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愚慫空論

裁判官が予言者になった?

なぜこういった判決が出るのか、よく理解できない。

浜岡原発:住民らの請求棄却 静岡地裁Add Star

 東海地震の想定震源域に立つ中部電力浜岡原発(静岡県御前崎市)を巡り、周辺住民ら27人が中電に1~4号機(出力総計361.7万キロワット) の運転差し止めを求めた訴訟の判決が26日、静岡地裁であり、宮岡章裁判長は請求を棄却した。想定される東海地震の規模と原発の耐震性が最大の争点だった が、判決は、中電の安全対策を評価した。原発の差し止め訴訟では、昨年3月の金沢地裁判決が北陸電力に差し止めを命じ、名古屋高裁金沢支部で係争中。原告 側は控訴する。

 争点は、(1)安政東海地震(1854年)に合わせた国の地震想定を耐震評価に使うことの妥当性(2)浜岡原発の耐震性(3)経年劣化による機器 の強度低下に対する安全対策--だった。通常はプレート境界面で強く固着し、地震時に急激にずれて強い地震波を出す部分(アスペリティー)の位置設定や、 超巨大地震の発生の可能性などについて双方が専門的な主張をした。

 判決は、国の中央防災会議が想定している東海地震モデルについて、「アスペリティーの設定やプレート境界面の設定は適切で、十分な科学的根拠に基づいている」と判断。想定以上の地震が発生する可能性を考慮すべきという原告側の主張を退けた。

毎日新聞 2007年10月26日

裁判の過程でどのようなことが争われたかは、よくは知らない。裁判は法に基づいて判断がなされるわけだから、今回の判決も当然、国が定めた法律に則ったものであるのだろう。少なくとも静岡地裁の裁判官はそう判断したことになる。裁判官の法的判断に異議を差し挟むつもりはない。

しかし。納得がいかない。

浜岡原発差し止めを求める原告団の訴えは棄却された。同時に運転差し止めの仮処分申請も却下された。ということはつまり、浜岡原発はこれからも運転されるということである。想定されている東海地震が起こったとしても、原発は安全だとされたわけだ。国の定めた法律に則って。

では、国の定めた法律や安全基準に則って原発が建設・運転されていれば、原発は安全なのか? 原告団の訴えにはそうした疑問も含まれていたと思う。そうした訴えがどのように検討されたのかは知らないが、浜岡原発が運転されるということは、国の基準で大丈夫だということなのだろう。事情をよく知らない者にはそのように思えてしまう。

裁判官は国の基準で大丈夫と判断した。ここらあたりがよく理解できないのだ。なぜ、そんな判断が裁判官に出来るのか? 

裁判は人と人とが争いを裁くものである。今回の訴訟も原告団が電力会社を訴えるということだから、一応形式上は人対人が争う構図になっている。また、そもそもそういう形式でないと裁判などできない。地震を起こしたナントカプレートを訴えるなんてことはできないのだから。

しかし、形式的な構図は人と人との争いであっても、この争いの本質は、浜岡原発はいつ、どのような規模で起こるかも知れない地震が起きても周囲に被害を及ぼすことがあるのか、ないのか、つまり未来についての予想であるわけだ。となると、この裁判で果たすべき裁判官の役割というのは予言者ということになる。裁判官は未来を予言しなければならない。

バカなことを思われるかもしれないが、事実、そうであろう。裁判官が原発は危ないから運転を差し止めてくれという原告団の訴えを退けた。これは原発は危なくない、地震があっても大丈夫と裁判官が予言したことに他ならない。それ以外、どう解釈のしようがあるというのだろうか?

