愚慫空論

技能は霊的回路である

現在の日本は、破局の真っ最中。なぜそうなってしまったのか。「ニッポン・イデオロギー」すなわち「頽廃したアニミズム」だというのが『8・15と3・11 戦後史の死角』の主張だ。

8・15と3・11戦後史の死角

この主張には同意できる。しかし。

「本来のアニミズム」は残されているのか
 現存する「神道の神々」は、日本列島では不適切な稲作と天皇制の圧力によって二重に屈折し、二重に疎外された霊(アニマ)の頽落形態である。福島原発事故をもたらしたのは、ユダヤ・キリスト教の絶対神ではない。「神道の神々」を基層とするニッポン・イデオロギーこそが、8・15に続いて3・11の大惨事を必然化した。(p.210)


日本の里山が美しいように、吉田嘉七の「妹に告ぐ」の感性もまた繊細で美しい。この「兄」のような兵士を大多数の日本人は見棄て、裏切ることで第二次大戦を生き延びた。しかも裏切ったという事実までも隠蔽し、忘却した。
 問題は戦死した「兄」を四十九日で極楽へ送り出し、忘れることを自分に許す「妹」もまた、同じ心性の持ち主であることだ。(p.212)


私は著者のこの心性に屈折を感じる。「識者」に共通する、西洋文明に対するコンプレックス。

日本の里山は美しい。ゆえに日本人の感性は繊細である――これは、里山で暮らしたことのない者の言だ。里山が美しいのは、自然の生態系と人間の社会とが同じ循環のなかで回るから。だから、里山は人為でありながら、自然な美しさを持つ。

しかし、これは逆の見方をすると、里山では自然と同じ(文明人にとっては)厳しい暮らしを強いられるということだ。笠井氏からはこの視点が抜け落ちているように私は思う。ゆえに、日本人のアニミズムはずっと以前から頽廃していた、といった主張を唱えることになる。

現在の日本社会が「頽廃したアニミズム」に支配されていることには同意できても、元来、日本人のアニミズムは頽廃していたのだという主張には同意できない。繊細なだけで、厳しい自然とやり合っていくことなどできるわけがないではないか。日本の里山は、もとから里山ではない。膨大な労力が投入されてこその里山なのだ。

元来南方系の稲を、亜寒帯地域もある日本全域に適応させようという試みには無理がある。この主張は、客観的にみれば説得力がある。無理な努力は屈折をもたらす。これも論理的に思える。しかし、ここも大切な視点が抜け落ちている。その努力は強いられたものであったか、否か。

人間はアタマデッカチで、自分自身を欺すことができる生き物だ。自ら進んで破滅的な行いをすることは多々ある。そういった人間が屈折していくことは、間違いない。が、美しい里山の維持――同時に厳しい暮らしの維持――に膨大な労力をつぎ込むことができた人々が屈折していたという主張には、どうしても私の感性が納得しない。屈折し頽廃した人間が、美しいものを保とうと自ら進んで努力することなどできるはずがない。人間はそこまで屈折した存在ではない。

過去、人々の暮らしが厳しいものであったのは、環境が厳しいものだったからだ。共同体が抑圧的だったためではない。厳しい環境に適応するために人は共同体を作った。人が人間たる所以だ。そうしてできた共同体が、そもそも抑圧的であったと考えるのは論理的ではない。むしろ共同体は開放的であったはずだ。開放的であったればこそ、人々は屈折から免れて厳しい暮らしに耐えることが出来る。人とは、もとよりそのようにできている生き物のはずである。

人間が屈折し始めるのは、共同体が抑圧的なものに変質したときだ。そのような変質は、環境が変化したときに起きる。より厳しい方へ変化しても、緩やかな方へ変化しても起きる。これは、人が環境変化へ対応するのにようする時間のズレから生じる、一時的なタイムラグのようなものと私は考える。ヒトほどの自然環境への適応力は、

近代日本の共同体が抑圧的なものへと変質したのは、西洋文明の流入で、環境が緩やかな方へと変質しだしたことが原因だろう。人が緩い環境の方へと流れるのは自然なことだが、西洋文明はそれ以上に、自然環境を人為的に改変する力に優れていた。化石燃料を用いる「科学技術」が発達していた。

アニミズムの頽廃が始まるのはここからである。「科学技術」の普及が「技能」を駆逐した始めたところから。アニミズム的霊性は、「技能」と深く結びついている。

「霊性」とは「彼岸」と「此岸」とを結びつける回路である。そうした回路は宗教によって担保されるというのが一般的な認識だろうが、私はそればかりではないと思う。「技能」によっても担保されうる。「技能」によって「彼岸」への回路が機能している宗教世界が、アニミズムの世界ではないのか。
日本農業への正しい絶望法

「技術」と「技能」の違いを一口で言えば、「マニュアル化できるか」だ。マニュアルといって多くの人が思い浮かべるのは、電気製品を買うと付いてくる、使い方が細かく書いてある冊子だろう。マニュアルに書いてあるとおりに操作をすれば、製品の仕組みについて特段の知識がなくても、必ずその製品は予定された機能を発揮する(さもなくば不良品だ)。同じことが近代の工場労働でもいえる。労働者には作業手順が微に入り細に入り徹底的にマニュアルとして示され、そのマニュアルに沿って作業をすれば、製品を作ることができる。一般に大量生産の工場では、労働者はマニュアルに忠実に働けばよく、独自の判断や行動は不要だ。新たな技術が生まれれば、それはマニュアルの変更として表現される。
 大量生産の工場と対極をなすのが町工場だ。町工場では、どういう製品をどういう製造過程で作るかについて、大まかな方針はあるが、つねに臨機応変に判断し行動しなくてはならない。この対応能力が技能だ。技能はたぶんに職人技であり、科学知識とともに、試行錯誤の経験によって個人的に獲得しなければならない。(p.78)


