愚慫空論

馬は「修行」のハイウェイ

昨日の記事にアキラさんからコメントを頂いた。曰わく、最後が???。最後というのは、要するに、馬が「修行」のハイウェイであるということだろう。

そのことを、この記事では記してみたい。なぜ、馬は「修行のハイウェイ」になるのか。

それにはまず、「修行」の定義である。

先日開催された第一回馬力学会の基調講演(といっていいのかどうかは???だが)で、安冨先生は「馬には異常な治癒力がある」と言われた。(下の動画、5分50秒あたり)

IWJ Independent Web Journal:2012/09/29 第1回馬力学会 ~馬に頼って馬力学会 in 粟島~


馬は何を治癒するのか? それは、アタマとカラダの接続である。アタマとカラダの接続が切れるのは、ある種の病気であり、馬は、その「病気」に対して異常なほどの治癒能力を持っている、という。

しかし、この「病気」は非常に有益な効果の高い病気ではある。特に現代社会において。アタマは、カラダからの接続が切れることによって、クルクルと効率よく回ることが出来るようになる。クルクルとアタマが効率よくまわることを、一般には「アタマがよい」と称されて、そういった人間は東大などへ入ることができたりする。

これは社会に必要とされる能力だが、いかんせん「病気」。そのような「病人」が社会を支配するようになると、世の中は変調を来し、発狂してしまう。当ブログで幾度も取り上げた「東大話法」は、そうした「病気」の症例である。

アタマとカラダの接続を切り離し、クルクルとアタマだけが回る状態になるよう勉めること。これを「勉強」という。「修行」は、その反対。アタマとカラダの接続をよくすること。

そのように「修行」を定義することができるなら、「勉強」という現代社会に適応するには有用な、しかし、それが行き過ぎて、社会そのものに変調を来す元になっている「病気」の治癒に異常な力を発揮する馬が、「修行のハイウェイ」であるとしても、なんら、おかしなことはない。

馬に異常な治癒力がある、というのは、安冨先生に限らない、馬に接したことのある人間に広く共有される「実感」である。それが実際に効果としてあるから、「ホースセラピー」といったことも成り立つ。私もわずかながら、その「実感」を得ることが出来たというのが、馬力学会で得ることができた収穫のひとつ。

*****

話はここで終わらない。もう少し、理論的なところへ踏み込んでいく。
(といっても、私に理論的なことを十分展開できる能力はないので、先にお断りしておきます。)

馬力学会の総会が終わり、懇親会があって、その懇親会も一端お開きになった午後10時頃から。唐突に安冨先生が語り出した「乗馬理論」が、「修行」の核心を突いているように私には思えた。以下は、その理論についての、私なりの解釈になる。(安冨乗馬理論は、そのうち、書籍といった形で陽の目をみることなるだろう。期待している。)

安冨先生は、既存の乗馬理論は全て誤っていると言いつつ、下のような図を描いた。


(実際に描かれたのは、2つの楕円だけ。イラストは、理解しやすいように付け加えた。)

下の太く大きな楕円は、馬の後ろ足の律動。上の補足小さな楕円は、人間のカラダの動きを意味する。
あたりまえのことながらば、馬の持つエネルギーは人間のそれよりも大きい。従来の乗馬理論は、そのエネルギーを人間が恣意的に制御できるものであるかの如く、組み立てられている、と安冨先生はいう。が、どう考えてもそんなことは不可能である。いくら手綱を操作し、拍車を掛けてみても、そもそも持っているエネルギーの量がことなるのだから、恣意的な操作など通用するはずがない。人間ができるのはせいぜい、馬の大きなエネルギーから発生する律動に、自身のカラダを同調させること。

二つの楕円は、その同調の様子を図示したものである。

私はその図を見、説明を聞いて、これは私が今、稽古を付けてもらっている野口整体のカラダの動き。そして、おそらくは合気道の動きと同じではないか、と思った。そのように発言をすると、馬力学会のもうひとりの発起人である、寄田勝彦さんは、その通りだとお答えになった。

(ここから寄田さんは、最新のアメリカの乗馬理論が、日本の古武術を参照したものであるという話を展開されたが、そこは私にはよくわからないので割愛。また、安冨先生は、複雑系の知見から、さらに学術的な理論展開をどんどん広げて行かれたけれども、こちらも、得心は行ったけれども、それを記憶を頼りになぞるのは不可能。なので、割愛。)

野口整体では、「愉氣」ということを行なう。これは何かと一言でいうならば「手当て」。身体の、病んだ部分に文字通り手を当てて治癒を促すという、現代医学の常識からすれば、そんな非科学的なことがあるわけはないじゃないかと言われそうなことをやっているわけだけれども、この「手当て」をする時に、必要とされるカラダの動きが、まさに、馬の律動に同調するために要求される動きと同じ(だと思う。ここは一度、私の師匠であるアキラさんにも乗馬をして頂いて、確認をしてもらいたいところ)。

「愉氣」の際に、邪魔になるのは人間の「作為」である。これがあると「力み」となり、余分な力が入ってしまって、「手当て」ではなく「マッサージ」になってしまう。傷んだ患部をマッサージしても、余計に具合は悪くなるだけで、身体がそもそも持つ自然治癒力を引き出すことなど、できない。

そうしたマッサージ的な動きをキャンセルするために、患部に当てる手や指の能動的な動きを地面へと逃がすというイメージで、カラダを作動させる。作動と言っても、実際にカラダを動かすわけではなくて、そういうイメージにピッタリくるところの姿勢を探し、維持する。これは稽古してみればわかるとしかいいようのないところなのだが、実際にそういう身体のポジションはある。

このポジションをいかに素早く的確に探り出し維持するか。それを練習するのが稽古であり、「修行」になるわけだ。

寄田さんは、このように言われた。確かに野口整体や合気道を修行することで、そのような身体を修得することはできる。しかし、それには、二十年三十年という修行期間が必要だろう、と。それに比べると、馬は、まず十分の一の時間で修得することができる。なぜなら、馬に乗って、その動きに合わせればよいのだから――と。

なるほど、「馬に頼る」というのは、そういうことなのかと、深く得心がいった次第。

 ⇒ 馬力学会HPのトップページを参照

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もちろん、馬力に頼らず、人力だけで「修行」を積むことは、それはそれで意味がある。修得に余分な時間がかかったとしても、それは余分な回り道などではなく、その間に掴むことが出来ることには大きいものがある。「修行」の旅路を辿るのに、馬がハイウェイ、あるいは特急列車だとするならば、旅路を徒歩で、あるいは鈍行列車で辿った方が、旅そのものとしては、趣きがあってよいだろうと言えるかもしれない。

 参考:光るナス 『ヒトのヒトたるキモ・シリーズ』
    『「生きている」の作法』

しかし、現代社会の状況を鑑みてみたとき。徒歩や鈍行では、間に合わなくなる可能性は否定できないところがある。その意味でも、今、「馬に頼る」ということの意義は、非常に大きいように思う。

馬力に頼って。あるいは、人力の「作為」を消す修行を積むことによって。もしくは、「森と生きる」「里山と生きる」といったようなことを体感することによって。花を学ぶ。茶を学ぶ。能を舞う――などなど、「修行」への「道」はいくつもあるはず。少し前までは、日本社会には、そのような「道」の入り口がたくさんあり、多くの人が意識をしないままに、その「道」を歩いていたはず(その代表が「百姓道」だろうと私は考えているが)。