いつから裁判官は予言者になったのだろう? ここらあたりが私などにはさっぱり解せないのだ。


安全装置の働かない原発がどれほど危険なものなのかは、国や電力会社はよく分かっているはずだ。あぶない原発を安全だと主張するのは、ひとえに安全装置や安全基準に則った設備があるからである。だから、国や電力会社は危ないけれど安全だと主張する。
しかしこの安全設備や基準というやつの対象が、人為ではないのだ。自然なのである。どれほど大きなエネルギーを発することになるのかわからない自然なのである。その自然に対して、人間が勝手に予測を立て安全基準とする。

もちろん、こうした安全基準の作成は最新の科学的な知見に基づいているのだろう。けれど、その最新の知見そのものが、地震予知に関してはまだまだ不十分な知見しか有していないことを認めている。そして、その証拠が先に柏崎刈羽原発で示された。原発の周囲で暮らす人々の不安は募るばかりだろう。

裁判官が発した予言は果たして的中するのだろうか? 的中して欲しいと私は思うけれども、これは誰にもわからないだろう。逆にもし予言が外れたら、裁判官はどう責任を取るのだろうか? あくまで法および国の安全基準に基づく判断だったとして、国に責任を転嫁するのだろうか?


ここで思い起こすのは、自衛隊違憲訴訟を巡る裁判所の判断である。地裁レベルでは違憲の判決が出たことがあると記憶しているが、憲法の番人とされる最高裁では「裁判所が判断するのに馴染まない」として判断を回避している。人為の存在である自衛隊に対して最高裁が判断を避ける態度は「法と良心」に基づくべき裁判官の拠所から逸脱していると思うが、今回のケースはどうだろう? 相手は最終的には自然なのである。「裁判所が判断するのに馴染まない」とするのが良心的な判断なのではなかろうかと思う。


2009年に導入されることになっている裁判員制度。この制度の対象はなぜか死刑判決が下される怖れのある刑事裁判に限られるのだが、もし、この裁判に一般の有権者から選ばれた裁判員がいたなら、どういう判断を下すか? 
私ならば職業裁判官のように予言者にはなれない。とてもじゃないが重大事故は起きないなんて、予言は出来ない。その予言に責任を持てないからだ。そしてこれこそが、法という枠に捉われずに思考する「一般市民の感覚」なのだと思う。最近刑事裁判においては声高く導入が叫ばれている「一般市民の感覚」である。

「一般市民の感覚」がより必要なのは、刑事裁判か、それとも民事、なかでも行政を巡る裁判か? 政府の判断は刑事裁判ということだが、私は違うと思う。ここらあたり、「世間の基準」を叫ぶイロモノ弁護士の意見も聞いてみたいものだ。

コメント

ひさしぶりに

ワタシにもコメントできそうな記事だ(笑)
予言ではなく所詮裁判官にとっては他人事、ということでどうでしょう。
裁判官が浜岡原発近隣の住民であれば判決が変わってきます。もちろん引越不可という条件で。

こんにちは!いつもお世話になってます!

こういう、田舎の方々のリスクの上で街の生活が成り立ってるんですよね。くっだらないネオンなんか消せばどうよ?と思いますが。

原発に関しては、、、地元住人が一致団結して断固阻止しようと思えばそもそも建設できないはずじゃないですか。一部の、金に目がくらむ人間こそが地域の癌です。

この判決で、裁判官も共犯になりましたが、主犯は権力なのでしょうね。と言ってもまだ地裁ですから 今後の展開に期待したいです! 

巨大地震は違法

現法体系では原発の運転は違法とは言えない。もし想定外の巨大地震があったら、その地震が違法である、と言うんでしょうか。自衛隊の違憲が「判断になじまない」のと、裁判所は、両方とも、あるべき姿の正反対の役割を果たしてしまいましたね。

dr.stoneflyさん>
>所詮裁判官にとっては他人事
とはいっても、静岡地裁の裁判官は(たぶん)静岡市に住んでいるわけで。もし浜岡に事故があって静岡が大丈夫と考えているなら、この裁判官はバカです。

つくい弁護士先生がTBを下さった記事(http://tukui.blog55.fc2.com/blog-entry-526.html)にあるように、裁判官には勇気がなかったんだと考えるのがよさそうに思います。


