愚慫空論

『飼い喰い  三匹の豚とわたし』を読む


読み物としては、文句なしに面白い。だが、読後の思いは複雑。なんともいえない違和感が残っていて、考えさせられる。つまり、単なる読み物以上に、面白い本。

私はこの本に出会うよりも先に、著者に出会っている。先日、新潟県の粟島というところで第一回馬力(ばりょく)学会という催しがあったのだが、そこに著者の内澤旬子さんも出席しておられた。その催しの中で著者自身から紹介があって、この本の存在を知ったという次第。

内澤さんの印象は強烈に残っている。ほとんど言葉を交わすことはなかったのだけれども。

粟島へ向かう高速船のデッキで見かけた女性。周囲には溶け込まないぞ! といったようなオーラを発していたように思った。見かけた時は、もちろんその女性が内澤さんだとは知らなかった。そんな女性が粟島に何の用事があって、船に乗っているのか? 島民には見えない。粟島のような何もないところ(失礼!)に、疲れを癒やしに来たようにも見えない。まさか、私と同じく、目的は馬力学会? まさかね...、と思っていたが、そのまさかだったのである。ちょっとビックリした。


(馬力学会facebookページから。港に馬車がお迎え、の図。内澤さんも私も写っています。)

そんな印象の女性が、自分で三匹も豚を育てて、しかも育てたその豚たちを食べたみたというのである。もう、本を読む前から、違和感ありまくり。強烈な先入観に囚われながらの読書だった。こんな読書も珍しい。

おっと。読書前の違和感と読後の違和感とは、異なったものになっている。これは記しておかないと。だが、変わらない部分もある。それは、違和感の違和感たる所以。「誰でもない私」を強く感じさせるところ。そこだけは、最初に高速船で見かけたときから読後まで、一貫して変わらない。自我の強さである。


本書を読んで、一番驚いたのは、三匹の豚に名前がつけられたということ。名前をつけて、豚されぞれの個性を際立たせて、その個性を可愛がり、育て、そしてそれを食べる。

あたりまえの話だが、豚は初めから豚肉ではない。豚は生命で、生命は個別的。生命を慈しむということは、個別性を愛するということ。愛するがゆえに、食べたい。残さず食べ尽くしたい。その欲望の在り方。

内澤さんが豚たちの個別性を愛したということmp記述の一部が、幸いにして発行元岩波書店のHPから見ることが出来る。ちょっと覗いてみてもらいたい。⇒ リンク

「名前をつける」という行為は、「個別性を愛します」という構えである。個別性を愛するならば、食べない。“猟師も懐鳥は撃たず”というが、これは「個別性」を認識してしまったから。生命の個別性は、自身の生命との間に波紋を産む。これを「情」という。

「情」にまったく感応することにない人間は、しばしば“鬼”と呼ばれる。本書の中にも、内橋さんがそのように呼ばれる場面が出てくる。

人間が「情」を生み出すのは、持って生まれた性質だ。「情」はもはや自身の一部であり、その対象を食べるというのは、その前に殺すということだから、「情」を殺すということ、つまり「自分自身」を殺すということ。

ここでいう「自分自身」は「自我」ではない。「自己」である。「自我」とは、私がしばしば“アタマ”と表記するところのもの。「自己」は“カラダ”。つまり、「情」が発露した対象を殺すというのは、アタマとカラダとを分離させてしまう、ということ。アタマとカラダが分離してしまった人間を、私は“アタマデッカチ”と蔑称で呼んでいる。

人間とて一つの生命なのだから、アタマとカラダの分離傾向はあったとしても、それを「一」にしていこうとするのが自然なのである。だから、わざわざ「一」になれないようなことはしない。前もって殺すことがわかっている相手に名に「情」を発動させることを回避する。

(「情」を発動させてしまった、私自身の失敗談 ⇒ 『情と殺生、理念と殺戮』

いわんや、名前を付けるなんて。「情」が発動しない“石女”なのかと、まずは思ってしまう。ところが本書を読んでみると、「情」の発動がある、ある。では、「情」に感応しない“鬼”なのか。

結論からいえば、“鬼”ではない。「自我」の確立した“人間”である。

ただし。アタマが強く、カラダと繋がっていないわけではないが、カラダを感知しようという意志を持たない。すなわち、“アタマデッカチ”である。

私は“アタマデッカチ”はきらいだし、初めに見かけた時は、まさにその印象だった。けれど、本書の読後、“アタマデッカチ”の印象は変わらないが、内澤さんの“アタマデッカチ”な在り様には、好感を抱くようになった。これはこれで、人間としてあり、だろう。