が、現代の社会では、そうした「道」の入り口は、多くの場合、近代教育という名の障害物で塞がれてしまい、「道」を歩く者はめっきり少なくなってしまった。そうした「道」を歩くことで体得することができる、スムースなアタマとカラダの接続と、そこから必然的に生じてくる「作為」をキャンセルする身体の作動。ここには、魂の作動と呼ぶしかないような、生命の神秘がある。

コメント

早速にありがとうございました。
えっと〜、面白すぎました。 (^o^)
で、僕が一番聴きたかったところが全部割愛されてました。(半分冗談です)

何となく予想していた感じでしたので、その意味も含めてそうだよね♪でした。
あとは、そこで得られるものの「演繹能力」ですよね。

ありがちな「馬だとうまくいくんだけどね〜」といった現実を、どうやって段階的に対人関係に持っていくか。
そこが整備されてくると(もうされてるのでしょうかね?)、素晴らしい「入り口」になると感じます。

馬。

昔読んだ本の中に、人間と動物とのコミュニケーションについて関心を持つ著者が、鞍もあぶみも付けない馬に騎乗するネイティブアメリカンの高度な馬術とはどういった技なのかを一人の「長」に聞くという話が載っていました。
「長」は基本的に喋らない方で、質問に対してもなかなか口を開いてはくれないんですけれども、ジェスチャーで説明してくれたそうです。

その説明がね、左右の手で二つの円を描くというものだったそうです。
円を描いた左右の手を、そのまま拝むように掌を合わせ、次に両手でひとつの大きな円を描く。

それが、説明。

言葉で語られたことは、「お前が我々と同じように馬に乗ろうとしたら、馬と一緒に寝起きし、一緒に食べ、共に暮らす必要がある」と。


十数年前、一人旅をしていた際にアラン島で馬に会いました。
柵で囲った牧場があり、柵に寄ると牧場の端に一頭の馬が小さく見えていました。
馬は私に気がつくと、遠目に暫く眺めてからゆっくりと牧場を横切って私の目の前に来ました。
傍らに生えている牧草を適当にこいで口元に持っていってやると、もぐもぐと食べる。
当時は日本人が滅多に訪れる場所でもなかったので、見かけない変な奴がいるなぁと思ったんでしょう。

そのときに感じたのが、「この生き物は私という他者に興味を持って、私を知ろうとしてくれている」ということでした。
嬉しかったですね。自分が世界から肯定されている、という実感があった。
そういう素朴な「わたしはありのままで肯定されている」という感覚と、「治癒」というのは繋がっている気がします。
余談ですが、私はしばらく前から「世界から肯定されている」という実感をよく覚えるようになりました。

「正常な社会」vs「健全な社会」

・アキラさん

ありがちな「馬だとうまくいくんだけどね〜」といった現実を、どうやって段階的に対人関係に持っていくか。

この一文を素直に読むと、対人関係がうまく行かないのは異常だと感じがするんですけど、今の日本社会の状況からすれば、対人関係が上手く行かない方が健全なんだろうと思います。

「正常」という病に侵されている日本社会。いや、日本の限らず、文明社会というのは「正常」という病理を抱えている。

粟島で出会った若者たち。牧場で馬の世話をしている人たちといろいろ話をしてみたんですけどね。彼らは「正常」に人間関係が処理できないわけではないんです。そういう彼らのうちのひとりに、“よくこういうところへ飛び込んで来たね。”と私が言ったら、“飛び込んできたのではなく、逃げてきた”と返事があった。この感覚はとても健全だと思いました。

「修行」というのは、この「健全さ」を養い、確固たるものにしていくことだと言い換えることもできますよね。そうした修行の場として、馬と暮らすというのは、大変に有効なところだと私は思いました。そして、その「場」にいる限り、(馬も人間も含めて)「健全」な関係は維持される(だろう)から、敢えて「正常」な関係を処理していく必要はない。むしろ、狙いとしては、「正常」から「健全」へと「場」を広げていくこと。

ここは野口整体であっても同じことかと思うんですが、大きく異なるのは、馬に頼るか、自身の「修行」をその拠り所とするか。そして、どちらであっても、その「場」に相手を招き入れることさえ出来てしまえば、もう8割方、目論見は達したことになる。

となると、対人関係というのは、いかにして「正常」な相手を招き入れるか、つまり、普及させるかという問題になる。これはむしろ、対社会の問題でしょう。

だから、「学会」という発信の仕方になった――と私は理解しています。それは、「整体協会」を作るというのと、同じ発想でしょう。

もっとも。、「対社会」という問題意識の在り方は、私自身が強く持っているもので、だからそういう(私自身の)受け止めになるのかもしれませんが。

さらに「対社会」ということで言及しますと。「正常」な社会vs「健全」な社会ですね。 

「正常」な社会というのはシステマティックなんです。社会をシステマティックにしてしまう【システム】にこそ、病理の源がある。私が常々この場で主張していることです。対して、「健全」な場――宮台・ハーバマスが言うところの〈生活世界〉――は、【システム】によって分断されている。

それは、例えば、野口整体なら野口整体。馬力学会の発起人は寄田勝彦さんという方ですが、この方は『NPO法人インフォメーション・センター』というところを主催していていて、ここはここで独自に「健全な社会」を作っている。また、『いのちの祭り』で感じたことですが、ここもここで、独自に「健全な社会」を作っている。そして、それぞれに「正常な社会」に対して自己主張をしながら、しかし、「健全な社会」同士の連携ということにはあまり関心がないように感じる。そういうところにも、「正常な社会」の分断が効いている、という印象を持つんです。

そうした視点からすれば、今回の馬力学会というのは、個別の「健全な社会」同士の連携の始まりかな、とも思える。安冨先生を中心に、「魂の脱植民地化」というテーマで新たな学問を立ち上げようとする「健全なアカデミズム」があって、そことの「連携」が始まったかな、という印象。また、そうした「連携」は、もっと広がりそうな気配だし、もっと広げたいというのは私の願望でもあったりします。その願望は、ここのところ、非常に強く私のなかで意識化されてきたことでもある。

そんなわけですから、私はアキラさんも巻き込みたいと思っているんですよ。「連携」のなかに。(^o^) 野口整体が、「健全な社会」を作るために非常に有効な技法であることは間違いないと思っていますから。どうですか?