ママちゃん>
>田舎の方々のリスクの上で
確かに原発に近いほどリスクは高いですが、原発の場合、遠いから安心とは言えません。日本はたいてい西風が強いですから、浜岡だと関東圏も危ないですよ。最悪のケースでいくと、東海、東南海、南海の3巨大地震が同時に発生。浜岡原発が放射能を撒き散らし、それが西風に乗って東京方面へ。しかし東京も鉄道・道路等の交通機関がマヒして避難できず。そこへ放射能交じりの雨が降る...。
あくまで最悪の可能性ですが。

>くっだらないネオンなんか消せばどうよ
いえ、たぶん問題になるのは、真夏の炎天下の冷房でしょう。夜間はむしろ電力が余っています。というのも原発は出力調整が難しいから。だから、夜間電力の使用がやたらと奨励されるんですよ。夜間電力の料金体系を安くして。柏崎原発の事故で今年の夏、関東では電力危機が騒がれましたよね? 原発がなくなれば、ああいうことになります。

>地元住人が一致団結して断固阻止しようと思えばそもそも建設できないはずじゃないですか
やっとそういう流れになってきていますよね。でも、すでに運転しているのを止めるのは難しい。それがこの裁判です。そこには地元住民以外の利権も絡んでいます。

>主犯は権力
原発に関しては、むしろ消費者でしょう。ここが環境問題の難しいところです。


志村さん>
「カエサルのものはカエサルに、しかし神のものは神に」
私はクリスチャンではありませんが、聖書のこの言葉を思い浮かべます。少し意味は違うかな?
裁判官が裁けるのはあくまでカエサルのものです。神にかかることまでは裁けません。
ここらには近代以降の科学万能主義が大きく影響しているように思います。いつの間にか、人間は自然を支配できると思い込み、その思い込みゆえに神のものをもカエサルのものと勘違いしてしまったのでしょう。しっぺ返しが恐ろしいです。

おはようございます^_^

>あくまで最悪の可能性ですが。

いいですねえ!
どうせ起るんなら、連座制(笑)ということで、日本全滅のほうが平等でいいんじゃないですか。
あ、いえ、私が地元住人ってわけではないですが^_^;親戚がわりかし近いもんですから。

武士道、ハラキリ、カミカゼ、ハマオカゲンパツ

何故スポーツは美しいか。?
競技者が自分自身の限界に挑戦する姿に多くの人々は感動する。
朝青竜がマスコミに叩かれた原因は、怪我を理由に巡業を休んでいた期間に故国でサッカーをしたことで仮病を疑われたから。
マスコミの亀田叩きの本当の理由は、反則や見苦しいパホーマンスではなく、実力不足が無様な敗戦で露呈したから。
今まで誰にも出来なかった事をする者や限界に挑戦しょうとする者、不可能を可能にする者に人々は憧れ拍手する。
世界で誰もが不可能と考えること、誰にとっても無謀と思えることを為すから美しい(素晴らしい)のですよ。

マグニチュード8の巨大地震が30年以内に予想される震源地の真っ只中に、建設30年以上の老朽原発を運転し続ける電力会社。
世界中の誰にも出来ないことをやり遂げる実行力。(凄い)
身の毛のよだつ恐怖に打ち勝つ強靭な精神力。(凄すぎる)
世界に冠たる大和魂。ハラキリ、カミカゼ、ハマオカゲンパツ。



(私にとっても、この裁判官や電力会社を弁護することは不可能ごとですね)

>> 「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」

格言として独り歩きをさせるならどんなことも正当でしょうが、聖書に書かれてある文脈通りに取ると、「ローマ帝国への納税もしなさい ユダヤ教の神殿税も納めなさい しかしそれ以上私は何も言わないので、その判断はあなた方に任されています」ということ以上にないと思われます。