そうした内澤さんの在り様が、見事に映し出されている写真が本書の284頁に掲載されている。食べられてしまって、骨になった豚の頭に、優しく手を載せる姿。とてもいい。夢、秀、伸と名付けられた三匹の豚の個別性をも“食べて”しまって、「自我」の一部とした姿。

けれど、私としては、やはり違和感を持つ。それは、私の生き方(行き方)とは違うから。そちらの生き方(行き方)を尊重するけれども、私は違うという違和感。

そしてさらに言うならば。個人として「自我」を確立する生き方はいい。だが、社会の在り方としては限界に来ていると私は思っている。さすれば、内澤さんの在り方は、現代社会の病理を垣間見せているということになる。ここに「正常さという病」の一例を見ることが出来ると、私は思うのである。

カラダを感知しようとする意志の喪失から、生じる病。

*****

もう少し私自身の話を続けさせてもらう。

今年の一月。私は三日間の断食を試みたことがある。(⇒『大根の煮汁が美味かった』

この三日間。もちろん空腹感はあった。だが、不思議なことに食欲はなかった。自分は空腹であるにも関わらず、周囲でだれかが食事をしていても、欲しいと思わなかったのである。これは「意志の力」だったのだと思う。

食欲は、空腹感をアタマが感知することで生じる。私のカラダは空腹感を感じていた。この場合の空腹感は「お腹が空いた」ではない。それはもう、食欲。そうではなくて、欠乏感。それが時として、痛みのように感じられたり、反対に充実感のように感じられたり。

この状態は、アタマとカラダの接続を遮断していたのだろう。意志の力で。人間は、「スイッチ」が入ると、その
ようなことが出来てしまう生き物のようである。断食をしていた三日間は、食欲という回路に切断スイッチを入れいた。スイッチを切っていたと表現するのが適切かな。

言うまでもないが、カラダは食物を必要とする。人間のカラダは三日食べない程度では大したダメージを受けないものだけれども、三日以上は危険な領域に入るから、それなりには受けている。アタマとカラダの回路を切断すると、食欲を感じないと同時に、カラダのダメージの感知もしない状態になる。それが常態化すると、れっきとした病気だ。


話を「情」へと戻す。「情」はどこへ効くか。どこにダメージを与えるか。カラダである。

ここでいうカラダは、断食のときにダメージをうける物理的・生物的なところではない。生物として生命を維持していて、私たちのアタマでは解析するのが不可能な神秘の部分。「魂」と呼ぶのが相応しいようなところ。「情」はそこへエネルギーを与え、またダメージも与える。

食物の欠乏は食欲という形となって、アタマに感知される。「情」の欠乏は、寂しさとなってアタマに感知されることになる。食欲が具体的な食べものを想起させるように(白いご飯が食べたい、とか)、寂しさも具体性――生命の個別性を想起させる。「名前」である。

本書『飼い喰い』の著者である内澤さんは、「夢」「秀」「伸」という名前で想起される個別性は“食べて”しまった。内澤さんの「自我」の一部としてしまった。なので、アタマのほうの平静は保つことが出来ているのだろう。

が、カラダの方はどうか。もし、ここにダメージがまるでないのなら“鬼”ということになるが、ちゃんとある。

 豚に名前を付けて飼って、思い切り感情移入してみれば、かわいそうだと言い立てる気持ちも理解出来るかと思った。屠畜の瞬間には、かわいそうとは思ったものの、やっぱりそれよりも関わってくださったみなさんへの感謝の気持ちが大きく勝った。よくぞちゃんと殺してくださった、切り分けてくださったと、今でも思う。
 けれどもこの感覚は何だろう。私がかわいがって育てあげ、私が殺し、私が食べた三頭。その三頭が死後も消化後も排泄後も、私とともにいるという感覚。
 私はずっと三頭と一緒に暮らした方のだろうか。そうとも言えるし、そうではないとも、言える。三頭と一人のうち、誰かが自然死を迎えるまでともに暮らすという選択肢は、かなり困難がともなったことだろうが、やる気になればできたかもしれない。秀に出産まで経験させるまでとか、嫌がった夢だけ手元に残すとか、そんなやり方があったかもしれない。けれども、あれから二年経つ現在までの間に、実際に残せば良かったと悔いたことはない。時折発作のように、もう一度豚を飼いたいという気持ちに襲われるだけだ。(p.278~289)


