愚慫空論

「分人」と霊魂

今朝のツイートのまとめ。



・ 『私とは何か---「個人」から「分人」へ』著者:平野啓一郎~諸悪の根源は「個人」(現代ビジネス)

『私とは何か---「個人」から「分人」へ』(講談社現代新書)---この度、刊行した本書の副題に、おや?と思った方もいるだろう。「分人」とは、何なのか?

 一言で言うなら、人間を見る際の「個人」よりも更に小さな単位である。

 私たちは、日常生活の中で、当たり前のように多種多様な自分を生きている。勿論、妄想的に、勝手に分裂するのではない。常に、相手次第、場所次第である。

 職場の上司といる時と、気の置けない友達といる時とでは、決して同じ人間ではない。

 当たり前の話だ。しかし、環境によって容易に変化する自分というイメージが、個性的に、主体的に生きる自分という固定観念と矛盾を来すためか、私たちは、この事実をなぜか軽んじ、否定しようとする。

・・・



河合 隼雄著『 無意識の構造』より

西洋人の意識構造は「個人」的。対して東洋人は、「分人」的。「自我」が「個人」のセルフイメージに相当する。

・個人が諸悪の根源というより、分人的意識構造に「個人」を被せようとした近代教育こそが根源。「個人」とは、魂の脱植民地化理論的にいうならば、「蓋」であろう。

・「分人」が近代教育によって「蓋」をされたものだとするなら、「蓋」をされる以前の人間は、「分人」を意識していたはず。ただし、それは別の言葉で呼ばれていたはず。その言葉が「霊」。

 ( ⇒ 愚樵空論『霊魂』 )

・霊というのは、魂を持つ〈私〉が他者と相対したときに、インターフェイスのなかに生成される魂の分身。魂=「人」と考えるならば、「分人」は「分魂」。

・「個人」から「分人」への自己モデルのイメージチェンジは相当に有効だと思うが、陥穽に嵌まるおそれもありや、とも思う。東大話法的な無責任・不誠実を肯定しかねない。「個人」は、良くも悪くも自己イメージの中心に居座っていて、その「中心」があるからこそ、責任・誠実という感覚も生まれる。

・人間が、誠実であり責任を持つべき対象は、個人でもなく社会でもなく、自己の中心にある魂である。魂への誠実で責任ある行動を「学習」と定義するのが相応しい、と考える。

 「学習」については ⇒ 

・自己の中心を魂ではく、その分身の一部である自我(=個人)だと勘違いし、自我に対して誠実であろうとする態度を取ると、結果的に魂に対する不誠実になってしまう...ということを記述したのが、『私とは何か ~「個人」から「分人」へ』

・「個人(=自我)」のセルフイメージに対応する他者は「一つの身体」であるが、これは果たして本当か? 「一つの身体」というイメージは、単に物理的に「ひとつ」というだけではなくて、「ひとつに統合されている」というもの。手足は勝手にバラバラに動き出したりはしないもの、というイメージ。

・しかし、このイメージは、「自働運動(活元運動)」というものを実践してみると、必ずしも正しくないということがわかる。

  ⇒ 光るナス:自働運動ってやつ

その名の通り、体の力を抜いてポカーンとしていると勝手に出てくる運動で、だから、自働運動。
元々の、活元運動という名前は、元を活かす運動という意味合いで、つまり人間が元々持っている力を活用する運動ってことですね。

いわゆる無意識に起こっている運動を、体全体でせいせいやらせてあげようというのが、自働運動なんです。
無意識の運動、つまり、欠伸とか、まばたきとか、寝相とか、内臓の動きとか、そういうやつ。
自分で意識はしてないのに、勝手にやってくれている分野の運動。
そういう健やかさを保つためのことというのは、ひとりでにやっていることなんです。

教えられてやるのではないし、考えてやるのでもない。
それを頭でやろうと思うから不安になるけれども、体はとうに知っているし、とっととやっているんです。
だから余分なことに頭を使わないで、自然に従っていけばいい。
意識で考えてそうしているのではない。自働運動は、常にそこに還るものです。



・「自働運動」に関連して 『マインド・タイム 脳と意識の時間』(Passion For The Future) 
  私たちが意識の上で「今」だと感じている瞬間は正確には0.5秒くらい前

・【魂とは?】 1.私たちの身体のデフォルトの状態は、各部位バラバラの「自働運動」状態。2.バラバラの身体を(脳幹を中心とする?)神経系が抑止・制御・統合している。 この「統合」のイメージが魂では?

*****

余談。

・ちなみに。自働運動ってはやつは、むやみやたらにやらない方がいい。これは、身体を制御している「弁」を外してしまうものだから、それが癖になると、身体が思わぬ方へ勝手に動き出すという事態が起こる。これは社会生活を営む上では、かなり困った状態。

・実のところ、私は、その「困った状態」の二歩手前くらいのところにいる。一度、自働運動をやってから、どうにかすると、体が勝手に動き出そうとすることがあって、おっと、と慌てて静止することがしばしばある。こうしてPCに向かっているときでも、足が勝手に動き出そうとする (^_^;)

*****

余談、その2.

・生命を作った神が「生命の在処」として私たちのなかにいる。そんな論理矛盾を信仰という形で語ったシスターのことを思い出した。

 ⇒ 志村建世のブログ:いのちの歌とお話 

 そうした信仰を持つことができれば、「個人」であっても矛盾は生じないのだろうと思う。

コメント

統合。

仮設的に統合された空間としての「人格」はあるのでしょうが、「個」とは外部(他者)から定義される他ないものではないのかという気がします。

5歳の時の私と今の私では細胞から何から全てが入れ替わっているわけです。
同じものは何ひとつない。5歳の頃の記憶などおおかた忘れている。もはや別の人間です。
小学校低学年の時分まで住んでいた場所を成人してから再訪し、往時のまま残っている道やランドマークを見ると、過去の印象とまるっきり異なっていて驚愕します。まるで偽物の記憶を保持していたような、担がれたような気分にすらなる。

それでもなお、私が子供時代と同じ平行連晶であると自己規定すること・他者が認識することが何故可能なのか。
“identify”(同定)するという精神の働きがそう「思わせて」いる、ということでしょう。
自身の変化や流動性を意識させず、常に連続性・同一性を強く意識させる働きが脳にはある。知性には、個別の事物を個別のままに捉えることに堪えられず、統合的に認識しようという強い働きがあります。例えば五感も統合しなければ、それぞれ異質なプロセスを経て得られたバラバラで個別の知覚に過ぎません。

ただし、自ら統合を指向する脳の働きと、個という概念にはまた厳然とした違いがあります。
まず、統合されている状態=個ではない。
統合それ自体は脳の情報処理にかかる負担を軽くする働きがあるのでしょうが、個であるという認識は脳に負担をかける側面があるから。つまり、個として自らを同定するとはどういうことか、を考えざるを得ないことになるからです。

自他に対して自らの個を同定して見せることは、不可能なはずです。
私は私であると百万遍説いたところで、根拠にはなりえない。差異を示すことは可能でも、差異は個を担保するものではない。他者の視点に頼る他ない。

その不可能を自前でこなすという観念に取り憑かれているのが「自我」ではないのか。

そういえば、笙野頼子が面白いことを言っていました。
「土地の所有が自我を発生させた」
確かに所有者を同定できなければ、所有という概念は成り立ちませんよね。
とすると、自我は他者に提示するためのものということになる。

追記。

自分語りは今後やめようと思っているのですが、流れで締めとして付け加えさせていただきます。
当分コメントはしないと思いますので、今回は大目に見てください。

まず自働については、このエントリーを読むまで普通に誰でもしているものかと思っていました。
幼少期、歩きながら色々空想に耽っているといつも勝手に両手が動いていましたよ。中・高と管楽器をやっていましたが、演奏中に勝手に体がリズムを取って動くので、教師(顧問)から体でリズムを取るな=常に指揮者に従えと戒められて、止めました。それでメトロノームに合わせてアンサンブルとか、気持ちが悪くてね。
私がクラシック嫌いになったのは、その辺の影響があるのかも知れません。今はクラシックも、メトロノームで拍節感は得られないと教えるようですが。