さらに私の願望ということでいえば、『いのちの祭り』を集う人たちとの「連携」もなんとか実現させたいと思っている。そんな目論見を持って、いろいろと動いてみたいと思っています。たまたま、そういう「縁」に恵まれたようですので。

Re:馬。

・平行連晶さん

鞍もあぶみも付けない馬に騎乗するネイティブアメリカンの高度な馬術

歴史的なことをいえば、新大陸にはもともと馬はいなかったはずです。記録では16世紀らしいですから、ネイティブアメリカンたちが馬と接触した機関は、せいぜいが三百年と言ったところ。モンゴルあたりの人々が高度な乗馬技術を持っているというのは頷けますが、歴史の浅いアメリカンネイティブが高度な技術を持っているというのは、直観的には納得いくのですが、少し考えてみれば不思議なことです。

「お前が我々と同じように馬に乗ろうとしたら、馬と一緒に寝起きし、一緒に食べ、共に暮らす必要がある」

その鍵は、この言葉にあるのでしょう。そしてまた、アメリカンネイティブは、こうしたことを当たり前にできる「構え」を持っていたということでしょうね。

(アメリカンネイティブの住居である「ティピ」も、馬が伝わってからのものらしいです。余談。)

私はしばらく前から「世界から肯定されている」という実感をよく覚えるようになりました。

その話を詳しく聞きたいですね。どういうきっかけで、そのように感じるようになったのか。

断片。

ここに書くことは、たぶん答になっていません。とりとめのない断片です。断片を集めれば全体になるわけでもないでしょうし、断片を眺めて自由に感じてくだされば結構です。
そもそも私は世界を肯定したいとも肯定されたいとも思っていたわけでなく、寧ろ世界を呪っていたクチです。

今住まっている部屋にアダンソンハエトリ(ハエトリグモの一種)がよく現れる。以前も書いた通り、ハエトリグモの仲間は無脊椎動物の中でも相当に眼が発達している。視覚に頼っている。そして、最大の単眼2つは頭胸部前面に付く。何に注意を向けているかが、一目でわかる。
気配を感じて私が目をやると、ハエトリと「目が合う」。じっと私を観察している。私を見ている。
しげしげと見つめてから、私に近づいてきて、体に跳び乗ってくるものもある。一度や二度のことではない。

馬もハエトリグモも、見方を変えれば大して違いはないんじゃないのか。

箪笥の上にスペイン/ピコス・デ・エウロパ産のスファレライト原石が飾ってある。ネパール/ガネーシュヒマール:ラパ産のキャビネットサイズの水晶原石、ナミビア/ブランドバーグ産のアメシスト原石なども。
これらのもつ形・色はある必然的な法則に則り形成されたものだが、人間の美的感覚に沿うよう意匠され創られたものではない。しかし私はこれらを比類なく美しいと感じている。
美しいと感じることを誰かから教わったわけではないにも関わらず。

鉱物は己の美しさを知らないが、私はそれの美しさを感覚する。一方、私はその感覚の源泉を知らない。
その感覚は私の知らない私自身の闇の中からやってきた。私自身で育てた記憶はない。

眼に映る世界、肌で触れる世界、耳が捉える世界、見慣れたありきたりの風景が時にあまりに美しく、よく正気でいられるものだと自分に感心する。これが私の呪いに対する答なのかと思う。

後天的に色覚を喪った人の見る世界とは、モノクロームの写真や映画のような世界なのかと思っていたけれど、違うらしい。彼等が見ているのは、何色とも形容しようのない、不快極まる耐え難い「色」だという。
精神を病むほどの。「見る」ことがもはや苦痛になるほどの。

私が見ている世界、肌で触れる世界、耳が捉える世界、これらは全て実相ではない。
人間は存在の実相を捉える知覚を持たない。知覚には制限がある。
美しい何かがここにあるのか、本質は解らない。ただ美しいと感じる知覚の・精神の相互作用がある。
人間が自らの力で獲得したわけではない、知覚と精神の相互作用が。

今朝もハエトリ(♂)が私を見ていた。彼は私に何を見ているのだろう?

自由に、ではなく、自在に。

世界を呪うということは、自分を呪うということに他ならないでしょう。

未完成の状態でこの世に誕生してくるヒトは、人間からの祝福を必要としている。祝福が得られなければ、ヒトは人間にはなれない。祝福の不足分は、呪いになる。

人間はなぜ美を感じるのか? それは、不足しているからでしょう。不足しているからこそ、そこを補う何ものかに出会ったとき、それを美と感じる。

連携

まぁ そのへんは、機が熟して巡り会わせのときが来れば・・という感じでしょうかね。 (^o^)

多様なまま はたして連携ができるのか・・・。
その意味で、そもそも連帯は必要なのか?
そのへんがポイントになるような気がします。
「小異を捨てて大同につく」といった話になってきてしまうと、元の木阿弥だとも思いますし。

〈連携〉か【連携】か

・アキラさん

多様なまま、連携することはできます。
むしろ、多様性を追求するために〈連携〉が必要なんだと、私は思ってる。

大切なのは「小異」です。「小異」を際立たせるために「大同」ではなく、「大和」する。
「大同」は【連携】。「大和」は〈連携〉。

君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず。

私はもうすでに、アキラさんとは〈連携〉しているつもりでいます。ずっと以前から。〈連携〉させてもらうことで、どれだけ「小異」が広がったことか。この「小異」こそが〈私〉であり、「小異」が広がるほど「和」の範囲も広く深くなっていく。

「健全な社会」とは「同」ではなく、「和」が機能する社会です。

その意味で、そもそも連帯は必要なのか?

アキラさんに限らず、自分の方法論を(早くに)確立している人々ほど、そのように疑問を持つ傾向があると私は感じています。早くに確立できたということは、それだけ「正常な社会」との確執が少なくて済んだということでしょう。その分、「正常な社会」がもたらす分断が効いている――というのは、あくまで仮説ですが。

呪い。

>未完成の状態でこの世に誕生してくるヒトは、人間からの祝福を必要としている

いつも感心させられますが、愚樵さんは実に聡明ですよね。
仰る通りですよ。

そして、その「祝福を必要とする」という事実こそが、耐え難い強欲さに感じられて、それが呪いの原動力となっているわけです。
他者の生命を収奪し、生活圏を乗っ取るだけでは飽き足らず、祝福までも求めるという、その強欲さに怒りと憎しみを覚える。呪いを育てる。

10年間ばかり、蛇を飼っていました。
蛇は顎を開いて、自分の頭よりも大きいくらいの餌を丸呑みにするのですが、いつも実に苦しげに餌を呑む。
命を得るための苦行のようでした。「食の愉しみ・食の味わい」と対極にある光景でした。
私は蛇が餌を食む姿にいつも敬意を感じていましたし、羨望も感じていました。
これだけの苦しみがあれば、生きることが許されていいだろうと。

まあ、そのように感じられるということと、実相がそのようであるかは別の話なので、単に私の認識が歪んでいると言ってしまえばそれまでなんですけど。
逆に私の諸感覚器官が、様々な事物を豊穣に、美しく、まるで私を肯定しているかのごとくに「見せて」いるのも、彼ら(つまり諸感覚器官という他者)が生きるための都合に過ぎないのかもしれませんし。どのみち私の理解を超える話です。

>アキラさんとは〈連携〉しているつもりでいます。ずっと以前から。〈連携〉させてもらうことで、どれだけ「小異」が広がったことか。この「小異」こそが〈私〉であり、「小異」が広がるほど「和」の範囲も広く深くなっていく。
<
これは僕もまったく同感です。 (^o^)