これを広く取って「人々のことを思い見てくれる神への捧げものをすれば、世俗の堕落したカエサルへの納税をしなくてもいい」と取る解釈も成り立つでしょうし、

「カエサルは世俗では神の正義を行う法の執行者であるから、世俗の納税にも神への捧げものの意味は含まれる」とするか、に発展可能かもしれません。

少なくとも聖書の当該コンテキストの中に、「自然」の入り込む余地は少ないと思います。

キリスト教的思弁で自然を語るなら、「生物の中で人間だけが自然から外れた不自然な人工的な罪の中にいる、人間だけが罪を持つ」と主張する「創世記」でしょう。

神の創造した自然に対して罪深いというキリスト教の主張は、「一神教が自然を壊した」の先入観の強い日本人にはあまり顧みられることはなく、残念なことです。

返事が遅くなってしまいました

ママちゃん>
>いいですねえ!
>どうせ起るんなら、連座制(笑)ということで、日本全滅のほうが平等でいいんじゃないですか。

過激! 死んでもいいなら怖いものなしですね(笑)。
私もかなり過激なほうだと思ってましたが、ママちゃんには負けます。


布引さん>
>世界で誰もが不可能と考えること、誰にとっても無謀と思えることを為すから美しい(素晴らしい)のですよ

過激といえば、今回の布引さんも過激です。なんと過激な皮肉であることか。滅びの美学ですか(笑)。


MSさん>
つっこみが入りましたねσ(^◇^;)。
「カエサルのものは~」の格言は思い浮かんだので深く考えずに使いましたが、自分でも違和感はあったのです。その違和感はたぶん、キリストの言葉をキリスト教的に用いていないというところから来るものだったと思います。

>キリスト教的思弁で自然を語るなら、「生物の中で人間だけが自然から外れた不自然な人工的な罪の中にいる、人間だけが罪を持つ」と主張する「創世記」でしょう。

創世記の主張は「自然」でしょうか? 私などには創世記に「不自然」というような文脈の主張は見当たらないように感じられます。
創世記ではありませんが、特に旧約の記述などを眺めていると、重視されているのは「神の意思」であって「自然」「不自然」というような概念は見受けられないように思います。というよりむしろ、「神の意思」に沿うことは往々にして不自然と感じられる。わが子を生贄に捧げようとしたのはアブラハムだったと思いますが、このあたりなどとても不自然なのです。

>神の創造した自然に対して罪深いというキリスト教の主張は、「一神教が自然を壊した」の先入観の強い日本人にはあまり顧みられることはなく、残念なことです

その原因は、おそらくキリスト教の不自然さでしょう(あくまで日本人から見たものですが)。

そもそも創世記はユダヤ的思弁の端緒であるモーセよりかなり後の時代に書かれたものであり、相当訓練された「契約思想」の基盤の上に「自然」を見ています。近代以降の学問的知見に立ったばあい、創世記は後の時代の著作だからです。日本人が読み込みがちなように「書かれたことを前提」としているわけではなく、苦しみのある現実にすべて意味があるということを説明しているようです。

「神の意志」という場合、そうした「契約」の完全な履行を「神の意志」として考えます。自然でさえ「法的関係」と捉える契約の民らしい感覚の鋭さがあるように思います。「自然の生態系の中で契約違反をするものは誰か」と聞いているわけです。

法の源である「神」が自ら作った世界を「甚だよかった」と肯定し、被造物すべてと契約を結んだ、という創世記の記述は、自然はその個々の生物が神との契約のうちに生きているという旧約の著者の認識をしましています。そうであれば、「人間は自然の統治者である」というのはまさに違反をし続ける人間への痛烈な「皮肉」以外の何物でもありません。

洪水の記述においても、人間の契約違反が元であることは言うまでもないことです。神は自然を通し、人間の契約違反の裁きを行うという認識は明確です。レバノン杉の森は当時から人間の都合で伐採されて初めており、自然を人間が破壊するという認識があったかもしれません。私はその立場に立ちませんが、洪水の記述も自然破壊の認識から出ているのかもしれません。

よくある日本人の誤解のひとつとして、「キリスト教が科学を生んだ」というのがありますが、「科学的思考」の故郷はもともとギリシャの哲学です。西欧では往々にしてキリスト教はむしろギリシャ起源の科学を「抑制」する機能を果たしてきました。(その種の行き過ぎは進化論その他の議論にみられるとおりです。)

