愚慫空論

勤労 協同 理不尽

今お気に入りのマンガ。
銀の匙


『銀の匙 Silver Spoon』(ぎんのさじ シルバースプーン)は、荒川弘による日本の漫画作品。『週刊少年サンデー』(小学館、以下「サンデー」)2011年19号より連載中。

北海道の農業高等学校を舞台とした学園漫画作品。作者の荒川は北海道の酪農家の生まれで農業高校卒業生でもあり、作中には荒川の実際に経験したことが多く反映されている[1]。作品の舞台となる大蝦夷農業高等学校は、帯広農業高等学校をモデルにしている。

タイトルの由来は明らかでないが、主人公たちが生活している学生寮の食堂入口に“銀の匙”が飾られており、8巻においてその縁起が語られる場面がある。

キャッチコピーは「汗と涙と家畜の酪農青春グラフィティ!!」。


以上、wikipedia より。


豚を食べるんだよね。舞台が畜産高校なので飼育している豚を食べるのは当たり前なんだけど、当たり前ではないのが、名前をつけた豚を食べること。
以前にそんな内容の本の感想を書いたことある)

業界の常識に反して名前をつけた豚を育てて、食べる。このマンガのストーリーでは、名前をつけたと言ってもその豚は学校の所有物で、通常なら肉になって売られるんだけれども、主人公がその肉を買い取る。勤労で得たお金で。そして、みんなと食べる。ベーコンに加工した入りして。育てるのも食べるのも、協同

一連のエピソードは、そうやってできあがったベーコンの一切れを校長が「うまい」と食べるシーンで締めくくられる。その校長室には校訓が掲げてあって、それが 

勤労 協同 理不尽 

というわけだ。単行本4巻の64ページ。


「理不尽」という言葉の印象が変わる。理不尽というと悪いイメージがあるけれども、「勤労」「協同」と一緒に並べられると、それらのイメージに引きずられて感じが変わる。

「勤労」「協同」「理不尽」のワンセットで悪いイメージなる可能性もある。たとえば軍隊的な。舞台は畜産高校だし、生徒は家畜の奴隷だし。でも、そうはならない。マンガだし。

理不尽は許されないものではないように思えてくる。それどころか、そこら辺に転がっているもののように感じられる。私たちはそれに気がつかないだけ。目を背けているだけ。

豚に名前をつけられた主人公は、同僚に「豚が食べられなくなったら責任を取りなさいよ!」と責められる。主人公は、「残りのベーコンをみんなに食べさせてやる」と応戦。「わーい!」とみんな。「食べれるじゃん!!」主人公。コミカルに理不尽が覆い隠される。が、主人公はまた豚に名前をつけて、理不尽を掘り起こしてしまう。苦しいとわかっているのに。

世界はばらばらであっていいように、理不尽もあっていいのではないか?
世界はばらばらならば、理不尽は理ですらある。

世界はばらばらでそもそもが理不尽だとするならば、大切なことは理不尽を大きくしないことではないだろうか?


コメント

お久しぶりです

お元気ですか? (^^)

愚樵さんが何を考えながら、こういうことを書いているのか。
それを考えています。

愚樵さんはご存じだと思いますが、僕の好きな宮台真司氏は「世界はデタラメだ」と言う。
ラカンはそれを〈現実界〉と呼ぶ。
それを何とか理解可能にするための努力が〈象徴界〉。
その典型的なツールが「言語」ですよね。

主人公はなぜ豚に名前をつけるのでしょうね?

ご無沙汰です

まあ、ぼちぼちやってますよ。

『銀の匙』の主人公、名前は八軒(はっけん)というのですがね。面倒くさいヤツなんですよ。

共学の高校が舞台なので恋愛がらみの話も出てくるのですが、ある女子キャラが「(恋愛対象としては)面倒くさいからヤダ」と評するんです。舞台の高校は酪農家の子弟が多いという設定になっているので、八軒君はサラリーマンの息子で次男だから(婿としては)条件はいいんだけど、言いつつ。