もう一度豚を飼いたいという気持ちに襲われる。これこそ、ダメージを受けたカラダが発するメッセージだ。それを“だけ”と捉えるアタマ。見事に“アタマデッカチ”である。

くり返すが、こういう人間の在り方は、あってもいい。このような「ダメージ」は、うまく取り扱えば「意欲」として現れるから、必ずしも悪ではない。

内澤さんに関して言うと、彼女はそういう扱い方に長けた方のようではある。まだ未読だけれども、前著に『世界屠畜紀行』というのがあって、察するにそこでも彼女は「ダメージ」を被ったらしい。本書を書き上げる意欲――というより、三頭の豚と対峙した意欲は、そのときの「ダメージ」から生まれたもののようだ。馬力学会への参加も、そうした「意欲」からだったのではと想像する。

だが、この「ダメージ」/「意欲」の構図を、文明/自然環境に当てはめてみたらどうなるか。これは、とんでもなく恐ろしい。文明が「ダメージ」を受けるたびに、自然環境への「意欲」へと変換される。人間という個別のカラダは、「ダメージ」を「意欲」という形で環境へと逃がすことが出来る。しかし、環境は、その外へ逃がすことができない。ダメージを蓄積した環境はどうなるか?

アタマとカラダの接続を喪失した文明は、そこへの想像力すら失ってしまっている。

コメント

どうなんでしょうね?

自分ではよく分からないので、愚樵さんの想うことを聞いてみたいです。

この内澤さんのそれと、僕の「自ら自覚的に切断してる」という手法というのは、同じなのでしょうかね?
同じように見えて、似て非なるものなのか、同じものなのだけれど、使用法が異なるのか。

自分ではよく分かりません。 (^_^;)
愚樵さんの考えを聞かせてもらえますか?

いい質問をしてくださいました (^o^)

・アキラさん、おはようございます。

この質問のおかげで、かなりスッキリ整理ができたと思います。

で、同じかどうか。同じ部分もあります、と、とりあえずお答しておきましょう。


まず。カラダが感じる「情(の欠損)」がアタマに届くと「負い目」になる。ここがアキラさんの質問から誘導された今回の発見です。

内澤さんの場合。豚に対して、カラダが「情」を感じているのは明らかです。けれど、「負い目」を感じている様子は、少なくとも本の記述からは読み取れない。それどころか、「負い目」を拒否しようとする姿勢すら窺える。アタマがカラダに接続するのを拒否しているんですね。

アキラさんの場合。「情」の発動の対象が2つある。まず、貨幣経済社会で暮らしている人々に対して。それから、私に対して。

人々に関しては、アキラさんは「情」が発動していないと私は見ます。私は、アキラさんに、経済を勉強すれば「負い目」が生じる、といいましたが、これは誤りです。たぶん、アタマで勉強するだけでは「負い目」は生じない。カラダが反応しないことには「情」は発動しない。私はアキラさんに、「負い目」を感じなければ健全ではない、と迫ったのですが、「情」がなければ「負い目」が生まれないので、あれはアタマデッカチな方法論だったということになります。

一方でアキラさんは、私に対しては「情」を抱いてくれていると思います。なので、私とのやりとりが真剣勝負になるほど、私(の主張)がアキラさんに入っていかないことに対してアキラさんは「負い目」を感じる。ところが私の方法論がアタマデッカチだったために、「負い目」を受け入れてアタマとカラダを接続させることを怖れ、そのために、アタマとカラダとの接続を断った。私のアタマがアキラさんのカラダに入ってしまえば、それはアキラさんが指摘したようにコントロールになってしまう。私がそんなつもりではなかったとしても、問題は「つもり」ではなく、方法論ですから。

内澤さんとアキラさんが同じな部分は、内澤さんの場合は三匹の豚に対して、アキラさんの場合は私に対して、カラダとアタマの接続を断った点でしょう。けれど、ここにも違いはあって、内澤さんは無自覚に、アキラさんは自覚的に、という点です。その差は、自身の「自我」を眺めているかどうかの差でもあると思います。

蛇足

特にアキラさんに限ってというわけではないのだけれど、一応、アキラさんに。
本当ならば、改めて記事にした方が良いのかもしれないけど、「アキラさんに向かって」が私には語りやすいので。

私は、本文では内澤さんについて、上のコメントでは加えてアキラさんについて勝手に語っていますが、これがアキラさんや内澤さんの実像だ、とするつもりはないんです。いえ、全然ないわけではないけど、私が語っているのは、あくまで私のなかにあるアキラさんや内澤さんの〈像〉についてであって、それはアキラさんや内澤さんの実体ではない。

そうした〈像〉のことを、私は〈霊〉だといっているわけなんですけれども。私の中の〈像〉だとはいっても、とても生き生きしている。〈クオリティ〉が高いんです。実像だと思い込んでしまうくらいに。

