愚慫空論

「愉氣の会」がふたつ

先日の14日と15日。地元富士吉田で、二日連続して「愉氣の会」が催され、ふたつともに参加してきた。

ひとつは、アキラさんを講師に招いての愉氣の会。14日。そちらについては、アキラさんご自身がブログ記事を上げておられるので、

 ⇒ 愉氣の会@富士吉田(光るナス)

タイトルでは「ふたつ」といいながら、当記事で取り上げてみるのは15日に行なわれたもうひとつの方。こちらは「愉氣の会」と銘打って行なわれたわけではないし、「愉氣の会」として良いのかどうかも定かではないのだけれども、その思想は愉氣の思想そのものだと感じるので、私の独断で、ふたつとも「愉氣の会」としてみた。

*****

15日の紹介に入る前に回り道。愉氣とは、なんなのか。わが「空論」でも何度も取り上げているけれども、改めて。

野口整体(以下、整体と記す)には、4つのステージがあるという。1.自働運動(活元運動)。2.行氣 3.愉氣 4.型(操法)

整体の基本は1.の自働運動。人間の運動には意識の思い通りになる随意運動と、思い通りにならない不随意運動とがある。随意運動も不随意運動もどちらも自然な身体の運動なのだけれども、自働運動にはとある方向性があって、それは、随意をできるだけ外してみましょう、というもの。随意を外すと随意運動も意識がコントロールしない“自然な運動”に戻る。

自働運動の典型的な例は、寝相(ねぞう)。就寝中で意識が休眠状態にある時に、身体が勝手に動く。内臓のような部位はもともと意識が及ばない領域だけれども、意識が覚醒しているときは随意で動く部位が、無意識のうちに勝手に動く。この勝手な動きが実は、意識のコントロールによって身体に生じた「歪み」を自然に解消しようとするもの――自薦治癒力――という観察が、整体にはある。

つまり。自然な「歪み」の解消を、意識的に行なおうとする方向性。「自働運動」という名辞は、普段は意識されない「身体の自然」を意識してみよう、という思想である。

で、自然を意識するのは、意識を淀みのないものにする必要がある。それが2.行氣。禅で行なう瞑想とは異なるけれど、似たところもあるようだ。私には詳しく説明できないで、これ以上は割愛。

そして3.愉氣。愉氣は基本、二人で行なう。淀みのない意識(これを「氣」という)を相手の身体に向けることによって、身体がもともと持っている自然な歪み解消能力を引き出そう、とするのが愉氣。氣だけではなく、相手の身体に接触するのだけれども、その接触の仕方が問題。

相手の身体への接触は相手の身体にとっては負荷になる。負荷には反撥が生じるのが身体の自然な反応。適切な負荷を与えてやると、自然な反撥が「歪み」の解消へと作用する。それを導くのが愉氣の技法。

4.操法は、そこからもう一歩進んで――ということになるのだが、これは割愛。

*****

話は戻って15日の会。この日の講師は矢野智徳さんという方。(会の名前は何と言ったか、忘れた)

「地球の庭師」という名称で呼ばれている方がおられるが、ピッタリだと思う。

  ⇒ 地球の庭師に出会いました(メダカのがっこう:中村陽子のコラム)

アキラさんの整体の愉氣は対象が身体という自然だったが、矢野さんの場合、対象は自然そのもの。

自然には、自然の循環がある。それは人の身体でも、森でも、あるいは田畑でも同じ。我々が暮らす住居でも、心地の良いと感じられる環境になっているときは、自然な循環が上手く巡っているとき。自然な循環は自然治癒力になり、そこで暮らす生命――人も動物も植物も――を豊かにしてゆく。

ところが。人間社会の人間の都合による利便性追及の営みが、大きな自然の循環をズタズタに切断してしまっている。そのために至るところで不自然な不具合が発生しているわけだけれども、その不具合をまた不自然な方法で処置しようとし、ますます不具合を広く深いものにしていってしまう。これは、人の身体が持つ自然治癒力を無視した医療が、しばしばもともとの生命力を奪ってしまって、薬漬けにしてしまうのとよく似ている。

矢野さんの思想と技法は、そうした悪循環を絶ち、自然がもともと持つ自然治癒力を引き出していってやることで自然環境を改善し、ひいては人間の暮らしを豊かにしていこうというもの。

