愚慫空論

まだ実りは手にしていない

今年最後のブログ記事を書こうと思って、そういえば昨年はどんなことを書いたのだろう、と思って過去記事を見てみたら、こんなのを書いていた。

 愚樵空論『人類社会は衰退局面に入った』

政治の世界では、師走に入って衆議院総選挙があって、自民党が大勝。いろいろな意味でインチキ臭い選挙だと思ったが、いずれにしても、既得権益者たちが勝利したことには間違いない。

既得権益者たちの勝利を支えたものは何か? インチキではない、と私は思う。インチキはあっただろうけど、根本原因はそれではない。勝利したのは「拡大していく世界」の原理。人間の、人間による、人間のためだけの原理。

けれど、この原理に最終勝利はあり得ない。なぜなら、この世界は有限であり、かつ、人間だけの世界でないから。これは厳然たる事実。たとえSF的世界が実現して、宇宙空間に地球人類の生存範囲が拡大することになっても、変らない。

だから、今回の「拡大していく世界」の勝利は一時的なものでしかあり得ない。もし仮に、これが全面的な勝利だとするならば、それは全面的は敗北への道に他ならない――が、このようなことは、もはや誰もが感づいているのではなかろうか? 

だが。「感づく」ことと「気が付く」ことは、異なる。ヒトという生き物は、感づいていはいても、その感づいていることに気が付かないことが往々にしてある。特に文明人はそうだ。私はそうした人間の姿を常々”アタマデッカチ”といって批判しているのだが――。

今年一年の勉強の中で、教わり、気が付いたことのひとつに、「人間は感づいたことに気が付くことを無意識のうちに怖れ、気が付いても実行することはもっと怖れる」ということがある。気が付くことを怖れることは「正常化バイアス」といい、また、感づいたことを即座に行動できることを「全生」というのだろう。

確か仏教者の松原泰道の著作だったと思う。喫煙を習慣とする者がタバコを止めることができるのは、これはすでにある種の「悟り」なのだと書いていたことを思い出す。タバコが自身や周囲の者の身体に良くないものであるということは、すでに喫煙者自身が感づいている。が、そのことに気が付くことを怖れる喫煙者は、喫煙をして良い理由をあれこれと探し出しては反論を試みる。反論が追い詰められ、喫煙の害に納得せざるを得なくなっても、禁煙を実行に移すにはさらに高いハードルを越えなければならない。

喫煙者が禁煙をしてタバコをやめるというのは、体質を変えることに他ならない。体質を変えるということは自分を変える、ということ。自分を変えることは恐ろしい。実際に苦痛も生じる。だから、変えずに済むのであれば、直ちに健康に被害がないのであれば、感づいたことに気が付かないふりをしてやり過ごしていきたい――まして、自分の痛みでないのなら、尚のこと。これが既得権益者たちの本音であろうし、そこへ縋り付いていきたい者たちの本音でもあろう。そして、本音は弱音でもある。

弱音はダメだと言いたいわけではない。弱音を「正論」で封じるのは愚の骨頂である。「正論」を吐く者も、大抵は自分が変ることを怖れる者だ。自分が正しいことを、つまりは変らなくてよいことを証明するために「正論」を用いる。だが、これでは誰も変らない。変らないから、変らない者同士の争いになり...、先の選挙は「正論」よりも「本音=弱音」が勝利した。

*****

今年最後の記事なので、私自身の一年を振り返ってみると、そう、いろいろと忙しい一年だった。いろいろな人やものとの出会いに恵まれた一年だった。が、実りある一年だったかというと、それは違う。実りはまだ手にしていない。実りになるかもしれない芽が、どうにか出だしたか、というのがこの一年だったと思う。

〈暮らし〉を立て直さなければならない――と強く思う。〈暮らし〉とは、風土が織りなす生態系をメインシステムだとすれば、それに付随するサブシステムであり、私たちの身体はサブシステムのそのさらにサブシステム。そして〈暮らし〉とは、マニュアル化できる技術ではなく、マニュアル化が不可能な、人それぞれの固有の感覚を基盤においた技能によって組み立てられるもの。それが、特に日本においては、霊的回路となって〈世界〉へと繋がっている。

この〈世界〉は、マニュアル化が可能な科学技術によって「拡大した世界」よりは狭いかもしれないが、ずっと深い。この深みがあってこそ、人は「弱み」を「強さ」へと転換することができる――というようなことを、ずっと考え、このブログに綴ってきたつもりではあるのだれど、それはつまり、「感づいた」ことを言葉にすることで「気がついた」ことに転換していたということになるのだろうけれども、もう、それでは足らないことになってしまった。そんな展開が始まった一年。それは私自身にも、日本という共同体にとっても言えることだと思う。

*****

振り返りの射程をもう少し伸ばしてみようか。

私が本格的にネット住人になったのは、2005年。平成17年初め。その頃は和歌山県の本宮町というところで暮らしていた。その頃になってようやく過疎の村にもブロードバンド環境が整備されて、それをきっかけにブログを始めた。(まだ8年に満たないんだ...)