そして。私自身も私のなかにも、私自身の〈霊〉を持っている。もう少し正確に言うと、私の「器(インターフェイス)」のなかに私の〈霊〉がある。これもまた〈霊〉なので、私自身の実像ではないわけです。自分自身なのに自分自身ではない。このことは、いつだかのコメントでアキラさんが指摘されていたと記憶しています。

で、この自分自身の〈霊〉が、ここでいう「自我」。ここももう少し正確に言うと、自分自身の〈霊〉を自分自身だと思い込むことで「自我」が確立する。そして「自我」が確立してしまうと、自分自身の実像――なんてものはないと考える方が良いかもしれませんが、あるとすれば「魂」――との接続へ意識が向かなくなる。〈霊〉はアタマに所属し、「魂」はカラダに在る。〈霊〉はアタマに在りながら、「魂」・カラダとの接続を役割を担う窓口になっている。

近代に入って、ヒトは自我の確立した“人間”になった。これは別の言い方をすると、〈霊〉を認識しなくなったということだと思うのです。〈霊〉を認識しなくなってしまったがために、アタマとカラダの接続が悪くなって、“人間”になった。

この現象を「負い目」という観点から見てみると。アタマ-カラダ接続が悪くなると、「情」がアタマで「負い目」と感じられなくなる。ところが一神教では、外部に「負い目」を設けることで、そこをクリアしていた。「負い目」を一点に集約して超越神に担わせることでクリアした。

キリスト教の三位一体説「父と子と聖霊」なんて、まさにそれだと思う。「子」は「負い目」であり、「聖霊」は外部化した〈霊〉。それが超越神である「父」と一体化させることで、「情」→「負い目」の回路を外部化して、解消する。外部化の承認が「信仰」ですね。

キリスト教徒は、もともとそのような「負い目」の外部化回路を持っていたがために、すんなり近代化できて、“人間”になることができた――


といったことが思い浮かんだので、アキラさんの〈霊〉に向かって語りかけてみました。(^_^;)

なるほど♪

ありがとうございました。
愚樵さんの分析、よく分かります。
また〈像〉についても よく分かります。

確かに僕は「貨幣経済社会で暮らしている人々」に対しては、「情」が発動していないように思います。
もちろん、【システム】の搾取構造の末端に位置してしまうことによって苦しんでいる人たちには、「情」が発動しているし「負い目」を感じてもいます。
けれども、例えば件の漫画家の佐藤さん(夫)みたいな人には「情」はまったく発動しませんから。 (^_^;)


>「情」→「負い目」の回路を外部化して
<
なるほど、それでアタマ的になるわけですね。

追伸です

あと、これは直接的にはまったく関係のない話なのですが。
愚樵さんがこのへんのことについて、今後検討を重ねていく際の参考として、ぜひ次の点も考慮に入れてみておいてほしいなぁと思ったものですから。

野口整体の体癖論で言うと 前後型的な感受性(身体性)に典型的なのですが、ある湧き出す感情を「抑制する感情」というのが体にくっついたものとしてあるんです。
http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/51284497.html

野口先生は「感情を抑制する感情」というようなワケの分からない言い方をされていますが、確かにほかにうまい言い方が見つかりません。 (^_^;)
つまり、何らかの「情」が発動したときに、それをコントロールするのがアタマだけではなく、そういう情動をコントロールするような感情、というか情動?みたいなものがまたあるんですね。

皆が皆 持っているわけではないような気がしていますが、ともかくこういう抑制の感情が強く動くタイプの人たちもいるわけです。
ここは、アタマで分断したり抑制したりしてしまうことと、うまく削ぎ分けつつ検討していった方がいいように思っています。

これを強く持つ人にとっては、この「抑制の感情」が適度に発動すると、それは快感です。
その人にとっては心地のよいことだったりする。
もちろん過度に発動し続けると、それは強いストレスになります。

背景的感情?

・アキラさん、おはようございます。

ある湧き出す感情を「抑制する感情」というのが体にくっついたものとしてある

それって、R.ダマシオがいうところの「背景的感情」というやつでしょうか。

参考 ⇒ http://blogs.yahoo.co.jp/holesson460712136/18274240.html

「情」(←「なさけ」と発音するのが妥当でしょう)というのは、ダマシオ的にいえば身体の「情動」。感覚装置が受信した情報に対する身体の(自働的)反応です。そうした「情動」が脳でモニターされると「感情」になる、という理屈です。

こうした情動は、感覚器それぞれ(一次)、あるいは〈像(霊)〉ごと(二次)に起こるものですから、バラバラです。なので、それらを統合する身体の動きも当然ある。それがモニターされると「背景的感情」になる、と考えられる。

統合的情動ですから、それが理性的になるというのは頷けます。ただ、それのみ突出すると、自分の身体だけの統合になりますから、自己中になってしまうと推測できる。

体癖論というのは、身体の癖 ⇒ 情動発動の癖 ⇒ 感情モニターの癖 ⇒ 認識の癖 という理論構成になっているのだろうと推測しているのですが...