自働もありましたし、恐らく生来のトランス体質みたいなものもあり、幻聴体質でもあったので、もともと自我がリジッドなものという意識が希薄です。ですから、「分人」という概念には違和感がないだけでなく、何故取り立ててこういうテーマが立つのかを不思議に感じる部分があります。
当たり前ですよね。人間、物差しは常に自分ですから。
幻聴は一過性だったのですが、起きぬけの意識レベルが変性した状態で起こるもので、存在するはずのない声や音が極めて明瞭かつクリアーに聴こえるものです。それも雑音のようなものでなく、一連の秩序が備わっている(マントラとか演説とか、音の調べとか)。統合が緩む、とはそういうことなのでしょう。これが通常の意識レベルの状態まで侵食してくると、統合失調症と呼ばれるようになる。

愚樵さんは「霊」という術語をわりと観念的に使ってらっしゃるようですが、個体によってはもっとずっと実体感を伴って立ち上がってくるものだと感じます。これはオカルトの話では、ありません。この実体感が強ければ強いほど、自我を仮設的な、かりそめの機能と感じるようになる(気がします)。

緩めれば個別にてんでに走り出してしまう様々な認識・知覚を便宜上束ねなければならないところに自我がある。これは私の身体的な感覚から来るイメージです。個別の知覚・認識がそれぞれに遊離したり結合したりする空間、それが自己。眠っていても自己。電車の中で居眠りし、夢うつつでも自己。統合を失調しても自己。自己は自ら規定する必要のないもの。

私が興味を持つのは、「分人」という概念になぜ焦点が当てられたのか、その辺です。
愚樵さんは「魂を健全化する」方法論を追究したいのでしょうし、私が下手なコメントを入れてもまぜっかえすようなものになりかねないので、今後は基本的に退くことにします。

なぜ?

・平行連晶さん

今後は基本的に退くことにします。

平行連晶さんの「自分語り」は全然OKです。それが混ぜっ返すことになっているとも思っていません。

私も基本的に「自分語り」をしているに過ぎません。一見、理論的な記述形式になるのは方便。もっと言ってしまえば、“癖”でしかない。

ヒトにはヒトの“癖”があり、それは、個人個人の“癖”を対比させていくことで明らかになる。私はそんなふうに思っていますし、今、別のコメントでアキラさんを挑発しているのも、そうした基本方針に基づくもの。平行連晶さんにも、もちろん、その方針を適用しています。笑。

なので、退かれるというのは、私としては残念なのですが、それが平行連晶さんのお考えであるのなら、致し方ありません。

「霊」という術語をわりと観念的に使ってらっしゃるようですが、個体によってはもっとずっと実体感を伴って立ち上がってくるものだと感じます

実体感を持っているというのは、同感。ただ、記述上はそうした印象を与えないように注意を払っています。その理由は、俗にいわれる“スピリッチュアル”というものとは一線を画すため。“スピリッチュアル”な人たちのなかには、実際に実体感を持ち、その実体感を正直に話す方々もいる一方で、思い込みで実体感を創作してしまっているように思える方々もいる。その区別を明確に付けることは不可能なので、“スピリッチュアル”な印象を与えないようにと思っている。

自働もありましたし、恐らく生来のトランス体質みたいなものもあり、幻聴体質でもあったので、もともと自我がリジッドなものという意識が希薄です。

平行連晶さんについての私の勝手なイメージと、一致します。そうした気質だからこそ、「静物」に惹かれていったのだと推測します。トランス体質は、言い換えれば憑依体質。身近なものには反応が強すぎて、それこそ自己との境界線が曖昧になってしまう。ゆえに、遠い存在に惹かれることで、自己と他者のとの対比を惹起し、自己を際立たせている。

私は逆に、自己意識(自我)が強いのです。だから、西洋クラシック音楽に惹かれる。惹かれて、そこへ没入したからこそ、自身の意識構造の在り方が「分人」的であるということにかえって気がつくことが出来たのだと思います。樵になってしまったのも、その「気づき」を確認するためのような気がしています。

ありがとうございます。本当に。

あくまで自己認識の話ですが、愚樵さんのエントリを、いい方向→話が豊饒に発展する方向にアシストする、よい合いの手を入れ、よいリズムを創るだけの才が自分にないのが、わかるんです。
アンサンブルであれば、私の側の技量があまりに不足していて、それにつき合わせることに気後れしてしまいます。