妻は今でも、和歌山で暮らした頃の暮らしを折に触れて懐かしむ。今まで暮らしてきた中でいちばん良かったという。妻の両親の事情があって山梨に越してくることになったのだけれども、それは当時は致し方のない選択だと思えたのだけれども、やはり地に着いた〈暮らし〉を展開することができたあの頃が一番だったという。

それは私も同じ思い。特にブログを始めることで「考えること」を始められてからの生活は充実していたと感じている。「感じること」と「考えること」が両立させることができ、しかも、収入を得るための「稼ぎ」にも、共同体を維持するための「仕事」にも恵まれていた。ただ、この頃は、「感じること」よりも「考えること」の方に比重がかかっていたように思う。つまりは"アタマデッカチ”。

私の中で「感じること」が大きな比重を占めるようになってきたのは、山梨へ移住後のことだ。当地では残念ながら、和歌山でできたほどの〈暮らし〉の展開は為しえなかった。文明のなかでの消費生活の比重がとても大きくなってしまった。逆にそのことが、私の中で「感じること」への欲求を高めることになったように思う。

そして、来年は、日本海の小さな島へ移り住むことになる。その地で再度、〈暮らし〉を一回りも二回りも大きな規模で展開させる。そんな巡り合わせになった。

果たして上手く行くのだろうかという不安は、ある。だが、ここを上手く成し遂げることができなければ、「実り」を手にすることはできないだろう。

*****

そうそう。もう一つ触れておかなければ。

そんなこんなで、今年で私は林業からは卒業することになる。ということは「樵」ではなくなるということになるのだけれど、ネット上でのハンドルネームとしての「愚樵」をどうしようか、改名すべきかどうか、しばらく思案していた。

結論。改名はしない。「愚樵」のままでいく。従って、ブログも『愚樵空論』のまま。

林業を始めた頃は、私も樵=林業労務者だと安易に思っていたが、今は違う。樵は「百姓」というカテゴリーに属するものだが、林業労務者は百姓ではない。これまで私が用いてきた「樵」は、林業労務者であるが百姓になりたいな、という希望を表すものだったが、今後は百姓に軸足を移そうと思う。「愚樵」はネット上でのハンドルネームであると同時に「百姓ネーム」である。いや、そうありたい。

*****

そういうわけですので、来年もよろしくお願いします。


コメント

よいお年をお迎えください

こんにちは。

今年は直接 愚樵さんにお会いできて、光栄でした。
愚樵さんの〈霊〉像の質がどんどん変わってきて、それが僕自身は面白かったし、そこから拡がってきているつながりにも感謝です。

来年以降のこと、何かワクワクしますね。
基本的には人ごとなんですけど (^_^;)、人ごとじゃない気がしてもいます。
来年は粟島を訪れたいです。
馬にも乗りたいな。

ということで、今年はいろいろとありがとうございました。
来年も引き続き よろしくお願いいたします。

Re:よいお年をお迎えください

アキラさん、ご挨拶をありがとうございます。

思い返してみれば、私の今年の「動」は楽々塾で整体の稽古をつけてもらうようになってから始まったのでした。整体の方はますます面白くなってきたのに、稽古からは疎遠になってしまうことは残念です。これからますますその技法が必要となってくるだろうに...。とはいっても、アキラさんとは疎遠になるような気がしないのは不思議なところ。

粟島にはぜひ、いらして下さい。アキラさんにとっても刺激的な出会いがきっとあるだろうと思います。

よいお年をお迎えください。

ことよろ

TBありがとうございました。
ブログにTB機能があることをすっかり忘れていました(笑)

昨年は随分後追いをさせていただき、感謝しています。
今年は、島での生活によってどんな思索が生まれるか興味津々です。
思索か? 思索経由のリアルか? そうだ、
思索い至らない、日記的報告もちょっとふやしてみてください。
楽しみにしています。

ワタシのリアルは今年も劇的に変わることはないような気がします。
変わるとすると状況により変わらされるのか?
今が安定していて、そこに縋るという感じではないのですが、
まだまだ、身体が自然に動くところまで至ってないのかもしれない。
もうすこしジンワリ、身体に行き渡るような技能を鍛えないといけないかな。
感覚を研ぎすます環境ってのもあるのだろうねぇ。
すこしは能動的にいきますかな。

ということで、今年もよろしく。

あけましておめでとうございます

毒多さん、今年は春頃に焼津あたりでオフ会をやろうという話になってましたよねぇ、確か。やっと「生毒」が思っていたのですが、こんな成り行きなので、果せそうにありません。これがちょっと残念。
(ちなみにアキラさんのことは「生ナス」と、家内が会う前に申しておりました (^_^;)

できましたら、島へお越しくださいませ。

思索い至らない、日記的報告もちょっとふやしてみてください。

はい。それは予定しています。その日記的報告をするのに別のブログを立ち上げるかどうか、しばらく思案していたのです。『海辺のキコリ』なんてブログタイトルで、とか。でも、やめました。この『空論』に、写真の羅列になってしまっても、日常報告的な記事を上げていこうと思っています。

そういうのはとりあえずFacebookがやりやすいのですが、Facebookは単発的な感じになってしまいがちなので、思索にまで至らずとも、「感じていること」をまとまった形で出せたら。

変わるとすると状況により変わらされるのか?

多くの人がそのような状態にこれからなっていくのだろうと思います。そちらへコメントしたことがありますが、「終わりのはじまり」そして「終わらないと始まらない」。自ら「終わり」にできる者は、自ずから「始まる」。「変わる」というのは、「終わって、始まる」ということ。

状況によって「終わり」へと追い込まれた者は、なかなか「始まり」をみつけだすことができない。だから、終わっているのに変わることが出来ない。

能動的に“劇的”を求める必要はないと思います。ただ、「その時」を逃さないアンテナの感度は必要でしょう。ある程度の歳を重ねれば、どんな人にだって「その時」はあったはず。毒多さんにも。

自身が経過した「その時」を思い返し、その時の感覚、感情を再現してみる。たとえ、そのままの再現でなくても。そして耳を澄ます。これはもはや思索であり自省です。「私」という主体を立ち上げる営為です。

なにはともあれ、今年もよろしくお願いします。どうかよい年でありますように。

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昨日の『北の国から』のアップで今年は最後にしようと思っていたんですが、毒多さんのところが面白かったので、それ絡みで思い出したことを紹介して今年を終えようと思います。 ...

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「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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