〈連携〉がそういうものであるのなら、自分の持ち分をしっかりやっていれば、それですでに〈連携〉してることになるような。。。

あんまり確証はないんですけど、僕は「正常な社会」との確執がほとんどないように思います。
最初からドロップアウトしてる(した)気がします。

それぞれの持ち分

アキラさん

自分の持ち分をしっかりやっていれば、それですでに〈連携〉してることになるような。。。

はい。アキラさんはアキラさんの持ち分。私は私の持ち分。で、それぞれの持ち分は重なり合う。

その重なり合いを増やしていこうよ、というのが「私の持ち分」だと思っているのです。

最初からドロップアウトしてる(した)気がします。

でしょうね。それが成功したから分断されている。というより、分断を意識せずに済んでいる、と私は言いたいわけです。

アキラさんと対話をしていて、いつも不思議に思うことがあるんです。ある特定の分野については、アキラさんはなぜか物分かりが悪い。そんなに難しい話ではないんです。自ら理解しようと踏み出せば、わかるはずのこと。

自ら踏み出しさえすれば、わかる。このことについては、私はずっと確信を持っていましたが、アキラさんの稽古を受けてみて、さらに確信が深まった。〈連携〉に効果ですね。野口整体という技法は、「踏み出し」が特に大きく影響する。

社会というのは、よくも悪くも「連携」です。「正常な社会」は【連携】であり、「健全な社会」は〈連携〉だ、と表現してもいい。で、私たち人間は、その「連携」からドロップアウトすることは、原理的に不可能。

なのにアキラさんは、ドロップアウトしたという。言えてしまう。言えてしまうことが「分断」(の内面化)だと私は思う。それが効いているから、社会における連携の、端的な形である経済については、アキラさんは理解が進まない。「分断」されているから「踏み出し」が起きず、ゆえに理解に結びついていかない。アキラさんの知力からすれば、(たとえ私の説明が稚拙であっても)、理解はさほど難しくないと思われるにも関わらず。対話をして、時に「ピッタリ」を捉まえたと思っても、すぐに「ピッタリ」から外れて行くという感触を、いつも持つ。

内面化してしまった「分断」は、非常に気がつきにくいものです。私の中にも、そういう「分断」はたくさんある。アキラさんの目からは、私自身が気がついていない私の内面化した「分断」は、きっとたくさん見えていることでしょう。

私がここでいう〈連携〉とは、この「分断」を解除していくことを指します。それには、まず、それぞれが「持ち分」を持つ必要がある。それがないと、内面化された「分断」が見えないからです。「持ち分」を持つことで「分断」が見えたら、互いにそれを解除するように働きかけを行い合う。そうした〈連携〉を行なう中で、「分断」による秩序で成り立った「正常な社会」から、〈連携〉による秩序が常に生成する「健全な社会」を作り出していく――と、まあ、そんなことを考えているわけです。

文明は呪いから生まれた

・平行連晶さん

他者の生命を収奪し、生活圏を乗っ取るだけでは飽き足らず、祝福までも求めるという、その強欲さに怒りと憎しみを覚える。呪いを育てる。

それ、逆だと思います。祝福が足りず、呪いが生まれるから、他者の生命を収奪し、生活圏を乗っ取らなければいられなくなる。

先日、馬力学会というイベントがあって、新潟県の粟島というところへ行っていました。そこで、どういう会話の成り行きだったかは忘れましたが、安冨先生が、「私は文明の起源は、親の子どもに対する虐待だと思っている」というようなことを言ったんですね。それはさすがに言い過ぎだろう、とそのときは思ったんですが、平行連晶さんと対話をしていて、それが言い過ぎではないという気がしてきた。

生命の合理的な収奪は、まさに文明というものの基盤です。それは、祝福が不足するという呪いから生じた。自力で生存していくことができない子どもにとって、祝福の不足は呪いであり虐待。

これだけの苦しみがあれば、生きることが許されていいだろうと。

命を得るのは、人間にとっても苦行だったはずです。効率よく生命を収奪できる文明が発達する以前は。私は仕事柄、そうした「苦行」を体験している。もちろん、昔に比べればずっと軽減されたものでしかありませんが。

私はしばしば「生きて在ることの負い目」ということを言います。この感触は、「苦行」と表裏一体。「苦行」から逃れたい、楽をしたいという思いがあると同時に、その「苦行」があったからこそ、得たものも大きいとも思っている。なぜ「苦行」が「負い目」を感じさせるようになるのか、それは謎ですが、食に関していえば、その味わい、愉しみは、「負い目」の対極にではなく、すぐ隣にある。これは私の偽らざる感触。



>「正常な社会」は【連携】であり、「健全な社会」は〈連携〉だ、と表現してもいい。で、私たち人間は、その「連携」からドロップアウトすることは、原理的に不可能。
<
あぁ、これは分かります。
僕が「ドロップアウト」と言ったのは、「正常な社会」とマジメにつき合うのをやめている、という感じですかね。

確かに「経済」の話は、いつもチンプンカンプンです。
興味が湧かないからかもしれません。
それを理解した先に、どんないいことがあるのか、それが分からない・・って感じですかね。
だから貪欲に理解する方へ気持ちが働かない。のかな?

ところで、「正常な社会」に「分断」されている、とはどういうことなんですか?
それによって何が起こるのでしょうか?
何かマズいことが起こるのでしょうか?

僕の感触では、「正常な社会」とマジメにつき合うのをやめていれば、自ずと「健全な社会」の〈連携〉が成り立つように思うのですが。
あ、これは「力み」を抜くと「つながってる」が分かる・・みたいな話に聞こえますね。 (^_^;)

感謝。

愚樵さん。

ありがとうございます。

このような自分語りのたわ言に対して、誠実に向き合ってくださる愚樵さんに、感謝しています。
実生活ではこういった話は全くできませんし、事実上ほとんど別人の姿で生きていますので。
実生活の側の自分が作り物・虚偽というわけではないのですが。

>他者の生命を収奪し、生活圏を乗っ取るだけでは飽き足らず、祝福までも求めるという、その強欲さに怒りと憎しみを覚える。呪いを育てる

これは人間一般の話でなく、私個人のことです。
私はたぶん、家族からの慈愛にも友人からの情にも恵まれきた方だと思います。何度も何度も皆に助けられてきた。
皆の温かさに、居心地の悪さを感じてしまうのです。幼い頃から。自分が祝福に足る存在ではないと感じてしまう。
それとは別に、愚樵さんの仰っていることも、わかります。

>食に関していえば、その味わい、愉しみは、「負い目」の対極にではなく、すぐ隣にある。これは私の偽らざる感触

これが実感として湧かないのは、私の前半生が比較的暖衣飽食であったことに関わっているのかもしれません

「正常」の根深さ

・アキラさん

それを理解した先に、どんないいことがあるのか、それが分からない

という状態が、「正常な社会」に「分断」されている、といってよいでしょう。

それを理解した先に何が生じるのか? 「負い目」を背負うことになるだろうと思います。

「負い目」は「力み」を生みます。繋がるには力を抜かなければならないが、力を抜くにはまず「力み」を感知できなければならず、が、「負い目」を背負っていなければ「力み」の所在もわからない。わからないのは「分断」――と、話は堂々巡りです。

「正常な社会」とマジメにつき合うのをやめていれば、自ずと「健全な社会」の〈連携〉が成り立つように思うのですが。

仰るとおりです。「正常」であろうが「健全」であろうが、社会はすなわち「連携」。なので、【連携】を排すれば自ずと〈連携〉になっていく。それはその通りです。

【連携】とは、端的にいえば、【交換】です。一般的には、【交換】は「健全」なことだと思われています。アキラさんもそう感じているだろうと私は思っています。ですが、【交換】はかなり「不健全」な経済行為です。

