愚慫空論

樵とは「殺生する者」

不様にも、今年初めの文章は、昨年末の文章から持ち越し。まだ書き足りないことがあった。

林業を始めた頃は、私も樵=林業労務者だと安易に思っていたが、今は違う。樵は「百姓」というカテゴリーに属するものだが、林業労務者は百姓ではない。これまで私が用いてきた「樵」は、林業労務者であるが百姓になりたいな、という希望を表すものだったが、今後は百姓に軸足を移そうと思う。「愚樵」はネット上でのハンドルネームであると同時に「百姓ネーム」である。いや、そうありたい。

これが昨年末の文章の最後。もっとも、ここから続きを書こうすると、エントリーひとつ文くらい書くことになるのだけれど。

樵と林業労務者の違い――といっても、これはあくまで私の主観。“樵”あるいは“林業労務者”という言葉の私がどういう意味合いを込めているか。一般的には樵は林業労務者の古い呼び名であろうし、上に書いたとおり私も以前はそう思っていたけど、林業をやっている内に分化したということ。これはつまり、私が変わったということなのだけれど。

自身の変化は、言葉の変化に現れる。

樵とは「殺生を為す者」であり、それを自覚する者。林業労務者とは、その自覚がなく、森を人間の都合のよい資源と見なす者。

樵は木を伐る。林業労務者も伐る。外形的にはやっていることは同じ。けれど、主観的にはまったく異なる。樵は木を生命だと感じている。木を生命だと感じるから、殺生するという自覚が生まれる。林業労務者は、感じない。いや、感じているかも知れないけれども、資源だと思いなすことで隠蔽する。林業という産業は、この「思いなし=隠蔽」を構造的に強要する。

*****

一昨年の11月に、こんな記事を書いてアップしたことがある。

 『ただいま作業中』

富士山の山麓での作業の様子。素材生産のために木を伐る、すなわち伐った木を搬出して市場に出して、人々の暮らしに役立てる、そういう仕事を和歌山では主にやっていたのだけど、山梨に来てから久々だったので、ちょっと嬉しくて、書いてしまった記事。

殺生が嬉しいなんて業が深いと思わなくはないが、嬉しいというのは正直なところ。

しかし。実はこの作業は「素材生産」ではなかった。間伐材の搬出。間伐材でも素材(=原木)は素材だろ? と思われるかもしれないし、外形的には同じなんだけれど、違う。この違いは、樵/林業労務者のような主観的な違いとも違っていて、役所的な違いになる。

役所的な違いは、結果の違いとして現れる。「素材生産」ならば、

 ・原木を生産するために木を伐る ⇒ 伐った木は全て搬出

になるが、「間伐材搬出」だと

 ・もともと切り捨てる為に伐った木を搬出する ⇒ 伐った木は全て搬出しなくてよい

という「論理」になる。だから実際、かなり大量の木材を搬出せずに山へ放置してきた。

実は、『ただいま作業中』の記事を書いたとき、私は自分のやっている作業が「間伐」だとは知らなかった。素材生産だと思っていて、だから久々にそれがやれて嬉しくて、あんな記事を書いた。この作業が役所から受注した事業であることは知っていたし、役所から定められた数量を搬出しなければならないとも承知していた。だが、素材生産だと思っていたので、搬出する数量だけ伐ると思っていた。

ところが実際には、伐った木を全て搬出することはしなかった。定められた数量に達した時点で棄てた。その理屈が「間伐材搬出」だったのである。


この画像にある、伐り開けてしまった森の間隔。15mある。この写真を撮った場所は搬出したので木は残っていないけれど、別の場所では、この状態のまま放置した。これは役所的には「間伐」であっても、樵としてはみれば森林破壊以外のなにものでもない。いや、樵としてではなくても、一般的市民感覚からみても、そうだ。けれど、林業労務者という「立場」でいる限りはそれをしなくてはならないし、実際にそれを実行した――。

この山は、山梨の県有林。すなわち公共の財産。それを役所が主導で破壊している。本来、こういったことは何らかの形で告発すべきこと。だが、私にはそれができなかった。弱虫だったから。たまたま粟島へ行く縁に恵まれて、林業労務者としての「立場」から離れることができるので、こうして書くことができる。卑怯者である。

その自覚だけは持っていた。それが仕事として当たり前と考えている役所や私を雇用していた事業主には反撥を覚えた。覚えたが、反撥してどうなるものでもないということも理解していた。私にできるのは、縁を切ること。ただそれだけ。それが今回、果せることになった。別の縁に恵まれるという形で。その縁は、たまたま林業ではなかったという、ただそれだけのこと。

*****

この記事、タイトルは『樵とは「殺生する者」』とした。が、文中には「殺生を為す者」と書いた。この言葉の違いに触れておきたい。

殺生を為す。殺生をする。この2つ、“殺生”の意味が異なる。前者は「生ある者を殺す」の意。後者は、「生」と「殺」とが並列に並んでいる。「生きることと殺すこと」。だから、「殺生をする」は「生きることと殺すことをする」の意味になる。これこそが、本来の意味で生きること。

人は、他者の生命を頂かないと、自身の生を繋いでいくことができない。だから、生ある者を殺さなければならない。

ここでいう「者」は、人だけを指しているのではない。生ある「もの」。そして、世界に無駄なものなどない。すべてのものがなんらかの形で「生」に関与している。だからすべての「もの」は「者」である。山川草木悉皆成仏。

しかし、そうはいっても、「殺」は辛い。貴族という人種は、社会の構造に寄生して「殺」を免れ、「殺」を「穢れ」として忌避する人種で、それは自身の生命のあり方すら否定するこの上なく卑怯な者たちだが、そのようになる理もなくはない。辛いから忌避しようとするのは、人間なら誰にでもある〈弱さ〉ではある。

そうした〈弱さ〉を抱えて、どのように生きるか。社会に寄生し、〈弱さ〉を他人に押しつけるか。〈弱さ〉を隠蔽して生きるか。今の日本社会は、〈弱さ〉を他人に押しつけることができる者が【強者】と呼ばれてもてはやされ、羨望の的になっている。一方、〈弱さ〉を押しつけられる者が【弱者】となって〈弱さ〉を隠蔽しようとし、隠蔽しきれず病んでしまっている。

今の社会は、このどちらかを構造的に押しつける。だから必然的に競争が生まれる。【強者】も【弱者】も、〈弱さ〉を隠蔽していることについては、同じ。

〈弱さ〉は隠蔽してはいけない。さりとて一人では抱えきれない。一人で抱えきれるのなら、それは〈弱さ〉ではない。だから、「誰か」に預けなければならない。

その「誰か」とは、誰か? どこにいるのか?

この世の生活が罪業と感ぜられる。そうしてその罪業がなんらの条件もなしに、ただ信の一念で、絶対に大悲者の手に摂取せられるということを、我らの現在の立場から見ると、その立場がそのままでよいと肯定せられることなのである。即ちこれは自然法爾である、只麼の禅である、無義の義である、神ながらの道である、言挙げせぬことである、「ひたぶるに直くなんありける」その直心そのものである、「人間のさかしら」を入れない無分別の分別である。計較情謂を絶した、はからいなき赤き心の丸出しである。


130102日本的霊性

別に「日本的霊性」でなくてもいいのだけれど...。この話の続きは、またの機会に。

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