される。

適応は、言い換えれば成長であり〈学習〉です。
成長しようとする生き物を型にハメるとストレスが溜まるじゃないですか。
そうすると「ざわざわ」することになると思うんです。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/782-84f6c2db

 | HOME | 

 
プロフィール

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード