愚慫空論

歴史意識について ~『8・15と3・11戦後史の死角』を読んでみた

8・15と3・11戦後史の死角

再読中。一度読んで面白いと思ったけれども、若干、納得いかない部分もあったので。

本書での感じた納得のいかなさは、山本七平『「空気」の研究』へそれと同型であることは、気が付いていた。笠井氏の議論は、『「空気」の研究』に拠っているのは明らかだから。『「空気」の研究』への納得のいかなさについては、以前、「その都度方式」vs「一括方式」というまとめ方で提示してみたことがあるが、『8・15と3・11』は、そこへもう一歩、踏み込んで考える機会を与えてくれた。歴史意識という切り口。

『8・15と3・11』は、ニッポン・イデオロギー批判の書である。

ニッポン・イデオロギーが必然的にもたらした二つの破局、8・15と3・11は、たんに並列的に存在しているわけではない。「終戦」の歴史的な結果として福島原発事故は生じている。8・15を真に反省し教訓化しえなかった日本人が、「平和と繁栄」の戦後社会の底部に3・11という災厄の種を蒔いた。これこそ戦後史の死角である。3・11という破局的な体験が突きつけている意味を真に了解するには、8・15で切断されたかのように見える戦前日本と戦後日本の錯誤を明らかにしなければならない。(序章より)


ふむ。では、ニッポン・イデオロギーとは?

日本列島に棲まう太古からの精霊たちは、海を渡って襲来する世界宗教や絶対観念の暴威に屈服し、いったんは征服される。しかし長い年月をかけて、仏教や儒教やキリスト教やマルクス主義に至る普遍的で絶対的な輸入観念を骨絡みにし、最終的には消化し吸収してきた。だから日本に存在するのは、征服され頽廃したアニミズム的心性と、原型をとどめないまでに変形された輸入観念の奇妙な折衷形態である。(p.49~50)

山本が主張するように、「空気」はアニマであるとしよう。場に潜んでいるアニマの意向を察知し、それに従おうとして日本人は「空気」を読む。たがいに「空気」を読みあうことで、日本人に固有の共同性が形成される。八百万の神という無数のアニマが偏在する世界は無時間的で、人為による歴史は存在しない。「空気=アニマ」を来そうとするニッポン・イデオロギーは、原理的に歴史意識と無縁である。(p.53)


仏教にはもともと歴史意識はない。だから、同じく歴史意識がない日本の八百万の神々と相性が良かったのだろう。見事に習合し、仏様も日本のアニマの一員になった。キリスト教は、おそらくは歴史意識が強すぎるために、日本人の体質には合わない。儒教わけても朱子学の歴史意識は日本で「国学」となり、明治維新・国家神道・近代天皇制の下拵えした。

けれども、歴史意識が日本人の基底まで届いていたわけではない。基底には未だアニマが棲みついている。笠井氏に拠るならば、このアニマは頽廃してしまっている。これは一理あると思う。

ただし。私自身はこの笠井氏の意見には共感できない。樵だから。私は私のなかにアニマが棲みついていることを自覚しているけれどもが、それが頽廃しているとは思わない。思いたくない。笠井氏が頽廃したと感じるのは、氏が知識人だからだろう。氏の提示するニッポン・イデオロギーが作動する近代日本では、近代教育に適応した知識人ほど根本的な部分でバカになる。適応を撥ね除けて根本的バカに気が付く知識人は稀だ。

脱線した。世界史の誕生

次。では、歴史意識とは何なのか。

歴史とは、人間の住む世界を、時間と空間の両方の軸に沿って、それも一個人が直接体験できる範囲を超えた尺度で、把握し、解釈し、理解し、説明し、叙述する営みのことである。(p.32)


かような営みを為すことができる人間の能力に名付けるならば、“理性”が適切だろう。

ニッポン・イデオロギーに毒された「ニッポン・エリート」たちに理性がないわけではない。たとえば、8・15を導いた責任者の一人山本五十六が、アメリカ相手に「是非やれと言われれば初め半年や一年の間は随分暴れてご覧に入れる」と発言というのは有名な話だが、これは理性的といえよう。が、その山本五十六でも「空気」に抗い得なかった。理性より優先されるものがあるということだ。

「歴史意識を持つ」とは、理性優先の「(無意識な)構え」を持つということ。そして、このような「構え」は人類普遍のものではない。というのも、歴史意識そのものが、実は特殊なものだからだ。

『世界史の誕生』と同じ著者の『歴史とはなにか』によると、自前で歴史を生んだ文明は2つしかない。すなわち、中国文明と地中海文明。インド文明にもイスラム文明にも日本文明にも、もともと歴史はない。

中国文明と地中海文明の歴史の質(歴史観)は、同じではない。同じどころか正反対。中国文明において歴史を創造したのは司馬遷。その本質は「正統」の観念であり、世界の変化を認めない。地中海文明において歴史を創造したのはヘロドトスであり、その歴史観は、二つの勢力が対立し、最後に正義が勝って終わるというもの。すなわち、「勝った方が正義」というもの。その歴史観はゾロアスター教を経由して、ユダヤ教、キリスト教へと受け継がれている。

笠井氏がいう「歴史意識」が、地中海文明由来のものであることは明らか。歴史は「武器」なのである。

『歴史とはなにか』におけるイスラム文明が歴史を持つようになった経緯の説明が面白い。すべての人為を嫌うムスリムにとって、本来、歴史という人為はあり得ないものである。が、それは文明同士の抗争においては不利。イスラム帝国はローマ帝国との抗争を経験することで、歴史意識を文明へと取り込んでいった。

とはいうものの、今でもイスラム文明は歴史が苦手。ということは、イスラムにはイスラムで、日本と同様の“イスラム・イデオロギー”があるということが推測されるし、実際、あるのだろう。また、インドにはインドの“インド・イデオロギー”があるだろう。

「歴史」に勝てないことから生じるコンプレックスがこうしたイデオロギーを生み出すことになる。笠井氏や『「空気」の研究』の山本七平氏、日本人の「悪い心の習慣」を批判する宮台氏などは、そうしたイデオロギーを抽出、指摘することができる「鋭い知識人」ではあるが、さりとてコンプレックスから縁を切ることが出来ているわけではない。

コンプレックスを批判しながら、実はコンプレックスから自由ではない。ここいらが、私が感じる「納得のいかなさ」の正体だろう。

続く。たぶん。


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まとめ【歴史意識について 〜】

再読中。一度読んで面白いと思ったけれども、若干、納得いかない部分もあったので。本書での感じた納得の

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