「多神教で自然の中にあるはずの日本でなぜ水俣の悲劇が起こるのか。もし自然が許してくれるなどという発想を持つなら神に甘えすぎ、他の生物を苦しめて犠牲にしているという感覚を持ててはいない。」と西欧の人に問われた時に、答えに窮したことを今更ながら「痛み」を伴いながら思い起こしています。自己の罪の指摘を受容するだけの忍耐を、日本人はできないままでいるのかもしれません。

神の存在を前提としようがすまいが、無神論者だと言い張って神など認めたくなかろうが、人間の行為によって、生物が苦しむ状況の下で安穏と暮らしていることは否定できないことです。(だからと言ってそれを「罪」と名づけ「たくない」というのは、単にその個々人の生きている文化的「趣味」の問題でしかなく、個人の自由を否定するつもりはありません。前提は人間の引き起こした現実の悲惨さで、人間の側の自己弁護における論理破綻です。)

人間の行為によって自然が破壊されているという現実を認識するとき、無神論者であろうが、多神教徒であろうが、キリスト教を信じていようが、創世記の著者が指摘する人間の「罪」は逃れられるものではありません。(この罪人という点では西洋も同じです。)

日本人が感じている「違和感」は、「こころあかき」ことを求める伝統的な日本人の多神教的基盤にあるのではなく、むしろ自己の多神教的要素やむ宗教的なニュートラルさを「口実」として言い逃れの逃げ道を用意し続けようとするその「狡猾さ」にあるといえるのではないでしょうか。

アブラハムがイサクを捧げようとした場所の「地名」が、「モリヤ」であったと主張されているのは、一般的日本人にとっては「どうでも良い」ことに見えるかもしれません。

しかしその場所に、後に「動物犠牲」の場であった「神殿」が建てられたとすれば、難解な物語の意味が、少しはっきりするのではないでしょうか。そもそも砂漠の民であり「動物」を「殺して食べる」ことによって、「命」をつないできたユダヤ人にとって、「食べるために殺す」ということは強烈な認識であったはずです。

近代的な聖書学の知見に立つ場合、創世記を書いた人は、神殿がすでに建ち動物が屠殺されていく様を現実に見ながら、アブラハムがその子供を捧げる物語を「作って」います。もしかしたらその物語の「作者」は実際に「殺す」役目であった「祭司」であったかもしれません。

「生まれたころから可愛がり、つぶらな瞳の愛すべき羊を殺すこと」に本当に意味があるのかと、人間はそれを殺してまで生きる意味があるのかと、この物語の作者は悩んで考えたのかもしれません。

動物を育て、殺すということがどれほどの「心痛」を要するものであるかはよくわかると思います。「動物を犠牲にすることには、人間である自分の子を殺すことと等しいほどの重さがある」と、明確にこの物語は言っているように思えます。「人間は食べているのが人間より劣った動物である」という認識そのものが、愛の神に反する「罪」である、と警告をしているように思われる物語です。

人間は、食べるという行為で、親の「愛」を持って生まれた「命」を殺していることは紛れもない「現実」であり、その重みをはっきりと認識しなければならないとおもいます。どのような「命」にも、育てた者がおり、親がおり、その育て主と親の愛が宿っていることを忘れるわけにはいかないはずです。

生きていくために何らかの形で、何者かを殺さざるを得ないはずであるにもかかわらず、日本人はこのような真摯な問いを止めてしまっているのかもしれません。

日本の過去の神社にも神事で使う鳥の犠牲の道具などがあったようです。食物は神にささげるものであり、親の愛を受けたほど重いものを私たちは食べている、という認識は、どの民族にも共通している原始的で健康な感覚でしょう。日本でも昔は、ご飯の一粒に対してさえも、お百姓さんが「手塩にかけて作ったものであるとして大切にしましたが、現代はその認識は薄れているのではないでしょうか。いただきますを言わないという現代人の感覚は、私には分かりません。

