愚慫空論

人間は敵か味方か?

「ばらばら」の続きで考えている。人間は、人間自身の敵か味方か? 

常識的にミクロに考えれば、ケースバイケースだろう。人間の中に敵もいれば味方もいる。

では、大きくマクロで考えればどうか?
いろいろと突っ込みどころはあるけれども、味方というのが大方の答えではないだろうか。

エートスという学術用語がある。
一定の社会集団(民族など)を暗黙のうちに支配する倫理的な心的態度というような意味だが、「人間は人間の味方」というのは、最もベーシックなエートスのようにも思える。人間が社会を営むことができるのは、味方同士だからのはず。

しかし、これはもしかしたら、日本人のような特殊な人々のエートスでしかないのかもしれない。
ずいぶん前から、民主主義は闘争が前提だと私は考えるようになっているが、だとすると、「人間は人間の敵」がエートスだということになる。

人間は敵同士。なので殺し合う。戦争をする。
が、殺し合っていては大変なので、殺し合わないで済むための仕組みを作った。その方法のひとつが民主主義。
近代民主主義に欠かせない議会は、ホンモノの殺し合いを回避するための代替機関。
憲法は、国家というバケモノが国民を殺さないようにするための契約書。

「人間は敵」がエートスだとして、殺し合いを回避するのに民主主義以外に合理的な方法があるだろうか?

おどろきの中国


民主主義よりもずっと昔に殺し合わない方法論を確立したのが中国――と上掲書で明記されているわけではないけれども、橋爪大三郎×大澤真幸×宮台真司の鼎談から浮かび上がってくるのは、そういうことなんだろうと思う。



鼎談は、中国は「国家」なのか? という疑問提示からスタートする。
中国が国際社会から主権国家として承認され振る舞っていることは厳然とした事実だが、その中身はどうも国民国家(nation state)ではないようだ。中国は国民国家を作り上げた西洋の物差しでは測ることができなさそう。では、中国を中国たらしめている「同一性」は何なのだろうか?

中国は歴史上最も早く、しかも大規模に統一を成し遂げた場所である。
そのような偉業が成立した最大の理由は、地形。真っ平らな平原がどこまでも広がる。中華平原。
集約的かつ大規模な農業が行いやすい。そうなると「獲物」を狙って大勢の人間が集まる。戦争になる。
広大は平原は、戦争をしやすいと同時に、政治的統合を成し遂げるにもコストが安くて済む。

中華平原を最初に統一した秦は、統治理論として法家を採用した。信賞必罰の思想だが、うまく行かず秦は短期で崩壊。つづく漢は儒教を採用し、うまく行く。

儒教は統治の技術を提供するノウハウの塊。
儒教の根本は先祖崇拝である。トップリーダー(君主)が有能であった古代を理想化し、有能君主を確保するための「禅譲」を最善とする。しかし、「禅譲」では政治は安定しない。それで次善の策として、君主を支えるブレーンに有能さを求め、君主を支えることを是とした。
先祖崇拝は同時に、中国を支える農民にもアイデンティティを提供する。さらに、農民のなかから有能な者を選抜する仕組みも出来上がる。

儒教は「天」という思想も提供する。
「天」は「天子(皇帝)」に中原の統治を託す。
統治を託された天子は、有能な人材を選抜して統治を実践する。
このようにして秩序づけられた社会では、人間同士が味方である必要は必ずしもない。
その意味では近代民主主義と同じ。

西洋式近代民主主義と中国方式の違いは、統治を託されるのが大勢かひとりかの違い。
近代民主主義は、絶対的存在である創造神から一人前の存在として認められた市民が闘争しながら政治を行う。
中国では、絶対的存在である天から、一人前として認められるのは天子ただひとりで、有能な手足(官僚)を使いながら政治を行う。

そして、近代民主主義的闘争も、天子の治政も、目的とするところは同じ。殺し合いの回避である。
ただ、殺し合いを回避するために殺すことは許される。この倒錯した論理は、近代民主主義社会においては主権国家間の戦争を是認する論理になるが、中国式では統治のために人民を殺害を認める論理になる。


人民を殺害できる論理が働く社会で、「国民」などという幻想が機能するはずがない。
互いに敵同士の人間が、ぎりぎりで衝突を回避しつつ秩序を構築している闘争社会。
あからさまな闘争社会を秩序づけているのは、天-天子という基軸である。この軸さえしっかりしていれば、統治手段である儒教でさえ捨てることが出来る。

