愚慫空論

おおかみこどもの雨と雪

ばらばらとか、ひとつだとか考えながら、思い出していたのが...



「ばらばらでひとつ」が際立つお話。

おおかみおとこと恋に落ちて、ふたりのおおかみこども雪(姉)と雨(弟)をもうけた花。しばらく都会で幸せに暮らしていたが、おとこは事故で亡くなる。花は、おおかみこどもを育てるために、田舎暮らしを始める。雪と雨が、人間とおおかみのどちらを選択してもよいように。迫る選択の時――

といった感じでストーリー紹介が公式HPでなされているけれど、「選択」なんてあっただろうか? 雨と雪は、それぞれがそれぞれに行くべき道を行く。

未来を想像することができる大人からすれば、おおかみこどもの行く手に「おおかみか人間か」の選択肢があることは、容易に予想出来てしまう。けれど、子どもにはそういった「選択」は、そもそもない。そういった「選択」を押しつけるのは、大人である。

『おおかみこども』でも、「選択」の押しつけは登場する。母親である花の困惑という形で。

おおかみこどもの雨と雪を育て上げようと、二人を連れて田舎へ隠遁する花。けれど、そこで直面するのは、人間同士の絆。助け合って生きていく素朴な人間の社会。結局、人間は社会なしでは暮らしていけない。

しかし、おおかみこどもは、悲しいかな“化け物”である。本性を自在に発揮してしまったら人間社会で平穏に暮らすことはできない。自在に本性を発揮しようとするおおかみこどもに、花が困惑するのは無理もない。つまり、花には選択肢がない。

選択肢のない花は、人間であることをおおかみこどもに強いることになる。否応なく「選択」の押しつけが生じてしまうが、この「押し付け」は、子への(人間の)母親の愛情である。

雪が、雨が、どのように「選択」を撥ねのける、あるいは躱すのかは、書いてみたいけど、控える。
(12月20日にTV放映がなかったら、書くのだけど)

花と雪と雨は、ばらばらである。しっかり家族だけど、ばらばら。むしろ、しっかり家族だからこそ、ばらばらになることができた。「家族だからこうあるべし」といった論理がもしこの家族に強く働いたら...、

ちょっと言葉が飛躍しすぎだな。

「ばらばら」は「自立」の基礎である。花の愛情によって育まれた雪と雨は、愛情を糧に成長し自立する。
生き物の本性は「ばらばら」である。「自立」は、その本性が発露することだ。

『おおかみこどもの雨と雪』というファンタジーは、ヒトとオオカミが交わるというあり得ない設定を元に描かれている。だからこそ「ばらばら」が際立つ。そして、その「ばらばら」を眺める私は、なぜか「世界をひとつ」に感じるのである。

なぜなんだろうね?


12/22追記。ストーリーの起承転結。

〈起〉
おおかみおとこと花が出会って、雪と雨が生まれる。
おおかみおとこが死んでしまって、花が雪と雨をひとりで育て上げる決心をする。

〈承〉
町中でひとり雪と雨を育てる花の悪戦苦闘。自然に近い田舎へ引っ越す。
田舎は自然に近い分、人間同士の紐帯が暮らしに欠かせない。
この紐帯が、花をして雪と雨に「選択」を迫らしめる。
人間として生きるか、狼として生きるか。

〈転~雪の場合〉
雪は人間として生きることを、すでに選んでいる。(人間の)みんなと同じように学校へ行きたいと熱望。
花はおおかみこどもであることが露呈しないように雪におまじないを授けるけれども、おまじないが通じない相手(草太)が登場。
雪の正体を察知してしまう草太に追い詰められて、おおかみになって草太を傷つけてしまう。

〈転~雨の場合〉
カワセミを捕まえようとして冬の川に落ち、おぼれ、雪に救い出される。生命の危機に瀕して、オオカミとしての「スイッチ」が入る。

(雨の場合も雪の場合も、危機が「転」になっている。危機に瀕して本性が発動する。本性の発動に「選択」はない。)

〈結~雪の場合〉
草太がおおかみこどもである雪を、人間として受け入れる。
母親である花以外の人間に受け入れられたことで、雪は人間として歩き始める。

〈結~雨の場合〉
花は、雨がオオカミとして生きることを受け入れる。
ヒトである花は、オオカミとして生きる雨になにもしてあげられない。「(オオカミとして)しっかり生きて!」と願う以外は。

コメント

【家族】と〈家族〉ですね。

でもこれは全くの別物ではないですよね。
重なってる部分もある。

そしてそれは「家族」以外でも同じですよね。
規模によらず人々が何らかの目的でグループを構成する状況では【集団】と〈集団〉のせめぎ合いは発生してしまう。

多くの集団は「非集団」→〈集団〉→【集団】→「崩壊」と移行していく運命なのかもしれません。

結局はスクラップアンドビルドしかないのでしょうね。

すぺーすのいどさん

そうなんです。重なっている部分はあるんです。

『おおかみこども』の場合は特に雨が重ならなくなるんですけど、それはファンタジーだから。現実はいくつもいくつも重なります。

「客観的」というのはほとんどの人間において重なるもののことですが、ここを出発点にしてしまうと、「重なるもの(客観的)」は正しくて、「重ならないもの(主観的)」は誤りという価値観ができあがってしまいます。

宗教も多くの場合「重なるもの」です。客観的とはいいませんが。

【集団】は【社会】といっていいと思いますが、「重なるもの」を軸に秩序が組み立てられる。なので、「重ならないもの」(主観あるいは異端)は、抑圧されてしまう。【集団】あるいは【社会】が大きくなるほど「重ならないもの」への抑圧は強くなり、内面化してしまう。

そうなると「家族」も【家族】になってしまう。【集団】は抑圧の強いものとなり、崩壊への道を辿り始める。

だったら、「ばらばら」からスタートしてみたらどうでしょう? 

愚樵さん

私はどっちかというと「ばらばら」志向なんですけどね。
まわりには受け入れられない。

<集団>は【集団】になりたがるというか引力があると思いますよ。
頑張って踏ん張らないと<集団>ではいられない。

みんな踏ん張り力が無いんです。
まあ、<集団>でいることはいろいろ面倒なことが多いんですけどね。
それを【合理化】しようとする、そういう力がいつも働く。
それは生きるに対してもコスト計算をしちゃうからなんじゃないかな、とおもいます。

すぺーすのいどさん

すぺーすのいどさんが「ばらばら」志向なのは、コメントなんかをやりとりしてても、そうだなと感じますよ。 (^^)

<集団>は【集団】になりたがるというか引力というのは、おっしゃるとおりあると思います。
この種の「引力」が【歴史】を作ってきたと言っていいかもしれません。学校で教わるような【歴史】ですね。

一方で、ばらばらな〈集団〉を維持していこうとする「斥力」もあるはずなんです。「引力」に対抗しながら、記述されていく【歴史】を下支えした力。「斥力」の働きが弱くなったので、個人で踏ん張らなければならなくなったのだろうと思います。

〈集団〉でいることが面倒なのは仕方がないことです。面倒であっても、不快でなければいい。
しかし、面倒で同時に不快であることが多いですね、残念ながら。不快さを軽減できる仕組みがあればいいのですけれど。

追記

書いてみました。ちょっとだけ。

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