それは、西欧型の功利主義の影響ばかりでもなさそうです。日本において「屠殺」の現場で働く人々の地位は低いものであり、長い間、差別の対象あり続けている現実は、その観点を裏書きするものです。「自分は動物を殺していない」という日本人らしい、「いやらしい狡猾さ」の中に、日本人の「伝統」があるなら単なる「驕り」でしかないからです。ユダヤ人は心労深い屠殺をする人々を徳のある「祭司」として尊敬したこととは、全く反対で不健康であるようにおもいます。

以上のことから、食の生産すらもオートメーションで無機質であるということに、わたしは憤りすら感じます。

家畜や作物が「どうせ」「いずれ」食べられるものだから、ということで愛情なく育てられることを、アブラハムの子供を捧げるという物語の聖書の記述は許してはいないし、むしろその人間の「無機質的」なあり方に疑問を呈しているのではないでしょうか。

MSさんにお願い

2回に分けて、随分と長文のコメントですね。

私のところは長文大歓迎です。ありがとうございます。

内容も大変興味深く、充実していると思いました。キリスト教についても蒙を開かれる思いです。

MSさんのコメントにここでまたお返事をと思ったのですが、むしろこれは新たなエントリーにしたいと思い直しました。

MSさんのコメントを新しいエントリーで引用させてもらいたい(たぶん、全文になると思う)のですが、よろしいでしょうか?

お返事ありがとうございます。

採用は問題ありません。どうぞお使いください。

ちなみに、私自身は自他共に認める日蓮宗の檀家ですが、読んでいるのは聖書です。

ありがとうございます

エントリーで取り上げるには少し時間がかかると思いますが、それでも近いうちに拝借させていただきます。

その折にはまたご意見ください。良ければ他のエントリーにも、是非。

予言というよりも

こういう件については、裁判所は以下の点から判決を出さなければならないと思いますね。

1.事故の発生を防止するために必要な最低限のこと(=法律に則った措置)を正しく講じているかどうか。
2.事故が発生したときに、その被害を最小限に食い止める具体的な策をきちんと講じているかどうか。
3.上記1と2が正しく講じられているという根拠は何か。

これは、施設の建設方法、建設場所、設置機器等のハード面のみならず、「人間の行動」というソフト面からの具体的なもの、さらには、イレギュラーへの対応が具体的かどうかというところまで踏み込まないといけないと思います。

ただし、100%の安全がないから運転差し止め、というのは、さすがに裁判所は判断できません。
もちろん、原発には批判側が唱える危険性はあります。この危険性を享受しても生活・産業レベルを維持・向上するのか。それとも、生活・産業レベルを下げてでも原発のリスクを皆無にするのか。これを裁判所に判断しろというのはさすがに酷な話です。こうした「国民の選択」については、やはり国民に委ねるしかないんじゃないでしょうか。

100%の安全がないから、ではなくて

wakuwakuさん、100%の安全がないから、ではないのです。

例えば火力発電所があるとしましょうか。もちろん火力にだって原子力と同様、100%の安全があるというわけではない。巨大地震は原発、火力お構いなしにおこります。

原発と火力の安全性の違いは、その規模。原発の場合は、災害の規模の予測すら難しい。そんな経験がないから。そしてその経験をたとえ一度でも体験することが許されるか、とそういう問題なんですよね。

指摘されている通り、この問題は裁判所の手に余る問題でしょう。いわば政治問題です。ならば、自衛隊の意見裁判の時と同様に、裁判所がそう宣言して白旗を揚げればよい。そうではないですか?

その通りですよ

愚樵さんのコメントとまったく同じことを述べたつもりですが、誤解を招きましたか?だとしたら、申し訳ないです。

経験の有無はともかく、事故の発生リスクはもとより、発生後の被害の最小化について、裁判所が判断を下すことは不可能です。
また、仮に判断を下すことができたとしても、リスクをとるか、豊かさを取るかは、国民の判断に委ねる以外にはないと思う、ということです。

そもそも「不法行為」を立証することが困難なことは、裁判にはなじまないんですけどね・・・。

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