大勢の犠牲を強いた文化大革命は、天子の位置に座った毛沢東が、統治手段である儒教を廃棄することによって生じた混乱だが、この混乱を通過することで、中国は「近代化」へのステップを超えることができた――というのが、橋爪大三郎が提示する見解。

近代化した中国人は「毛沢東」を求める。なぜなら毛沢東こそは、人民に直接政治へ参加する道を拓いたから。闘争社会に生きる中国人は元来徹底的に個人主義だが、儒教は社会を徹底的に序列化したため、実際はごく限られた人間しか政治に参加することが出来なかった。



以上のように考えてみると、どうしても比べたくなるのは日本人。日本人エートスは「人間は味方」だと、どうしても思ってしまう...。

コメント

愚樵さん

またまた、難解な…(^^;;

でも、確かに「人間は味方」的な感覚はあるとおもいます。
そしてそれは多分「油断」といえると思います。
味方で居てくれる人もいるでしょうが、そうでない人と出会った時にどうしても「裏切り者」という印象を持ってしまう。
別にその人は裏切った訳じゃないはずなんですが…。
個人主義であることと、自分勝手な行動をすることは、全然違うことだと思うのですが、区別をすることは学ばなければなかなか難しいだろうとは思います。

ちょっと違うかも、ですけど

こんにちは。

「世界をひとつだと信じる」のエントリーのときに感じていたんですけど、今回の記事の内容にまたその思いが蘇り。
内容的にはマッチしないかも・・ですけど、書いときます。

例えば、今の日本。
安倍内閣のもと、近視眼的な経済へのてこ入れがされ、安全保障への願望が推され、教育へのてこ入れがされようとし、原発はこの状況下で再稼動されようとし、それに利権の絡むウゾウムゾウが勢いづいて後押しをしています。

そんなウゾウムゾウをも抱(いだ)きつつ「世界はひとつだ」と感じられるのか。
「世界はひとつだ」と言えるのか。
そんなウゾウムゾウと「ひとつだ」と感じられるのならば、その「ひとつ」の通奏低音は何なのか。

そんなことを想います。

アキラさん

なんだか解かります。

でもどうなんですかね?
人は大きい声とか強大な力とかに飲み込まれて道を外してしまう傾向はありますよね。
それははたして人として底辺に流れる流れとは違うような気もします。

と、書いているけど、さっぱりわかんないですね。
この文章。(^^ゞ

>すぺーすのいどさん、アキラさん

「世界はひとつ」という人間の思いは、どうしようもなく強いもののようです。

同じ人間を敵ださえと感じていても、それを乗り越えて人間は「世界はひとつ」だと考えてしまう。
敵なんだから、ばらばらでいいじゃないか、とはなかなか考えない。それでは満足できない。
その思いの強さが「世界はひとつ」という【確信】を導き出す。

『おどろきの中国』の読書を通じて考えたのは、【確信】の在り方にもバリエーションがあるのだということです。天と天子が【基軸】の中国式。神と人間が【基軸】のキリスト教方式。イスラム式も日本式も、それぞれあるでしょう。

【確信】ゆえに、人間は【基軸】に「隙間」があることを気がつかない。あるいは気がつかないフリをする。この「隙間」に跋扈するのがウゾウムゾウでしょう。気がつかない者は善意で、フリをしている者は確信犯で、それぞれに跋扈する。

【基軸】にはかならず「隙間」が生まれます。
そして、隙間には必ずウゾウムゾウが跋扈する。人類の歴史はウゾウムゾウの歴史だと言ってもいいくらいです。

この「隙間」ゆえに宮台さんなどは、世界はデタラメと言うのではないでしょうか?
また“デタラメ”と表現する感覚は、すぺーすのいどさんが“人として底辺に流れる流れとは違う”とおっしゃるのと通底しているように、私には感じます。

私は「世界をひとつ」と思いなす人間の思いをデタラメだとは思いません。
【確信】を求めるから、デタラメになってしまう。【確信】がウゾウムゾウの培地です、きっと。

「ばらばら」から出発し、それでも「世界はひとつ」と〈信じる〉からこそ「隙間」を埋めることができるかもしれない可能性を人間は見いだす。うまくやると「隙間」を“ぴったり”と詰めることが出来るのでしょう。