【交換】が成立するためには、【交換】されるもの同士が「等価」でなければならないが、「等価」などということを測定する基準など、実は何処にもない。何処にもないものを“在る”と思い込まなければ、【交換】は成立しない。この思い込みこそ「正常」です。「健全」さを阻害するもの。

「健全」とは、外部の規範に従わず、自身の感覚のみに従って「調和」を生むことです。「正常」とは、自身の感覚を封印し、外部の規範に従って「秩序」に従うことです。「調和」を生むのも、「秩序」に従うのも、完全に為しえることができれば、「力み」は生じない。

が、一旦、「秩序」に疑問を抱くと、そこには「力み」が生じる。

経済を理解すると何が生じるのかというと、「秩序」に疑問を抱くことになる。疑問を抱いた「秩序」に従わざるを得ないという意識は「負い目」を生み、「力み」を生じさせることになるので、人間の脳はなるべく理解しないように、無意識のうちに調整してしまう。その状態が「正常」という病であり、「分断」です。

身体にも同様のことがあるかと思います。病んだ身体はバランスの悪いところに、敢えて落ち着こうとする微妙な動きをする。「正常」への動きです。「正常」でも身体は不自由なく動かすことはできる。が、整体を修行するということは、そうした「正常」を感知し、「健全」へとバランスを整えていくことなのではないでしょうか? そして「正常」から「健全」への過程で、「力み」を意識するようになり、そこを解消していく。

その1

えっと~、じゃあ「経済はチンプンカンプンだし、それをよく知るべき根拠が見つからない」と思ってる僕は、経済に関して自分自身の感覚を封印し、外部の規範に従って「秩序」に従い、「負い目」を感じていない・・ってことになるのでしょうか?

例えば「経済」ではなくて「原子力の平和利用」ということで考えれば、愚樵さんの仰ってる「論」は分かります。

「原子力の平和利用」と似たようなニュアンスのことが、「貨幣経済」というやつにもあるよなぁ・・という程度の理解は僕にもあって、で、それで十分だとも思ってるんですね。

それ以上を知らないと、それが「正常」という病であり「分断」なのだ・・ということなのであれば、そういう話はもう 一つ一つのトピックについて言えることですよね?
そうして そうなると、全てのことを同様のレベルで知っていないと、それは「正常」という病であり「分断」なのだ・・という話になっちゃいますよね?

そのへんはどうなのでしょうか?
僕はそれは「罪を見つける(作り出す)目線」みたいなもののように感じるんですけど。(^^;)

それから、

>【交換】が成立するためには、【交換】されるもの同士が「等価」でなければならないが、
<
これがちょっと分かりません。
例えば「貨幣経済」は、このリクツでは回ってませんよね?
同じものの値段は変化しますし、自分の1日の労働力の対価も様々です。
で、それを「等価」だと思って「交換」はしてませんよね?

自分なりの「見合う・見合わない」があって、見合っていても「交換」するし、見合っていなくても「交換」しますよね?

で、この「見合う・見合わない」の感覚は、僕はむしろ「贈与経済」的な感覚のように思うんですよね。

その2

身体については。

>病んだ身体はバランスの悪いところに、敢えて落ち着こうとする微妙な動きをする。
<
これはないですよ。(^^)/
病んだ身体なりのベストバランスというのはあると思います。

けれども、常に「よりマシな」バランスになろうとしていて、隙あらば変わっていこうとしています。
「敢えて落ち着こうとする」のは、アタマのしていることです。

僕が整体の稽古の中で「力み」を抜くことを目指しているのは、「ピッタリ」を掴まえたいという「目的」を持っているからです。
「力み」を抜くこと自体が目的ではないんです。

「力み」自体は、僕は個性のうちだと思うんですね。
日常的な心身。
それは、僕はあっていいものだと思っていますし、なくさないといけないアカンものでもないと思ってるんです。

Re:その1

アキラさん、おはようございます。

僕はそれは「罪を見つける(作り出す)目線」みたいなもののように感じるんですけど。(^^;)

や。まさに仰るとおり。アキラさんの側からすれば、「罪を押しつけられている」と感じるでしょう。クリスチャンに「悔い改めよ」といわれるみたいに。(^_^;) 

そのように言われて、「はい、では、悔いを改めます」と即答できる人はなかなかいません。私はしばしば「生きて在ることの負い目」(今回の「負い目」は、その一バージョン)と言いますが、これとて、大半の者には、なんじゃらほい? でしょう。

貨幣というのは、もともとは脱呪術化装置です。山本七平がいう「空気」を生み出す臨在感的把握。これは得てして「呪い」になりますが、それを断ち切って「交換」可能にするための装置が貨幣。「幣」の字がつくのもそのため。

ところが近代以降、脱呪術化装置であったはずの貨幣が呪術装置に転化してしまった。それこそが近代の特徴だと私は解釈しています。貨幣が呪術装置になったことが「正常」となり、それがシステマチックに発展して【システム】が〈生活世界〉を圧迫し、〈社会〉が呪いで蔽われて、発狂した。それが、今、私たちが暮らしている社会です。

「原子力の平和利用」と似たようなニュアンスのことが、「貨幣経済」というやつにもあるよなぁ・・という程度の理解は僕にもあって、で、それで十分だとも思ってるんですね。

「原子力の平和利用」は欺瞞です。原子力というよりも、核というべきでしょう。核は、地球の生態系に持ち込んではならないもの。で、「ニュアンス」と言いますが、ここがキモでして、もし「貨幣経済」が「原子力の平和利用」と同等に欺瞞であるとするならば、貨幣経済というのは、核と同様に廃絶しなければならないという話にならなけばおかしい。けれども、アキラさんを含め、ほとんどの者はそう考えない。おかしいけれど、欺瞞ではないだろうとなんとなく感じているが、それで十分だろうと自分を納得させている(ように見える)。

この症状は、まさに「正常」という病のものです。

貨幣経済の重要性から核技術の重要性を説く者たちの主張が破綻しているのは、明らかです。にもかかわらず、核技術を必要とする貨幣経済の破綻を言い立てる者は、まずいません。論理的に考えるならば、そうなってもおかしくはないはず。が、大半の者は、論理破綻があるのは、貨幣経済と核技術の間だと思っている。「原子力の平和利用」と似たような欺瞞性が貨幣経済にもあると、薄々感じていても、それでも、論理破綻を貨幣経済と核技術の間に見出そうとしている。実におかしなことです。

この現象は、これは「蓋」が生じてしまっていると解釈することが可能で、しかも、その「蓋」を指摘されると感情的な反撥を生むというところまで、「蓋」の理論と整合する。アキラさんについていえば、感情的とはならず、理性的に「罪の押しつけ感」だと分析することが出来ているのですけれども、しかし、「罪」や「恥」の意識ほど純粋に感情的なものもない。これらは、理性の及ばないところで生じるものです。

Re:その1のその2

で、それを「等価」だと思って「交換」はしてませんよね?