瑣末なことに私が引っ掛かって、コメント欄を迷走状態に持っていってしまう面もあります。

それと、私自身の呪いの出所について記憶を仔細に遡っていって、思い出したことがあります。大切なことなので、書かせて頂きます。
私が4歳から~小学3年生までの期間、記憶を辿れる限り最初期の遊び相手が2人おり、内1人がいわゆる典型的な「ソシオパス」だったこと。
私は彼に苛められたことは一切なかったのですが、彼は私の所有物をよく盗みました。彼の家は私の家よりも裕福だったのに、単純に盗むのが好きで、盗んでいた。名前を記入していないものだけを盗むので、証拠がなかった。
これはどうしたの、と恐らく私のものである玩具について聞くと、顔色ひとつ変えず、「もらった」と言う。

彼は小学1年生の頃には、雑貨屋などで万引きをしていた。一緒に店から出てくると、にやっと笑いながら戦利品を見せられたことがある。おそらく常習者だったのだと思う。
容姿は端整で、保育園児時代、既にバク中より難しい空中前転を軽々とこなす身体能力の持ち主で、さらにその身体能力を用いて級友と喧嘩すれば相手が死にかねないような暴力を平然と振るう。
彼は私の家のすぐ斜め前にありましたが、例えば彼の両親が喧嘩したり、中から怒声が聞こえたり、彼が暴力を振るわれている気配は一切ありませんでした。彼の体に痣や打撲の後などは一切見たことがない。

後年知ったことですが、彼は娯楽の一環として、非常に残忍な方法で仔猫などを嬉々として殺害していたらしい。私の母が、彼の祖母から聞かされていたそうです。祖母は彼の悪魔的な性格にとても怯えていたという。
飼い猫から生まれた子供を一週間もしたら眼にしなくなったので、彼に「仔猫どうしたの?」と聞いたら「親猫が噛み殺しちゃったに~」と淡々と答えていたのをうっすらと憶えています。

そして思い出しました。幼少時の記憶を辿ると、何も思い出せないのにいつも温かな、慈しみにあふれる多幸感がもたらされるのに、何故私の中に呪いが育まれたのか。
彼が私の「霊」の中に「呪い」の種を蒔いたんです。
そう。私は彼を殺さねばいけないと思った。こういう悪いモノは生かしておいてはいけない。彼をどうにかして殺さなければダメだ。そう思った。
同時に、そのような呪いを抱く自分を恐れた。自分の中のどす黒い感情をおそれ、自己を嫌悪するようになった。
自分を親の慈しみに見合わない、穢れた悪い心を持つ善くない子だと怖れた。自分も他人も信じられなくなった。

この呪いは、私が育つにつれて誰しもが受けるであろう人間関係における不和や裏切りを集約していく「根」となった。たぶん私はこの呪いを単に抱えているだけでなく、伝播したいという欲望をもっています。

で、愚樵さんへの私の感情には、この呪いをあなたに感染させて、あなたが人を信じたい、肯定したい、喜びを共にしたいという希望を汚染したいという欲があることに気付いたのです。今書いていること自体がそれを含んでいます。生まれつき「悪い」人間がいる。悪意は生得的なものである。故に愚樵さんの人間への信仰など無意味である。

私は愚樵さんが感染しやすい人だとは思っていません。しかし、私はこのままだと今後も呪いを含ませたコメントを付けてしまうかもしれません。
呪いは祝福さえも不信に変質させ、餌にしてしまう。(私は)祝福は呪いに対しては、弱いと感じます。
だから、まず私は自分の呪いをそれとは異なった呪いにより、無効にしないといけない。いや、そんなことが出来るかは全くわかりませんが、とりあえずやってみようと思います。

ですから、この場所を汚染しないために、一時退きます。
いつも本当に、ありがとうございます。あなたには親密さと敬意を感じています。これは本当です。

またのお越しをお待ちしております。

・平行連晶さん

お返事、少し遅れました。

私自身の呪いの出所について記憶を仔細に遡っていって、

瓢箪から駒、です。まさか、こんな記述が出てくるとは。

委細は承知しました。平行連晶さんの意志は尊重します。

私にとって、平行連晶さんとの対話は、そうですね、つかみ所がないという印象はありますが、それはそれで愉しいものだったということは、申し上げておきます。私と平行連晶さんとの距離は相当なものがあると思いますが、その距離を「裂け目」ではなく、辿るべき「旅路」のように感じていました。

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

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