愚慫空論

ばらばら

いいね、この歌。



世界は ひとつじゃない
ああ そのまま 重なりあって
世界は ひとつになれない
そのまま どこかにいこう


それでいい。世界はばらばらでいい。

世界はひとつか、ひとつじゃないのか? 
大まじめに問われたら、ひとつだと〈信じる〉と答えるだろう。

でも、ひとつじゃないほうがいい。
ばらばらから出発したほうがいい。

ひとつだとしたら、もはや生まれる余地はない。
ばらばらだからこそ、生まれるものがある。


これもいいぞ。

コメント

おひさしぶり

いい歌ですね。
がんばってひとつになる必要なんて、まったくないとおもいますよ。

ごぶさたです

>がんばってひとつになる必要なんて、まったくないとおもいますよ。

ですよね (^-^)

むりやり思索

久しぶりの更新ですね。

で、「ばらばら」という歌ですか。
初耳です。ご紹介ありがとう。
ワタシの知っている「バラバラ」という歌は、忌野清志郎(RCサクセッション)の歌で、どちらかというとこの「ばらばら」の逆で「バラバラ」を揶揄っている感じのドカドカ煩いロックね。
サヨっちだったワタシは、「バラバラ」が入っている「カバーズ」というアルバムが好きでよく聴いていたわけですが、、、ほぼ、サヨっち的メッセージで、いいアルバムだと思っていた。今でも思っているけどね。

で、真逆のこの「ばらばら」が「いい歌」か?、、と書かれると、、(素直にいいね、と言えばいいのだけど、笑)、充分バラバラで「重なる」と叩き合いじゃん。そうそう、現実は「ばらばらだから生まれる」なんて、脳天気な世界じゃないじゃん。清志郎のバラバラの方がずっと現実的だべ。と、拗ねたくなるやら、哀しくなるやら。・・・なんてね、嘘です。
いい歌だと思いますよん。でも、個々の成熟ぐあいによって「善かったり」「悪かったり」するのも事実で、、、これを「成熟したばらばら」と「未熟なバラバラ」と命名したいと思います。

「成熟したばらばら」は理想で、理想だからよい歌と感じるのかもしれない。

久しぶりの更新です。

毒多さん、おはようございます。

清志郎の『バラバラ』も聴いてみました。便利な世の中です。

星野源と忌野清志郎。どちらの「ばらばら」も、ベースは“(本当は)世界はひとつ(のはず)”という【確信】をベースにしているだと思うんですよ。

で。

世界はひとつなのに現実はバラバラ。現実は間違っとる(怒)! と歌うのが清志郎。
現実はバラバラで、世界もばらばらのよう...(悲) が星野源。

清志郎は、現実の方を否定して【確信】を持ち上げる。
星野源は、現実に従う。

現実は感覚です。感覚がバラバラだと受け止めているんですね。
そして、【確信】は感覚を否定することができる。

なにやら、毒多さんのところのやりとりと似てきましたね。

毒多さんが清志郎を「サヨッち的メッセージ」だというのは、本当に同感です。

“世界はひとつ”を“民族はひとつ”にダウンサイジングすると、ウヨっちになってしまう。
【確信】の種類が異なるだけなんですね。

ふむふむ

そも人間は、(本当は)世界はひとつ(のはず)、と思いたい生き物なのか?を考えてしまいます。

この「世界はひとつ」を考えるとき、「個々の精神世界」ってのも同じだと思い浮かぶ。実はワタシはワタシのなかでバラバラなのに、ワタシは一つだと信じたい。一つじゃないと人格が分裂してしまうし、何かを主張することもできない、、、、ワタシは一つなんだ、その一つを拠り所に生活して物を言っているのだ、と思いたい。なぜなら、そのほうが楽だから。→清志郎。
でも、ほんとうは、ワタシはワタシのなかでばらばらということを受け入れたほうが楽なんじゃないの。→星野源

人間は一人では生きていけない、よって「社会」ができた。「社会」はひとつなったほうが住みよい。→清志郎
もともとバラバラの個々の集まりである社会がひとつになれるはずがない、それ認めちゃったほうが楽だし。→星野源

ばらばら、、を認め、そのままを受け入れるか?否か?
その境界線があるような気がします。

【確信】が【社会】にみえてしまうのはワタシだけかな?
>【社会】は感覚を否定することができる。

さらに、これを言うと叱られるかもれませんが、(笑)
>【記号】は感覚を否定することができる。

どうも、ここから離れられないワタシがいます。クドくてすみません。アタマデッカチでいいです。

いずれ「社会」も「記号」も否定することはできないので、

>(本当は)世界はひとつ(のはず)

に回帰することになるのですが。

毒多さん

そもそも【記号】というものが、感覚をそぎ落としてできあがったものだと思うのですよ。
【記号】がその出発点において、感覚をベースにしていることは間違いないでしょう。でも、感覚はアナログというか、多様で複雑ですよね。多様なままでは記号にならない。だからそぎ落として単純にする必要が出てくる。そうでないと共有できないし、伝わらない。

単純になってデジタルになった感覚は、もはや死んでいます。【記号】は感覚を殺す。というより、感覚を殺すような記号を【 】をつけて、【記号】と表記しているわけです。感覚を生起させるような〈記号〉だってあります。

私だって世界はひとつだと思っています。思っているというより、感じている。あるいは信じている。

ただ、この「感じる」とか「信じる」とかは、〈感じる〉〈信じる〉で、やっぱりアナログな感じなんです。反論の余地あり。なので、ばらばらでもいいんじゃない? と思うことができる、のかな?

世界はひとつだと〈確信〉へと向かうには、ばらばらから出発した方がいいのではないだろうか? と表現すればいいのかな。「ばらばら」から「ひとつ」へと向かう旅路のなかで、いろいろなものが生まれる...。

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