“ぴったり”かどうかなど、確実に証明することは不可能でしょう。たぶん。
それでも“ぴったり”は追い求める価値のあるものだと感じます。

愚樵さん、アキラさん

もう年末休みなので、ダラダラとネットを周回してたら、内田樹さんが記事をアップしてました。
『コミュニケーション能力とは何か?』 http://blog.tatsuru.com/2013/12/29_1149.php
これ読んだら、このブログの記事思い出したので来ちゃいました。

「ばらばら」を「ひとつ」にするのはコミュニケーション。
コミュニケーションとは「説得」で、「説得」というのは、相手の知性を信頼することであるらしい。

なかなか、腑に落ちた記事でした。

すぺーすのいどさん

おはようございます。

内田樹さんの記事、読んできました。
かの文章を読んで、私の拙い記事を思い起こしていただけたのは、とても嬉しいです。

内田さんが繰り返し持ち出す話のひとつに、ベイトソンの知性についての定義がありますね。
「そういえば、こんな話を思い出した」

すぺーすのいどさんは知性を発動し、私のところのコメント欄に書き込みをしてくださいました。
この行為は、内田さんが記事に記しておられる“身を乗り出す”のと、同じ意味を持つと思います。
すなわち、コミュニケーションです。

ということはです。
私とすぺーすのいどさんの間に「コミュニケーションの不調」があったということですね。
その「不調」が、すぺーすのいどさんの知性とコミュニケーションによって乗り越えられた。

有朋自遠方来、不亦楽乎
朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや


です。

愚樵さん

ありがとうございます。私も嬉しいです。
なんだかこそばゆいほどです…(^^ゞ

話は戻って、ということは、コミュニケーションとは結局「不調」と「解決」の繰り返しなのですね。
なるほど確かにそうですよね。

すぺーすのいどさん

こちらこそ、ありがとうございます。力をいただきました。

「不調」と「解決」。いいですね。「ばらばら」と「ひとつ」に上手く対応します。

不調 ≒ ばらばら
解決 ≒ ひとつ

私たちにとってコミュニケーションは必須です。そしてコミュニケーションはすべからく「解決」を求めて行うものですが、今、問題として取り上げているのは、コミュニケーションに際しての「構え」です。

「不調」を基準にするか。
「解決」を基準にするか。

「不調」を基準にした場合、「不調」は〈不調〉です。「解決」は〈解決〉です。〈不調〉は出発点として受け入れるものであり、〈解決〉はそこへ至ると〈信じて〉目指すものであると同時に、最終的に至ることが不可能なもの。〈解決〉はそのまま次の〈不調〉です。

〈不調〉を基準にする〈コミュニケーション〉は望ましいですが、その〈構え〉を保ち続けるのはなんとも難しい。今回は、すぺーすのいどさんから〈構え〉の機縁をいただきました。なので感謝です。

明くる年は、〈コミュニケーション〉を重ねて行きたいものですね。

よいお年を。

今年もよろしくお願いします

愚樵さん、すぺーすのいどさん

あけましておめでとうございます。
レスポンスが遅くなってしまいました。
最近、とみに思考しなくなった気がします。 (^_^;)

さて、
「世界はひとつだ」というときの「世界」というのは、どういうことをニュアンスしているのか?
ということが、一つ前提問題としてありそうですね。

例えば宮台氏が「世界はデタラメだ」というときの「世界」は、≒「ありとあらゆるものの総体」のことです(だと思います)。
そうして対((つい)語として用いられる「社会」は、≒「コミュニケーション可能なものの総体」のこと。
その中にさらに「人間社会」がある。

で、僕の認識では、「基軸 ≒ (人間)社会」で、「いのち ≒ 世界」という括りです。
僕が言った「ウゾウムゾウ」は、ですからあくまで「(人間)社会」内の話ですね。
愚樵さんが人間社会限定で「ひとつだ」ということを言っているように受けとったからです。

人間にとってコミュニケーション不可能であるたくさんのものを含んでいる「世界」は、人間側から見れば 当然「デタラメ」に見えますよね。
それを人間側から素直に観れば、世界は「バラバラ」に観えると思うんです。
でも「いのち≒有機的なネットワークの総体・分体」の側にすれば、おそらく「(有機的に)ひとつ」なんだろうと思います。
というか、そう僕らは〈信じ〉たい。

そう想うと、「(人間)社会」から見える「隙間」は、そのまま埋めない方が 結果的には「ぴったり」になるように想えます。
そこを埋めたり詰めたりしようとすると、「世界」が反撥する。
そうも想えます。

その場合、”「ぴったり」を追い求める”ということはどういうことになるのか? って話になりますね。
これはとても興味深い問題だと思います。

内田氏が言う「ふつうはしないこと」「コードを破る」などは、この「隙間」を「隙間」のままに一瞬だけ回路を通す手だてなのかもしれません。
内田氏が常々言及されていることは、いつも「(人間)社会」内における「世界」の側面のことですものね。

ですから僕は、「ばらばら」を「ひとつ」にするのはコミュニケーションだとは思っていません。
「ばらばら」を「ひとつ」にするのは「ペンディング」なのではないかなぁ・・なんて想ったりします。

愚樵さん、アキラさん

あけましておめでとうございます。
ことよろです。

私の対応レベルはとっくに超えて降参レベルですが、敢えて恥を晒してでも反応したいバカな私です。思考を纏めるために、このブログの最近の関連エントリとコメントまで再読してきました。

私は「世界はひとつ」の「世界」は「人間社会」より粗い段階?の「人間がいっぱい存在している場所、状態」的な感覚です。「世界」≒「地球」的な意味で会話されたことはこの流れではなかった気がします。それが良いことかどうかはべつにして…。

だからって訳じゃないですが、私にとっては「世界は基本ばらばら」という感覚が前提なんですね。
そしてその「ばらばら」は、それでもたくさん居ることもあって【人間社会】と<人間社会>を内包していると思っています。

元々は少人数の<人間社会>があったのでしょう。これも個々の「ばらばら」が生きるための原始的な知恵なのかも知れません。

このレベルで留まっていれば何の問題も無かったのでしょうが、人口増加にともない<人間社会>自体も増加し、当然「ばらばら」な<人間社会>の数も増えてきて、ある一定の地域で暮らすために争いが行われるようになり、でもそれを回避する「自然の知恵」「本能の知恵」は無かった。そこで発生したのが愚樵さんの言う「殺しあわないための仕組み」の【人間社会】なのではないのか?と思うのです。

で、このエントリのお題としては「人間は人間の敵か味方か?」ということ。

極端な言い方をすれば、現に存在する【人間社会】に対してローカルな<人間社会>的なアットホームな夢を見れるのか、それともクールに【人間社会】は所詮【人間社会】だよね、と考えるのかということですよね。もちろんこれも白か黒か!って話ではなくグレーが基本なんですけど、愚樵さんは日本人は例えば中国人や欧米人などよりも前者の色が濃いのではないだろうか、とおっしゃっているのだと思いました。

そして私はその愚樵さんの意見に同意しつつ、それは「油断」では無いかと書きました。いま考えるとこの「油断」は「隙間」のことなのかもしれません。その「隙間」にはウゾウムゾウが集まりそうですから…(^_^;)

と、書き進めてくると私は「世界はひとつ」になんてなれないと考えているんだなぁ、と思いました。ただ奇跡的になら、多くの人が一瞬だけでも同じベクトルを所持することは可能かもしれませんね。

アキラさんのコメントを読んで考えましたが、確かに<コミュニケーション>は「マス」が頭に付くと、どうしても【コミュニケーション】になっちゃうので、「ばらばら」を「ひとつ」にまとめてすることは出来ないかもですね。「ばらばら」を「ばら」にするくらいが関の山かもしれません。まあコレの積み重ねが大事だとは思うのですけどね。

「ペンディング」は、なるほどとおもいました。ちゃんと解るわけじゃないのですけど。
でもこれも内田氏がコミュニケーションの際に必要だという「知性への信頼」は必須なのかなぁ、というかより高度な信頼が必要なのかなぁ、と感じました。

というわけで、長々と駄文失礼しました。

本年もよろしくお願いします!m(__)m

アキラさん、すぺーすのいどさん、あけおめでございます。

今回のアキラさんのレス、良い刺激になりました。前回のは意図がよくつかめなくて???な返答になってしまいましたが ^^;