一般的な理論はともかく、実践的な方法論を考えていくには、体癖論は欠かせないでしょうね。

リンクの記事、読みました。

それを元にすると、まず僕が使っている「情動」は、背景的な感情の方だと言っていいと思います。
愚樵さんが上のコメントで使っている「情動」も、同じ使い方ですよね。
「背景的な感情」→「情動」、「情動的な感情」→「感情」、ですね。

それから、「感情を抑制する感情」というのはイコール「背景的な感情」ではありません。
ですが、おそらくその中の一つかと思います。
「背景的な感情」のところに、すでに何らかの動きがあるもののように思います。

「背景的な感情」は愚樵さんの仰るように統合的情動かもしれませんが、リンクにある僕の記事の後半より下に出てくる水頭無脳児の例を考えると、大脳皮質は関係していないのかもしれません。
http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/50769752.html

体癖論というのは、
「裡なる要求」(いのち)の癖 ⇒ 情動発動の癖(身体の癖) ⇒ 感情モニターの癖 ⇒ 認識の癖
という感じだと思うんですよね。

懐かしいなぁ

リンク先の、アキラさんの記事を読みました。それから昔の自分の文章も。

懐かしいというか、今も変わっていないというか、進歩していないというか。(^_^;)

「背景的な感情」のところに、すでに何らかの動きがあるもののように思います。

ふむふむ。そこいらの追究は、野口整体の得意分野かな?

大脳皮質は関係していないのかもしれません

私もそのように感じます。情動をモニターして感情を生み出している部分は、大脳ではあるだろうが新皮質ではない。たぶん。

大脳新皮質の機能は、詰まるところ「解釈」ではないかと思うのです。「自我」というのは自分自身の「解釈」ですよね。感情は自分自身であることの証しみたいなものですが、感情は解釈してしまうと、もはや純粋な感情ではない。

解釈するゆえに我あり。感情するゆえに己あり。

「裡なる要求」(いのち)の癖

ほう。「裡なる要求」に癖があると解釈(^_^;)しますか?

6年も前ですよ (^_^;)

「愚樵さんとの絆」って文章ですものね。 (^o^)

野口先生は「観察していると、生まれてすぐの赤ちゃんにもう体癖がある」と仰ってるんですね。
僕自身は赤ちゃんとの接触が(個人指導含めて)ほとんどないので、このへんの感触はまったく分からないのですけれど、野口先生は観察からのことしか仰いませんから、やはり生まれるときにすでに「癖(偏り)」を持っているのだろうと思います。

それで、体癖というのは「体癖素質」と「体癖現象」とに分かれてるんですよね。
「体癖素質」というのは、先天的に元々持っているもの。
「体癖現象」というのは、後天的に生じてきているもの。

僕自身とにしては「リクツ」として、ある「偏り」「凝り」みたいなものが起こるからこそ、大きなエネルギーフィールドからひとつの個体性としての「いのち」として発露していくんじゃないかと空想しているんですけどね。 (^o^)

おや、珍しい!

僕自身とにしては「リクツ」として、

これは“空論”ですね。(^-^) アキラさんがこの手の「リクツ」を語るのは、珍しい。

けど、そのリクツは間違っていないと感じます。

生命現象というのは、非平衡開放系で生じる散逸構造。「大きなエネルギーフィールド=生態系」であって、生態系が外部から取り込んだエネルギーを効率よく散逸させるために生じた“渦”のようなものなんだとイメージしています。

  行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。
  よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。 


です。動的平衡。“うたかた(泡沫)”が“渦”に置き換わったら、ドンピシャな感じ。

で、その“渦”は、本質的には同じ構造だけど、ひとつとして同じものはない。行く川のながれのちょっとした加減でもって、形が揺らぐ。というのも、もともと“渦”が出来上がるのも、物質そのものが持っている“揺らぎ”が原因だから。

それからすると、「体癖素質」は“渦”が生まれたときの“揺らぎ”の型。「体癖現象」は“渦”が渦巻きながら周囲との相互作用で生じてくる現象――これを“オートポイエーシス”というのだと思います。たぶん――といったところでしょう。

まあ、これこそ“空論”ですが。(^_^;)

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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