その通りですが、思っている思っていないは関係がないと、みんな思っているのではないですか? その「関係ない」を権威付けるために経済学などというものがある。私は経済学はプロパガンダに過ぎないと思っていますが、その理由がまさにこれ。「関係ない」というプロパガンダのための経済学。

本当は関係あるんです。いえ、関係あるはずなんです。市場というのは「マーケット」と「バザール」の二つの意味がありますが、現在、一般的なのは「マーケット」です。市場原理は「マーケットメカニズム」ですからね。価値は価格となって、自動的に定まるという発想。そして、だからこそ、安定した「秩序」が生まれるという、これはイデオロギーというのが正確。

もともとの「バザール」はそうしたものではない。バザールにおいては、個々人の価値観が衝突して、その結果として価格が決定される。個々の衝突の結果としての合意が「等価」とみなされる。自動的に「等価」が決定されるわけでは、決してない。

経済の要所要所には、いまだ「バザール」が機能しています。にもかかわらず、私たちは市場というえば「マーケット」だと思い込んでいるし、その思い込みはおかしいと薄々感じていても、そのおかしさを解消しようとする術を積極的に見出そうとはしない。

自分なりの「見合う・見合わない」があって、見合っていても「交換」するし、見合っていなくても「交換」しますよね?

そのとおりですが、おかしくないですか? 見合っているから「交換」というのは、理解できます。が、なぜ見合っていないのに「交換」なんですか? その差分が「贈与」だと仰っているのでしょう。けれど、それを贈与と呼ぶのは私は誤っていると思う。

贈与というのは、受け手がその価値を定める――というのは内田さんの指摘です。私はそれに同意する。受け手によって自発的に定められる価値が定められるのが贈与。受動的でかつ自発的。これ、何かに似ていませんか? 愉氣の際の、「ピッタリ」に似ていると私は思いますが、どうですか?

見合っていないと感じているにも関わらず「交換」が強いられるということは、その差分は「ハラスメント」になっているということです。で、「交換ハラスメント」から逃れようと思えば、所有する貨幣の量を増やすしかない。「見合う」「見合わない」は絶対的基準ではなく、所持する貨幣を基準とした相対基準ですから、ハラスメントからの離脱が金持ちになること、というのは当然の帰結です。

けれど、現在の貨幣経済世界を見渡せば、貧富の格差は拡大している。ということは、「交換ハラスメント」が広がっているということです。そして、原理的に、貨幣経済は、格差は広がるように出来ている。

「ピッタリ」を目指して経済を眺めてみると、そのようなことが理解できてしまうんです。

Re:その1のその3

余談というか、本質というか。

アキラさんは「ピッタリ」を追い求めた結果、「やる気」がなくなるんだということを仰っている。この「ピッタリ」と「やる気」の相関構造は経済にも当てはまると私は思っています。

で。その構造を表現したのが『魔法少女まどか☆マギカ』だと思っているんです。いえ、正確には、そういうふうに『まどか』は解釈できるという私の主張ですが。

主人公のまどか以外の魔法少女たちは、みんな「希望」を持つ。つまり「やる気」なんです。けれど、それは【希望】なんです。魔法少女たちは「やる気」を実現するためにインキュベーターというバケモノと契約をするわけですが、このインキュベーターこそ、貨幣を呪術に変えてしまった金融システムの象徴。「やる気」(企業精神)に融資が与えられるということが、「奇跡」に置き換えられている。

本来、「やる気」というものは、それが実現されるとなくなるはずのものですよね? 「やる気」を受動的かつ自発的に追求していくと、最後は「脱力」してしまう。ヒトのみならず、生命の「欲求」はそのように出来上がっているものです。ところが、人間の固有の「欲望」というやつは、「やる気」が増殖する。「欲望」に取り憑かれると、自身の生命の営みを破壊してでも、脅迫的に「やる気」を追わずにいられなくなる。その結果、徳をするのは、奇跡を与えた者。『まどか』ならインキュベーター。現実の貨幣経済世界では金融システム。

なぜそのようなことになったのかというと、奇跡を起こす権利(通貨の発行権)を金融システムに委ねたからです。そういう「事件」歴史上あったんです。その結果、貨幣は、脱呪術装置から呪術装置へと転化した。私たちが日々手にしている通貨の発行元は、銀行システムです。それを疑いなく信用している間は、「正常な社会」の「分断」からは逃れられない。システマチックに「ピッタリ」へ行き着けない仕組みになっていることに気がつかなければ、何も始まらない。

これは、まったく論理的な帰結であると私は思っています。

長くなっちゃいました

>僕はそれは「罪を見つける(作り出す)目線」みたいなもののように感じるんですけど。(^^;)
<
そうです、「それって罪なんですかね?」という素朴な疑問です。(^^)
愚樵さんの仰ってることは、理解しているつもりです。

「秩序」というものは(特に人為的なものは)、ある合理化がなされ、それゆえ限界を持っているものでしょうから、どうしたって初めから一長一短がありますよね。
そうして、その秩序に従う・従わざるを得ない場合は、その一長一短を呑むということになるんだと思います。

そして、僕は「贈与」というのは「受け手がその価値を定める」というだけではなくて、「贈り手もその価値を定めている」と思うんですね。
で、各々の「見合う・見合わない」の判断が絡むので、「見合ってない」と感じるギャップに"も"「負い目」が生じるんだと思います。
それが「呪い」にもなる。


「核」の廃絶は「可能そうだな」「可能だな」と思えます。
何とかなりそうなメドが見える、想像できる。
ところが「貨幣経済」のシステムの廃絶となると、僕にはそのような想像ができないのです。
例えば愚樵さんの案を聞いても、「いける」と思えない。

疑問を持ってないわけではないんですが、全体を覆えるような有効そうな発想が想像できない。
ですから「廃絶しなければならない」("なければならない"に注意)とは思わないんです。

けれども、アメリカのどこかの話だったと思いますが、田舎の商店街的な「生活世界」にウォルマート的な「システム」が入ってきて、それに覆い尽くされた後に撤退され、ペンペン草も生えないような状態に捨て置かれた街が、地域通貨的なものでドルにほとんど頼らず再生してる・・といった話をどこかで聞いたことがあります。
そのような実例は、非常に興味深いと思いますし、そういう事例を検討していくと、どこから何が可能になっていくのかが観えてくるようにも感じます。

こういう「思い」は"「正常」という病"なんですかね?


「等価」だと思っている思っていないは、本当は関係あるんだ・・・とのことですが、ですからそもそも「等価」だと皆さん思ってないと思うんですけど。(^^;)
「見合う・見合わない」を何となく(あるいはしっかりと)判断してると思いますから。

そして、「受け手がその価値を定める」というのは、まさに市場経済的なやり口でしょう。
仕入れの段階で買い手が作り手(生産者)をそうやって買い叩いていることで成り立ってるんですから。


「贈与」については最初に書いたように思っているので、見合ってないのに「交換」するときの差分を「贈与」だとは思ってません。

>見合っていなく ても「交換」しますよね?
<
については、仰るとおり僕も
『見合っていないと感じているにも関わらず「交換」が強いられるということは、その差分は「ハラスメント」になっているということ』
だと思ってます。

で、多分その「交換ハラスメント」から逃れようと思って、僕は「マジメに付き合うのをやめている」ように自分では感じています。

また、「見合う・見合わない」は「所持する貨幣を基準とした」相対基準・・だとは思いません。
かかった手間とか費用とか、加えて自分がそのものについて付加したい価値とかで「見合う・見合わない」を感じていると思います。

「交換ハラスメント」は広がっていると僕も思います。
けれどそれは、「受け手が価値を定める」からこそ・・とも感じます。


>「欲望」に取り憑かれると、自身の生命の営みを破壊してでも、脅迫的に 「やる気」を追わずにいられなくなる。
<
これは同感です。
ラカンもジジェクも言ってますし、人間の悩ましい側面だと思います。

僕は「贈与」自体がそもそも呪術的なものだと思ってるので、愚樵さんの「論」には、いろんなところに素朴な疑問を感じます。
ただ、通貨の発行元を疑いなく信用している間は問題が生じ続ける・・ということには同感です。

深まってまいりましたねぇ (^o^)

「贈与」を定義します。本当は最初にすべきでしたね。

僕は「贈与」自体がそもそも呪術的なものだと思ってる
僕は「贈与」というのは「受け手がその価値を定める」というだけではなくて、「贈り手もその価値を定めている」と思う

経済の循環は、自然からの贈与で始まる。で、自然は、私たちに贈与を行なう際に、その価値を定めているか? そんなわけがない。そもそも「自然からの贈与」ということからして、人間の側の勝手な「思いなし」ですよね。

「呪い」というのは、「思いなし」から生じる。

しかし。

自然を呪ってみたところで、自然は全く応えてはくれません。人間が勝手に、これだけの収穫があるだろうと「思いなし」、その「思いなし」どおりにいかなかったからといって自然を呪っても、自然は「呪い」には応えない。「呪い」「思いなし」など全く関係ないところでグルグル回っているのが「自然(しぜん)」であり「自然(じねん)」なんですから。

でも、自然からの純粋贈与を、受け手である人間が独自に価値を定めることそのものは「呪い」ではない。贈与の送り手が贈与物の価値に「思いなす」をし、受け手がその「思いなし」を斟酌してしまうと、「呪い」が生まれる。

貨幣はそうした送り手の「思いなし」を切断するための、脱呪術化装置だったわけです。ただ、その脱呪術化のやり方は、より強力な「呪い」で弱い(贈り主)の「呪い」を切断するというものだった。貨幣というのは、誰からも信用されるという「思いなし」の集合体。最強の「呪い」です。それが近代に入って増殖しはじめ、その増殖が「正常」だとみなされてしまったので、「病」に冒され、不健全な状態へと陥ってしまった。

以上の文脈を踏まえて、貨幣経済の「呪い」を解呪するための贈与経済。そこでの「贈与」というのは、自然からの「純粋贈与」に近いものです。贈与物が「贈与」たるには、贈り手の贈与物への「思いなし」は、思いなしてはいけないという「思いなし」が要る。

おそらく。マルクスが考えていた共産主義は、これだと思います。「能力に応じて働き、必要に応じて取る」。生産者(贈り手)の生産物(贈与物)への「思いなし」があっては、消費者(受けて)は必要に応じて取ることはできない。この理想が実現されたとき、貨幣は廃絶されているとマルクスは考えていた。らしい。

マルクスが考えた贈り主の贈与物への「思いなし」消去の方法は、無限大の生産効率上昇でした。生産性が上昇すると、それだけ生産者の「思いなし」は相対的に減る。生産性上昇が極限にまで達すれば生産者の「思いなし」を無とすることができるだろう。そのように理想を描いたわけです。そうした合理性でもって「解呪」がなせると考えたので、「唯物」だったわけです。

しかし、マルクスが夢想した合理性は、実は不合理だということが判明した。原子力は、その夢を託されていたのですけど、破綻してしまいましたからね。けれど、まだその夢にしがみついている者は多いです。反原発を唱えている者でも、唯物的科学的合理性への夢想を捨てきれない者は結構いるようです。

けれど、実は、一部でマルクスの描いた夢は実現しつつあるのですよ。それはインターネットのデジタル世界です。ここでは、コピーに要するコストは限りなくゼロに近づいていますから。生産性は極大にまで達したと言える。そうした状況が出現したからこそ、著作権といった生産者の「思いなし」がグルグル回す経済を阻害するものとして、認知されるようになってきたわけです。

私が夢想しているのは、著作権といった【思いなし】から、著作人格権という〈思いなし〉へ切り替えよう、というものです。著作権が贈与物への【思いなし】なら、著作人格権は、贈与者への〈思いなし〉。そうした切り替えでも、経済はまわります。原理的に可能。それを私は「贈与経済」と呼んでいる。

すなわち。受け手は、贈り主への〈思いなし〉に従って、その対価を支払う。マルクス経済が「唯物」であるとするなら、「贈与経済」は「唯人」です。

では、唯人的贈与経済では、ハラスメントはないのかというと、あります。ただ、ハラスメントから逃れることが容易であるだけではなく、逃れた方が経済的に有利になる。

現状の貨幣経済もハラスメントから逃れることは原理的に可能です。ですが、それは「アクロバット」になるんです。可能だけれど、誰にでもできるわけじゃない。だから、経済全体としては、どんどん悪い方向へ進行していってしまう。

けれども、アメリカのどこかの話だったと思いますが、田舎の商店街的な「生活世界」にウォルマート的な「システム」が入ってきて、

この実例は、つまるところ、「分断」されつくしてしまったので、後は繋がるしかない、という状態になったということですね。そして、ここでは当然、「分断」による大きな被害が発生している。

その被害を我がこととして捉えるかどうかです。捉えれば、それは「負い目」になるでしょう。自分と同じ【システム】のなかに暮らしている者たちが、【システム】の被害に遭った。

被害に遭った者は、愚か者だったからその被害は必然なのだ、という新自由主義的イデオロギーを信奉すれば、「負い目」を抱くことはないでしょう。が、彼らはたまたま偶然、そういう被害に遭った。私が被害に遭わずに済んでいるのは、幸運だからだ――と考えるなら、「負い目」を負うことになる。

長くなりましたね。(^_^;)

僕は贈り手が自分の贈り物(労働)に「思いなし」をまったくしないということは不可能だろうと感じます。
もしも可能だとしても、「現状の貨幣経済とマジメに付き合うのをやめる」ことよりも、何倍も何十倍も「アクロバット」だと思います。
大悟したお坊さんくらいなんじゃないか、それができるのは・・と思っちゃいます。

ですから、愚樵さんの仰る「贈与経済」は「いける」と思えません。
すんなり「ムリだ」と思います。(^^;)

自らの「労働」に対する「誇り」や、受け手の側の「いじめ」などの話に当然からんでくると思われますが、そのへんがクリアできるのですか?

僕は、『【システム】が〈生活世界〉を圧迫し、〈社会〉が呪いで蔽われて、発狂した』から「発狂した」んじゃないだろうと思ってます。
多分、人間は最初から「発狂してる」。
ですから、【システム】が〈生活世界〉を圧迫しない状況を実現しても、問題はクリアされないだろうと感じます。

それから、「私が被害に遭わずに済んでいるのは、幸運だからだ」という「負い目」を感じていれば、"「正常」という病"ではないということですか?

人間はいつ発狂したのか?