それで、ペンディングですね。アキラさんの昨年末の記事のテーマであるところの。

ペンディングが世界を「ひとつ」にする、には同意です。
アキラさんのいうペンディングが、すぺーすのいどさんの言葉でいったときの

〈解決〉=〈不調〉

であるならば。ちなみに【解決】=ファイナルアンサー、ですね。

そうだとすると、ペンディング(〈解決〉=〈不調〉)があるからこそ、コミュニケーションが生まれるということになる。

【解決】だとペンディングもなしで、コミュニケーションも生まれないから、超越神といったような“ファイナルアンサー”を持ち出すしかなくなるのですが、実は誰にも超越神は理解できません。理解できないから、「理解できないからこそ超越神である」といった倒錯が生じるのかもしれません。

そして、その倒錯を出発点にすると、コミュニケーション可能な「社会」とコミュニケーション不可の「世界」という腑分けが出来上がる...などと考えたりしているわけです。で、さらに言うならば、コミュニケーション不可能な「世界」を創造した(とされる)神から承認されてしまうことで、「人間は人間の敵」がデフォルトになってしまったのではないか? それがつまり近代ですね。

アキラさんに疑問を提示されて気がついたのですが、ここのところ私が「世界」と言っているのは、ほとんどイコール「社会」のようです。(なんとなく語り始めたので、よく考えてなかったです..^^;)


「隙間」を埋めると「世界(生命)」が反撥するというのは、よくわかります。わかるような気がします。ですが、ここには、とある前提があるような気がするんです。つまり、埋めるのは「確実性」だという。

私は「ぴったり」という言葉をアンチ確実性の意味で用いたつもりだったんです。

「ぴったりと言ったって、そんな気がするだけで証明しろといわれたって不可能。
でも、間違いなく、ぴったりですよね?」
「そうだね、ぴったりだよね」

...と、同意できるような関係性。それは〈信じる〉としか言えないような関係性ですけど、そういう関係性が出来上がる相手こそが「味方」なんだ、と、このあと議論を展開する予定だったりします。
(逆に言うと、確実性がなければ成立しない関係性は「敵」ということです。さらに言うならば「絶対的に理解不能な絶対的確実」が「超越神」で、「理解可能な不確実」が「生命」ということになりますかねぇ...)

ここから、すぺーすのいどさんが指摘してくださっている「殺しあわないための仕組み」に思考が繋がっていっています。

そうそうそう♪

すぺーすのいどさん、愚樵さん、

すぺーすのいどさんの言う
『私は「世界はひとつ」の「世界」は「人間社会」より粗い段階?の「人間がいっぱい存在している場所、状態」的な感覚です。』
は、了解しています。
そのつもりでいましたし、愚樵さんも多分そんな感じのところで話していると思ったので、僕は一番最初の疑問を投げかけてみたりしたのでした。


そうだとすると、ペンディング(〈解決〉=〈不調〉)があるからこそ、コミュニケーションが生まれるということになる。

そうそう♪


理解できないから、「理解できないからこそ超越神である」といった倒錯が生じるのかもしれません。

(一部保留にしつつ) そうそうそう♪


そして、その倒錯を出発点にすると、コミュニケーション可能な「社会」とコミュニケーション不可の「世界」という腑分けが出来上がる...などと考えたりしているわけです。

そうそうそうそう♪ と、これも一応同意。 (^^)

僕が『”「ぴったり」を追い求める”ということはどういうことになるのか? って話になりますね』と言ったのは、愚樵さんが言っているような話です。
これも そうそうそう♪

けれど、僕は、
「絶対的に理解不能」なのに そこに確実性があると考えたくなる感性が「超越神」的感覚で、
「絶対的に理解不能」だから そこはやっぱり分からないよねと立ちどまる感性が「生命」的感覚、
なのだと想っています。

これは、野口整体で言う「体癖」のように、単に元々の感覚差から生じる差なんだろうと僕は思ってるんです。
つまり、ここの差は、「理解」を通して得られるようなアタマ的な差ではなく、元々 体にくっついたような感受性の差なんだろうなぁ・・と。

だから、どっちがいいとか悪いとか、そういう話じゃなくて、そう思っちゃうんだからしょうがないじゃない・・って話なんだろうと思ってます。

アハハ。(^^ゞ

全然ついてってないですけど、まあそのうち何とかなるかな。

でも
>「絶対的に理解不能」なのに そこに確実性があると考えたくなる感性が「超越神」的感覚で、
>「絶対的に理解不能」だから そこはやっぱり分からないよねと立ちどまる感性が「生命」的感覚、
ってのは、なんとなく解かります。