これは「里山の思想」と呼ぶに相応しいものだが、それは同時に「愉氣の思想」でもある。技法的思考により愉氣に近い。それは、ふつうに暮らしている分には見えない部分に関心を持ち、見えない部分を感得することで自然治癒力を引き出そうというところ。

整体の場合、随意運動から意識のコントロールを外していく方向性(思考)で、見えない部分を見ようとする。矢野思考では、具体的には見えない地面の下。地面の下の見えない循環を感得し、整えることで自然の生態系全体の循環を整えていこうとする思想であり、技法。

地面の下の循環は、そこに根を張り巡らす植物に直接影響を与える。生態系の基盤は植物だから、植物の調子こそが要。植物の調子を観察して根の具合を察し、根の具合から地面の循環の様子を推し量る。また、地面の感触、雨の際に表面を流れる水量などからも、様子を窺い知る。

矢野思想の要諦は、「大地は呼吸をしている」ということ。私たちの目には見えないけれども、地面には空気の出入りがある。土中には、水の流れとともに空気も流れている。空気の流れが滞ると、水の流れも滞る。また、嫌気性細菌が多くなって、植物にとって具合の良くない有機ガスが発生する。ドブ臭い有機ガスは根を弱らし、植物の勢いを弱めてしまう。

土地の呼吸を妨げるのは、まず、舗装。あるいは治山工事。これらによって地面からの空気の出入りが遮断される。次に泥。細かい泥は土の間隙を塞いでしまい、空気が動く道を塞ぐ。そうして固くなった土は水を吸収することができず、雨に削られて泥を発生させ、発生した泥は水の流れに乗って他の土地へ侵入し、その場所の環境を悪化させていく。

現在、日本では空気の動きが止り、病んだ土地が広がっている。都市部だけではない。地方に行っても舗装、治山工事で土地が病んでしまっている。そこから発生する泥の量は膨大で、それが雨のたびに川に流され海へ至り、海の自然環境を悪化させてしまっている。

矢野さんの技法は、そのような病んだ土地を診断し、空気の流れ、水脈を読み、急所に適切な「処置」を施して、自然の循環を甦らせ、生態系の自然治癒力を引き出していこうとするもの。「処置」といっても(私の観た範囲では)大がかりなものではなくて、溝を掘る、穴を掘る、といった程度のもの。そんな程度の「処置」で、草木の様子が徐々に、しかしはっきりと変わっていく。

矢野さんの活動と技法を紹介してあるHPがあるので、リンクを貼っておく。

 ⇒風土を再生する ~里山整備の視点」(私の森.jp)


別の講演会で動画もあるので貼り付けておくが、かなり長い。

*****

矢野技法そのものは、愉氣よりも、上では説明を割愛した操法に近いのかもしれない。病んだ身体・土地に、一歩、積極的に「処置」を施すことで、自然な循環を回復していくきっかけを与えてやる。

が、愉氣の思想なくして操法はない。身体が持つ活元運動が土台にあって、その自然治癒力を引き出す思想が愉氣の思想。矢野思想も同様に、自然には自然の循環があって、そこに自然の治癒力がある。自然の治癒力を引き出すことが、環境改善に繋がっていくという思想。そして技法。

このふたつには共通する部分が多いと感じる。

コメント

まさに

こんにちは。

富士吉田でお話を伺っていたときにも感じていましたが、まさに同じような発想、同じようなアプローチですよね。
整体側の言葉で言えば、大地に愉氣をする、大地に操法する。
そうして、その元にあるのが自分自身の全感覚による「感得」「観察」。
時間が合わず、参加できなかったのが残念です。

リンクされている矢野さんのブログ記事も読んできました。
まさに整体操法、整体指導とおんなじです。 (^o^)
めだかのがっこうさんの記事に書いてある、移植ゴテ一本でやっちゃうのもカッコいいし、「7割程度でやめておくことが肝心だ」というのもやっぱりよく似ています。
発想が一緒なんでしょうね。

山、森、馬・・・、そういう方向とリンクしていく。
ネットワークが出来ていく。
その中で人が育っていく。
そういう未来を想像してしまいます。
ワクワクします。
きたる“とき”に向かって、もっと修行しなきゃ。

アキラさんがそのように仰るなら、9割5分、ホンモノでまちがいないでしょう。

残りの5分は、実際に体験していただいて、確認してみて欲しいです。

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まとめ【「愉氣の会」がふたつ】

先日の14日と15日。地元富士吉田で、二日連続して「愉氣の会」が催され、ふたつともに参加してきた。

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