同じ部分を引用した前々回の記事では「科学知識とともに」に下線を施したが、今回は「個人的に獲得しなければならない」に施してみた。これは、「霊性」という回路の特徴でもあるからだ。

「個人的に獲得しなければならない」のは、宗教的な「信仰」も同じ。宗教上の教義は普遍的なものではあっても、「信仰」はあくまで個人的。笠井氏は近代科学はキリスト教から生まれたと指摘しているが、科学がキリスト教の性質を受け継いでいるなら、科学知識が「個人的に獲得しなければならない」であっても、何の不思議もない。

 科学も霊的回路でありうる。

8・15と3・11戦後史の死角

役に立ちそうだという現世的な理由で、「一神教的技術の生みだしたモンスター」を飼育してみせようとした「自然宗教の神官」こそニッポン・イデオロギーの信徒であり、アニミズム的な知や技術の頽落した形態である。この愚かしい頽落形態以外に、本来のアニミズム的なものが日本に残されていると思うのは、非現実的なノスタルジーにすぎない。
 現代日本でも美しい里山の自然に、中沢はアニミズム的な基層が息づいているという。しかし、日本の農村はまた、遺物排除の抑圧的な閉鎖空間である。(p.211)


「現世的な理由」=「霊性が遮断されている」。そのような神官とは、いわゆる「科学者」を指すのであろう。このような「科学者」は、科学技術を個人的に獲得しなければならないものだとは考えていない。普遍的知識を高度に修得したエリートだと自認していていよう。それがアニミズム的知の頽落だという指摘は同感だ。

だが後段には同意できない。美しい里山は自然のままではない。個人的に獲得されねばならない「技能」によって維持されている人工環境だ。里山が維持されているということは「技能」が維持されているということであり、「技能」が「彼岸」への霊的回路であるとするならば、そこにはまだアニミズム的な知が息づいていると考えることができる。そしてこの考えは、樵である私の感性とも合致する。

*****


『8・15と3・11戦後史の死角』の最後で笠井氏は、親鸞思想を取り上げ、プロテスタンティズムと並べて評価する。
8・15と3・11戦後史の死角

 もしも8・15と3・11を超える契機として、日本人の宗教意識を再評価するのであれば、頽落したアニマとしての「神道の神々」ではなく、親鸞の絶対他力思想にこそ注目しなければならない。
 ある意味でカルヴァン派は、世界の外にある唯一神を絶対化する点でキリスト教の純粋形態だった。浄土真宗の阿弥陀如来は、同じように絶対的でありながらユダヤ教の神のように、世界に外在してるわけではない。(p.219~220)

 神の外在性、絶対的超越性という点で、極限まで突き進んだカルヴァン派にも匹敵する宗教思想を、かつて日本人は生みだした。また、ドイツ農民戦争を超える農民蜂起と農民反乱の歴史もある。超越者が世界に外在しながら、同時に内在しているとう点に、その精髄を見なければならない。ここからヨーロッパ的な世界史でも、「回天」と「革命」をめぐる中国的なそれでもない、独自の歴史意識が導かれうるだろう。(p.221)


「危険だから原発反対」は出発点に過ぎず、ニッポン・イデオロギーの呪縛から解放されるには、日本独自の歴史意識が必要。この主張には同意する。ただ、日本独自の意味が、ヨーロッパや中国の歴史意識に匹敵するものだとするならば、それは違う。

もともと日本には、日本独自の歴史意識はあった。ただそれは身体的なところにとどまりおり、意識に上ってくることがなかった。近代以前の日本人はそのことを意識的に理解していた。そうした意識は、漢字を「真名」とし、ひらかなカタカナを「仮名」として受け入れていたところに反映されている。もともとの日本人は、「真」と「仮」、すなわち「中国的頭脳」と「日本的身体」のデュアルで回っていた。それが「辺境」に位置した日本人の「構え」であり、日本人の歴史観は意識化されない「身体」に方にあった。

近代以降、日本人はそのことを忘れてしまったし、笠井氏も知らない。歴史意識は頭脳と身体とを統一的に結びつける宗教的なものだと捉えている。そうした捉え方こそが近代日本人特有のコンプレックスであり、ニッポン・イデオロギーの源泉なのだと私は考える。

コメント

からこころとやまとこころ

 やまとこころの娑婆世界を生きている庶民は、性善説を唱え、権力者に騙されたといって、先の大戦をうらみ、3.11に到っては、知らなかったといって電力会社、政府、誘致者を罵倒する。そして恩恵を受けるに当たっては当然と考えている。いつまで頭がお花畑?と常日頃から考えています。欲しいものは何でも手に入り、何不自由なく暮らせる娑婆、その代償は大きい。見事な一房のバナナが198円で巷では売られている。バナナが20本は付いている。それを当たり前と考えたら、科学技術の実験の失敗も当たり前と考えるべきなのに、何故か後者は、そうではない。この不思議。頭と身体が格闘した結果の世界ではなく、頭だけの世界。ならば身体からの発想、一度身体にお伺いしてからの実行に切り替えてもらいたいと常日頃思っています。これだと今みたいに忙しくない分大きな間違いもないと思います。

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まとめ【技能は霊的回路である】

現在の日本は、破局の真っ最中。なぜそうなってしまったのか。「ニッポン・イデオロギー」すなわち「頽廃

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