「絶対的に理解不能」てのは、脳の処理対象外のことというか、意識可能な範囲外ってことですよね。

でもなんかこうゆうの久しぶりでワクワクします。

すぺーすのいどさん、アキラさん

>「絶対的に理解不能」てのは、脳の処理対象外のことというか、意識可能な範囲外ってことですよね。

う~ん、脳の処理対象外というのはちがうような気がします。大脳が行う言語的処理の極点という感じでしょうか? 盲点と言ってもいいかもしれない。

そういった極点あるいは盲点が存在するということを、脳は認識できるんですね。
(そういう脳の作用を「理性」というのだと思います。)

脳の処理対象外なのは、「超越神」的感覚とか「生命」的感覚とかいった類いのものでしょう。なので、アキラさんが仰るように

>だから、どっちがいいとか悪いとか、そういう話じゃなくて、そう思っちゃうんだからしょうがないじゃない・・って話なんだろうと思ってます。

になる。体癖的、あるいは身体的な思考ですね。
「エートス」という言葉を使ってみたのは、身体にまで染みついた歴史的な思考の「癖」を表してみたかったから。

さらにいうならば、「味方」とか「敵」とかいうのも、言葉のニュアンスだけをとれば

「味方」>>>>「敵」

になってしまいますけど、そうじゃない。どっちがいいか悪いかということではないです。

「敵」がデフォならば「敵と殺し合わない方法」を徹底させればいい。ところがこの徹底が難しいです。

「徹底」をファイナルアンサーだと考えてしまうと「ペンディング」にならなくなる。すると盲点が生まれる。確実性という盲点です。「確実なんだから、確実」というのは論理の基礎ですけど、それが当たり前になって意識されなくなると、確実が殺してもよい根拠になってしまう。
(→ たとえば、格差社会という現象)

逆に「味方」がデフォで、それが当たり前になってしまうと、裏切りを許すことができなくなる。それどころか、裏切ったわけでもないのに、裏切り認定されてしまうという事態が生じる。
(→ たとえば、いじめという現象)

「敵」にしても「味方」にしても、「ペンディング」が落ちてしまうと不幸な事態が生じるし、さらに日本の場合で厄介なのは、「敵」「味方」のエートスがごちゃ混ぜになってしまっていることだと私は思っているんです。

補足です

愚樵さん、すぺーすのいどさん、

補足しようと思ったら、愚樵さんに先を越されてしまいました。 (^_^;)

僕が思っている“「絶対的に理解不能」なのに”は、人間の認識能力では「ありとあらゆることの総体」を全体的に把握できない、というところですかね。
あること、ある体系などは、その「総体」のある一部です。
その「見え方」が「真理」かどうか、「真実」かどうかは、その「ありとあらゆることの総体」という全体との関係性を観ない限りは分かりません。
でも僕らの認識能力ではそれは不可能なので、それで結局「絶対的に理解不能」。
という感じでしょうか。

あと、「絶対的に理解不能」なのに そこに確実性があると考えたくなる感性、 「絶対的に理解不能」だから そこはやっぱり分からないよねと立ちどまる感性が、「そもそものところである」と僕が感じているのは、よくよくそういうことを観察した結果の話なのですが、でも現実には、ここに一つ問題があるんです。
それが多分、愚樵さんが言っていることに直結するのでないかと思っているのですが。

この「そもそも」が「そもそも」のままで素直に発露していれば、どちらもそれは〈信じる〉になると思います。

ところが、“そもそも「生命」的な感性をしているのに、自分は「超越神」的だと思い込んでいる”という人や、
“そもそも「超越神」的な感性をしているのに、自分は「生命」的だと思い込んでいる”という人が、
実際にはよくいるということがある。
そうなると、これは両方とも【確信】になっちゃいますよね、どうしたって。

愚樵さん、アキラさん

なかなかまとまった時間が取れず、コメント続けられず悶々としております。(^^;;

愚樵さんの指摘については、私も『盲点』的な意味を表現したかったつもりですが、表現力不足ですな。

今日の午前中にふと『ばらばら』を『ひとつ』にする必要などないのでは?という思考が生まれて、そこで自分が何が『ばらばら』で何を『ひとつ』と考えているのか、なんかお二人と違うことを考えてるのか?とか思い始めちゃいました。

わからないことはペンディングしといても、そのうち必要であれば何かに引き出されて『ひとつ』の発見になることがあるのは確信的に信じてるので(笑)ボチボチ考えていきます。

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Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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