経済動物でしかない豚に名前をつけるというのは、面倒くさい行為です。八軒君は、そういうことに限らず、いろいろと面倒を背負い込むキャラなんです。

名前をつけるという行為も面倒くさい。よくよく考えてみると名前をつけるのは「切って繋ぐ」ことでしょう。とある知覚に他の知覚と区別する固有の記号をつけることで世界から切り離し、より明確に認識する。世界から切り取って、自己と繋ぐ。これが名前の機能。その結び目は切る前よりも太く強くなっていますが、経済動物であることを運命づけられている豚はいずれ繋がりを切られてしまうので、強く結び直した分だけ切られたときの苦痛は強い。

そんな面倒をわざわざ背負い込むのは、自分に自信がないから。だから世界を理解することで自分を発見しようとする。でも、八軒君が発見していくのは、世界(の認識)は人それぞれバラバラで、それでいいということ。それでいいと飲み込むごとに、自分が浮き彫りになってくる。

私が考えているのは、世界との向き合い方です。たぶん。

宮台氏はどのように世界と向き合って「世界はデタラメ」だと発言したのか? 「世界はデタラメ」とは、そう断じるということなのか? ラカンが〈現実界〉〈象徴界〉〈想像界〉と断じたのは、どのように世界と向き合ってのことなのか?

そんなところですかねぇ。

なるほど

愚樵さんの中に何が育つのか、楽しみにしていたいと思います。

「理不尽」でちょっと思い出したんですけど、こないだすぺーすのいどさんと毒多さんと会ったときに、『進撃の巨人』を勧められたんです。
あ、『魔法少女まどか☆マギカ』も勧められましたけど。 (^o^)
で、今 3話くらいまで観てるんです。
第一話目がけっこうインパクトあったのですが、3話目くらいから俄然面白くなってきました。

で、その前に、これまたすぺーすのいどさんが以前面白かったと言っていた、倉本聰の『ニングル』も読んだんですね。
これはコロボックルに似た森の小人なんですが、ヒトではあるものの、ニングルは森の食物連鎖の中に組み込まれた存在なんですね。
だから、ヘタすると天敵のネズミやトリに食べられちゃう。

『進撃の巨人』の第一話がなぜに僕の中でインパクトがあったかというと、それは人間が生きたまま食われちゃうからです。
「理不尽」だったんですね、それが。多分。
でも、よく考えてみたらそれはおかしい。
理不尽じゃないはずです。

僕自身、イザとなったらトラとかサメとかに食われていいや、当然だと思っていたのですけれど、何の準備もなくパッとそういう光景を見ると、やっぱりインパクトを受けるんです。
生理的な感覚のどこかで、それが「理不尽」だと感じるんだと思います。
もし僕がニングルだったら、「当たり前だ」と思うでしょうから、特にそれ以上でもそれ以下でもないんじゃないかと思うんです。

ってことを思い出しました。
それだけです、すみません、ただの与太話です。 (^o^)

『進撃の巨人』

アキラさん

『進撃の巨人』は私も見ました。20話くらいまで見たかな? 続きがまだあるみたいですが、どんなふうに話を締めるのか? 私は興味を失ってしまいましたが...。

巨人というヒトの天敵を想定するならば、ヒトが巨人に生きたまま食べられるというのは理ですよね。むしろ理不尽なのは天敵を克服するという営為の方。克服できるなら天敵ではないわけで。

でも、文明社会の基準で言うならば、天敵を克服するのは理です。そこから出発したのが文明なのですから。文明化した人間社会にどっぷり浸かって生きていると、その理が感覚的なところにまで染みいってしまう。

『進撃の巨人』のインパクトの強さは、ヒトの天敵を想定したところから生じる。そのインパクトは、私たちが文明人だから受けるもののような気が私はします。文明の思考はここから生まれるのではないか?

(『まど★マギ』もヒトの天敵を想定するというところはおなじですけど、視点が違います。どう違うのか? はまた考えてみようかな。)

野生の思考であってもインパクトはあると思うけれども、受け入れ方は違うでしょう。きっと。こちらはニングルの方ですね。

文明人は文明の思考をし、野生人は野生の思考をする。それ以上でもそれ以下でもない...と言ってしまえば、まあ、それまでではあります。でも、それじゃあ、面白くないじゃん? と私は思うわけです。面倒くさいことなんですけどね。^^;

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/770-df6ef29f

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード