愚慫空論

馬に頼るということ

本当に久々の更新になってしまいました。忙しいのも忙しいんだけれども、それ以上に余裕がなくて。粟島に渡ってきてから2ヶ月半、“構造改革”に取り組まざるを得ないことを実感して取り組んでいた訳なんですけれど、その間は何かを出力しようという気持ちに全くならなかった。出力すると、どうしても構造改革前の者担ってしまうと感じていたので...。

その構造改革についてはまた別の機会に語ろうと思いますが、ざっくり言っておくと、「強さへの感性」から「弱さへの感性」へ、といったところ。

構造改革はまだ道半ばですけれど、3月に入ってから、ボチボチ何かを出力したいなという気分にはなってきていました。が、ブログといったようなものは継続性が高いといいますか、途切れるとなかなか再開するきっかけをつかむのが難しい。書くなら馬のことだよな~、と思いつつ、書くきっかけをいまいちつかめずにいたところへ、やってまいりました、きっかけが。

 光るナス 『変わらないからこそ 変わっていく 前編』

ここでアキラさんは、「どうやら僕らは「思わず頼っちゃう存在」らしいな」と仰る。私たちの身体はそういう風に実は出来ているということを、ご自身の修練を通じて発見しました、ということらしい。

 光ナス 『変わらないからこそ 変わっていく 中編』

この話が実に面白くて、そして、なぜ馬に頼るのか? というところへ話がつなげて行くことが出来るなと思った。それで、今、久々に「空論」を更新しているというわけです。

*****

アキラさんのブログ記事を読んでわかることは、野口整体という技法は(身体的に)完全自立を目指すものだということですね。そこが前提になっている。だもので、前編の冒頭で、野口整体は健康法ではありません、といういつもの「お断り」が出てくる。要するに、頼るな、ということです。自前で何とかしなさい、それが「全生」です、というのが野口整体。ごくごく簡単に言ってしまえば。

ところが「馬に頼る」というのは、この前提がまったく逆。だって、はじめから「頼る」と言っていて、そこを目指しているわけだから。

初めから「頼る」と言ってしまうと、自立することが当たり前と思っている近代人は妙な感じがするんだけれども、身体的自立を追究しておられるアキラさんが発見したように、人間ってもともと頼るように出来ているんだ、というのが本当であるならば、実は何かに頼る方が「生きる」ためには合理的だということになる。逆に、思わず頼ってしまう身体でありながら、完全自立の身体を目指そうなんてするのは不合理。ま、不合理を追究するからこそ修行であったりするわけですが。

では、なぜ馬か? ということになる。

私は現在、寄田勝彦という人が代表理事を務めるNPO法人インフォーメーションセンターというところの「一味」に加わっています。「一味」というのは...、説明省略。また機会があれば語りましょう。とにかくこの寄田さんという人が私のボスということになっている。私と同い年ですけど、ちょっと凄い人です。いつかギャフンとと言わせてやろうと思っているけど、ギャフンと言わされて続けている。実に楽しい体験をさせてもらってます。

その寄田さんがいうに、馬は修行の近道である。この話は、アキラさんの「発見」とも符合する。

ではなぜ馬か? 馬は常に「全生」を生きているから、と野口整体的には答えておくのがいいかもしれません。

*****

「全生」とは、一日一日を全力で生きる、ということだと言います。じゃあ、馬は常に全力なのかというと、それはおそらく違う。彼らだってサボれるところでは結構サボって生きている(たぶん)。これもおそらく近代人特有の癖だと思うのですが、“一日一日を全力で”というと、“全力”の方に重きを置いて解釈してしまうけれど、そうではなくて、“一日一日”の方が大切であるように私は思う。つまり「リセット」ですね。

で、馬という生き物は、身体構造的に“一日一日”。例えば、特定に人に懐いたりということはしない。馬は、他者のと関係性が常に更新されてしまう生き物。群れを作る生き物なのに、非常に特異な性質を持っているんだそうです。

人間にとって、実は一番難しいのはこの「リセット」でしょう。ヒトという生き物は、これも特異的にアタマがいいので、逆に関係性のリセットが非常に困難。昨日の私と今日の私と明日の私は、同一だと思い込んでしまっている。自我というやつです。そして、他者もまた同一性を継続していると無意識のうちに前提してしまい、その他者の非常に生き生きとした「像」を自分のアタマの中に作り上げる。この像のことを私は「霊」と呼んでいるわけですけれど、人間はこの「霊」がとても怖いんですね。常にリセットできればいいんだけれど、アタマが良すぎで出来ない。ヒトという生物の構造的矛盾です。

そういった矛盾を抱えた人間が、常にリセットしている馬に頼る。馬の方はヒトの構造的矛盾を構造的に受け付けないから、頼られたって大丈夫。頼られるのが人間同士だったら、野口晴哉先生のような完全自立でつねに「リセット」できる人はいいかもしれないけれど、ほとんどの人は頼られたことでダメージを負ってしまう。人間はある一面でとても情け深いですから、頼ってもらうことをとても喜んだりはするんだけれども、往々にして頼られた相手と一緒に落ち込んでいってしまう。特に現代社会のように、人間同士傷つけ合うことが構造的に仕組まれてしまっている社会では、もはや人間の手に負えない状態になってしまっていると言えるかもしれない。

でも、馬ならば。頼っても大丈夫。

ここらあたりが寄田さんと、当ブログではおなじみの安冨先生のご両人が「馬力(ばりょく)学会」なるものを設立した理由でもある。で、私は、その馬力学会が縁で粟島で暮らすことになった、という次第であるわけで。

もっとも、馬に頼るといってもそう簡単な話ではない。いろいろとハードルはある。特にやはり近代的自我が厄介。これは、人間が馬に頼るということを無意識的に阻むということもあるし、それ以上に厄介なのは馬を頼ることが出来ない存在に改変してしまう。その厄介さは、こちらの動画をご覧になって頂ければ理解していただけるのではないかと思います。



(11:30あたりからモンティ・ロバーツという人の話が出てきて、その非常に優秀な弟子たちが「メジャーリーグ」になっているという話が出てきます。話しては寄田さん。メジャーリーグはプログラミングだと指摘するのは安冨先生です。)

とっても面白いですよ。

130320h.jpg



コメント

お疲れさまです♪

こんにちは。

きっかけになれて光栄です。 (^o^)
そうそう、どうやら「人間ってもともと頼るように出来ている」みたいです。
ですから愚樵さんが仰るように、実は何かに頼る方が「生きる」ためには合理的、です。

完全自立の身体を目指そうという整体の技術面の研鑽は、これまた仰るとおり不合理なんです。
不合理というか不自然というか、ある意味とても作為的です。
「頼り合い」から「解脱」しよう・・ってんですから。 (^o^)

この馬力学会の寄田さんの「ホースセラピーとは何か」を観て、初めてホースセラピーなるものが少し理解できました。
恥ずかしながら、馬と触れ合い、馬に乗って同調することがセラピーになっていくものだとばかり、勝手に思ってました。 (^_^;)
もっともっと包括的なんですね。

寄田さんは魅力的な方ですねぇ。
映像からでもそれがしっかり感じられます。

馬の特異な性質、すごく面白いです。
もっと聴きたいです。
この馬の性質の「変わらなさ」が、僕が感じている「関係性が変わらない」に符合するんでしょうね。

愚樵さんの仰るように、頼られるということは、始めは嬉しいことだったりしますけれど、それが続けば必ず負担になってきます。
そうしてダメージを負ってしまう。
それをほとんどの場合、相手にそのままおっかぶせちゃうんですよね。
結局それで、両方がさらなるダメージを負ってしまう。

ですから、馬がそのような性質を持っているのであれば、それは「なるほど! それでか!」という感じで、ホースセラピーに合点がいきます。

馬力学会へ、是非!

アキラさん、コメントをありがとうございます。

「人間ってもともと頼るように出来ている」という話は、まあ、不思議でもなんでもない話ですよね。“人”という漢字が支え合いという意味なんだという話は、それこそメジャーな話。

けれど、そんな当たり前のような話を改めて気づかせてくれたアキラさんの記事は面白いです。身体の深いレベルで人間は他者を必要としているらしい。アタマでわかっているつもりになっている以上に。想像以上にというところへ気づきをみちびいてくれるところが、素晴らしい。

「頼り合い」から「解脱」しよう・・ってんですから。 (^o^)

以前から思っていましたが、野口整体って仏教で言うならば、禅という感じがするんです。自分の身体を他者と見なして、そこと対話する。頼るのは己の身体。

恥ずかしながら、馬と触れ合い、馬に乗って同調することがセラピーになっていくものだとばかり、勝手に思ってました。 (^_^;)

いえ、実は私も最初はそう思っていたんですよ。そしてそういう一面が強くあるのも事実のようです。だもので、粟島で暮らすことを決めてからも、私自身には特に馬は必要ないと考えていました。健康な人間のつもりだったし。粟島に惹かれたのは馬ではなくて、『逝きし世の面影』に記述されているような前近代的な日本の面影だった。

これは以前に記事にしましたが、馬は修行のツールであって、それを使えば近道が出来るという程度の認識だったんですね。でも、それは一面でしかない。

野口整体が禅ならば、馬は念仏。「他力」なんですよ。

この馬の性質の「変わらなさ」が、僕が感じている「関係性が変わらない」に符合するんでしょうね。

そう思います。

頼られるということは、始めは嬉しいことだったりしますけれど、それが続けば必ず負担になってきます。

寄田さんは以前、イルカセラピーをやっていたことがあるという話を本人から聞いたことがあるんです。とても効果があったし、事業的にもとても儲かったらしい。でも、やめたという。その理由は、イルカが自殺してしまうからなんだそうです。10頭に1頭は、自殺して死んでいくという。

ダメージを喰らうんでしょうね、イルカは。優しくてアタマがいいから。イルカセラピーに来る人は、イルカに自身のダメージを吸収してもらって元気になるが、その陰でイルカが犠牲になる。それではセラピーの意味が無い、と思ったんだそうです。

粟島に来てから、ひとつ発見したことがあるんです。それは、病んだ人間がいかにして他者に取り憑くか、ということ。変な話のようですが、とある人が馬にすがりついていく様子を見ていて、私は幽霊の存在を確信しました(^_^;) うらめしや~、と取り憑いてくるやつですね。そんなのに、いくらかわいそうだからといっても、取り憑かれてしまったら取り憑かれた方が病んでしまう。病んだ人間というのは、とても危険な存在ですよ。

アキラさんも是非とも馬力学会に参加してみてください。新たな発見と出会いがあることは、120%保証できます。馬力学会ホームページの入会のページから、誰でも簡単に入会できます。

次回開催は、今私が聞いているところでは、北海道で6月に。秋には岩手の遠野でということも聞いています。面白いですよ。

精一杯頼らないように努力してるんだけど、体は勝手に頼ってる・・・
ってのが、すごい面白かったです。衝撃的でした。 (^o^)


>野口整体が禅ならば、馬は念仏。
<
なるほど♪

馬力学会、参加してみたいです。
時間がうまく合うときに何とか。
岩手に行けるといいなぁ。
あ、粟島もだ。 (^o^)

夏バテか!

愚樵さんといい…
毒多さんといい…

blogに飽きたのだろうか?

まあ…充実した時間を過ごされているのでしょうね♪

ブログ書きたいけど。

NANさん、どうもです。

忙しい日々を過ごしています。ブログを書く暇が無いほど。
書きたいことは色々あるんですけどね。

このままフェードアウトということにはしなくないので、そのうち、何か書きます。
そのときはよろしく~!

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