愚慫空論

『究竟の地 岩崎鬼剣舞の一年』を観た

映画のレビューを書くのなんて、初めてではなかろうか? アニメについては書くけど。

『究竟の地 岩崎鬼剣舞の一年』 剣舞は、「けんぶ」ではなく「けんばい」と読むのだそうだ。タイトルが示すように、ドキュメンタリー映画。


一言で言ってしまうのは乱暴だと承知しつつ、敢えて言ってしまえば、この映画で描写されているのは「伝統」。身体の記憶として受け継がれていくという意味での〈伝統〉である。

今日、「伝統」という言葉が示すところは大半は【伝統】である。内実が失われて形骸化し、形式を守ることで辛うじて保たれている【伝統】。【伝統】に類するものはいっぱいあって、【国家】とか【結婚】とか。あるいは【絆】とか【愛国心】とか。

内実が喪失したがゆえに、【伝統】をめぐる議論は二分する。(内実がないので)破棄せよという、主に左側からの意見。(内実がないからせめて)形式を守れという、主に右側からの意見。どちらも私に言わせれば「アタマデッカチ」で、尊重すべき内実のことをさっぱり忘れている。そのような近代教育を受けてきたので、仕方がないのかもしれないけれども。

(ついでにいうと、左側は近代教育への適応度が一般に高く、ゆえに「形式」の矛盾には敏感。左の主張は、自分が授かった近代教育の「形式」を至上とし、その形式に合わないものは破棄せよと主張する。対して右は、近代教育への不適応度が高い。その反撥から伝統の「形式」を尊重せよと主張するが、反撥が動機であるために、「内実」へはなかなか進んでいかない。)

『究竟の地 岩崎鬼剣舞の一年』において焦点が当てられているのは、鬼剣舞という「形式」ではない。鬼剣舞を通じて繋がっているコミュニティであり、そのコミュニティのなかで差異を際だたせている〈個人〉である。この〈個人〉は、前記事で取り上げた「分人」と対立する「個人」ではない。〈個人〉はほぼ「個としての身体」。鬼剣舞は、記憶として身体に刻まれるが、その記憶が具現化する(鬼剣舞が踊られる)とき、個の差異性が際立つ。コミュニティは、あくまで個の差異性を際立たせる「舞台」として成立しており、その「舞台」の縁を象(かたど)っているのが、岩崎鬼剣舞。

〈伝統〉における〈内実〉というのは、カラダに在る。それは、『究竟の地 岩崎鬼剣舞の一年』から感じられることでもある。この映画の目線は、客観的な分析の眼差しではない。踊り手たちに同調している。

映画上映の後、監督・三宅流のトークがあったのだが、そこで三宅氏は、撮影の多くは、踊り手たちと一緒に酒を飲みながら行なっていたと語った。酒にはアタマを鎮める効果がある。

三宅氏のトークで印象に残っていること。それは東北人の自己意識の在り方。3・11の津波の折、防潮堤を閉めようとした消防団員が数多く流されて命を落としたという現実がある。そのことを岩崎(は、内陸の北上市)の踊り手たちと議論をした。たとえ、自分の命が危ういことはわかっていても、コミュニティの危機を放り出して逃げることはあり得ない。自分よりもコミュニティ(共同体)の方が優先順位が高い――そのように話をしたという。

このようなメンタリティがどこから出てくるのはよくわからないけれども、記憶の身体性と深く関連していることは間違いないと思う。身体に刻まれた記憶から立ち上がってくる情動・感情が、自身を第一とする自我を抑えるということではないか。

思うに、このような、身体の記憶としての〈伝統〉は、日本のみならず、世界中、あらゆるところに存在してはず。近代化に伴って、その多くは〈内実〉が消失し、残っても形骸化した【形式】のみということになってしまった。その理由が、『岩崎鬼剣舞』を観ていて思い当たったような気がする。それは、岩崎鬼剣舞が生き残った理由でもある。

〈伝統〉の身体性は多くの場合、身体労働にあったのではないかと思う。生産と一体化した身体性に〈伝統〉の〈内実〉があった。そう考えれば、「働かざる者食うべからず」という格率が重視されたことも納得がいく。働かない者=身体の差異性を際立たせることのない者は、コミュニティの成員だとは認められなかったということ。それが、近代化の侵食とともに身体労働は機械労働へと置き換わっていき、〈内実〉が失われた。結果、〈伝統〉は【伝統】となり、【形式】を辛うじて保とうとして成員を抑圧するものへと変じてしまった。

岩崎鬼剣舞が〈伝統〉として生き残ったのは、1300年という「歴史の重さ」などではあるまい。そのカッコ良さ。際立った身体性が鬼剣舞にあったということではないか。

【追記】

先日の10月6日(土)に、河口湖のステラシアターでフラ・コンサートがあって、これもたまたま観る機会に恵まれたのだが。

フラからも、同様の〈伝統〉の身体性というものが感じられたように思う。特に、古典フラといわれる踊り。

踊りというのは、人間にとって大切なものかのかもしれない。

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