アキラさん、おはようございます。

多分、人間は最初から「発狂してる」

この部分が、たぶん、私とアキラさんの人間観・世界観のもっとも異なる部分かもしれません。
私が「子ども」に理想を見、アキラさんは「大人」に理想を見る。むろん、「正常な大人」ではなく「健全な大人」ですが。

私はヒトは、初めから呪われた存在だとは思っているんです。平行連晶さんのやりとりでも記した通りですが、生まれた赤ん坊が「健全」に育つには、周囲の人間の祝福・愛情が必要。しかも長期にわたる。このヒトの条件設定を「呪われている」と解釈するのは間違いではないと思っている。けれど、その「呪い」を解呪する方法を人間はデフォルトで備えているとも思っていて、だから、「魂の作動」が重要で、そこを十全に発揮させるために「魂の脱植民地化」が必要という話になっていくわけです。

ですから、私のいう「人類が発狂した」というのは、「魂の作動」を見失ったということ。

ですが、「最初から発狂している」というと、ヒトにはもともと健全な「魂の作動」といったようなものを持ち合わせていない、というふうに受け取れる。

だとするならば、です。整体とは、いったい何なのか? たまたま「発狂していない」偉大な人物が現れ、その指導に従って発狂から解脱しようとするものなのでしょうか? 

心の習慣

僕は贈り手が自分の贈り物(労働)に「思いなし」をまったくしないということは不可能だろうと感じます。

まったくしないということは不可能だろう、ということには同意します。

贈与物が「贈与」たるには、贈り手の贈与物への「思いなし」は、思いなしてはいけないという「思いなし」が要る。

この文章ですが、贈り物(労働)への「思いなし」があることが前提です。その前提の上に、それを空ずる(否定とはいいません)「思いなし」が要る、としている。前者の「思いなし」は男性原理的で、人間の根本的な習性でしょう。それを抑圧してしまうとかえって妙なことになる。

対して人間の後者の「思いなし」は、「心の習慣」とでもいうべきもの。男性原理的なものを空ずる習慣を持とういうもので、それは可能か否か、ということですね。で、アキラさんは不可能だろうという。

これは事実に反していると思います。男性原理的な「思いなし」が社会秩序の基軸となったのは、ここ5000年程度のことだと言われています。5000年遡ると有史以前になりますが、それでも人類の歴史からすれば、僅かな期間です。大部分の期間は、男性原理的な「思いなし」はあったはずですが、それが社会の秩序を形作る「価値」となっていたわけではない。

問題の焦点は「価値」なのです。「誇り」は「価値」なのか? 個人として「価値」とするのは問題はないでしょう。が、それが社会の根本的な「価値」となるとどうか?

家族という最小の社会で考えてみれば、労働への「誇り」などといったものが、家族を秩序づける「価値」ではないということがわかります。家族の成員が、自身の労働の「価値」を主張するとどうなるか? もっとも稼ぐことのできる者がもっとも価値の高い者であり、労働によって価値を生み出すことができない子どもは、もっとも価値が低い――などという「価値観」に支配された家族が幸せな家族だとは、私はまったく想像できません。

私が主張してるのは、労働への「誇り」を否定せよというのではない。そうした「誇り」を持つ人間を肯定せよ、ということ。そうした肯定は、たとえ不運な自己などで、労働への「誇り」が保てなくなるようなことがあったとしても、保ち続けることができる。人間の外部に「価値」に囚われず、人間そのものの「価値」を重視せよ、というごく単純なことです。

それがムリだとは、私は全然思えません。ただ、貨幣経済とまじめに付き合うと、難しい。アキラさんもそう思っておられるから、貨幣経済とマジメに付き合わないという方法を実践しておられるのでしょう?

「負い目」≒風邪

それから、「私が被害に遭わずに済んでいるのは、幸運だからだ」という「負い目」を感じていれば、"「正常」という病"ではないということですか?

「負い目」が風邪に相当すると考えてみると、「健全」というのは風邪をひくことができる身体。「正常」というのは、風邪をひくことができなくなった身体だと考えられるのではないでしょうか?

そう考えてみると、「貨幣経済とマジメに付き合わない」「経済に関心を持たない」というのは、風邪をひかないように心がけている、ということになります。それに対して私は、風邪をひけ、と言っていることになる(^_^;)

そうだとして。

風邪はわざわざひいてみる値打ちのあるものか、否か? という問いは、整体の視点に立てば、この問いの立て方そのものがおかしいということになるのではないでしょうか。風邪はひくときにひけばよい。わざわざひくことも、ひかないように防御するのも不自然なこと。

私は、自分の心づもりとしては、アキラさんに敢えて風邪をひけ、と言っているつもりはないのです。けれど、アキラさんからは、敢えてひけ、と言われているように思えてしまうのでしょう。

僕はそれは「罪を見つける(作り出す)目線」みたいなもののように感じるんですけど。(^^;)  (コメント4945)

という反応は、まさにそれではないのでしょうか? そして、風邪をひかないための防御を「分断」と言っています。

(「分断」の意味は混乱していますね。本来の意味は、風邪をひくことが「分断」ですが、アキラさんに対しては、防御を「分断」と言っています。)

愚樵さんの仰ってる「価値」の意味合いが分かりません。
「誇り」が「価値」だとは思いませんが、何らかの個人的な「価値」が見出されるからこそ、そこに「誇り」が生まれるんじゃないですか?
なんか、考え方がヘンな気がするんですけど。 (^_^;)


愚樵さんの言い方で言えば、確かに僕は「大人」に理想を見ています。
でも、そういう大人は先に言ったとおり、よほどの人でない限りあり得ない。
その見果てぬ夢に「理想」を見ているんです。

それは、『多分 人間は最初から「発狂してる」 』と感じているからです。
「自然」ということを想ったときには、おそらく人間の存在はそもそも「不自然」だと感じているからです。
極論すれば、「自然」ということにおいては、人間は初めから「異常」だと思っているんです。

ですから、僕においての整体は、『「大人」に理想を見る』という見果てぬ夢を見る作法、ですかね。
「自ぃ識」で生きれば、それがオッケーな姿なんだよ・・ということではなく、それがギリギリマシな姿なんだよ・・といったようなニュアンスです。

そこから振り返れば、『思いなしてはいけないという「思いなし」』を「見果てぬ夢」なのだと認識して追おうということであれば、そこには同意できます。
だけれども、愚樵さんの言い方を聞いていると、どうも「実現可能な夢」として認識しているように聞こえるので、そこで「僕は不可能だと思う」と言いたくなってしまいます。

それは、僕は「子ども」状態はすでに「異常」だと思ってるからでしょうね。


僕が最初から気にしているのは、愚樵さんが仰るように2点のみです。
一つは、「僕のような想い方は"「正常」という病"なのか?」ということ。
それからもう一つは、愚樵さんのアプローチのしかた、です。

で、僕は愚樵さんの言う『「私が被害に遭わずに済んでいるのは、幸運だからだ」という「負い目」』を感じていると自分では思ってるんです。
でも愚樵さんは、「あなたは“病気”ですね」と最初に「診断」しました。
そして、そのあとの僕の反応に「あぁ その“病気”によくあるパターンですよ」と応じています。

僕は、ですから、「僕のような想い方は"「正常」という病"なのかな?」と???なんですね。
で、どういうのが"「正常」という病"という状態なのかを知りたいわけです。
それで、自分の想っていることをいろいろと書き記してみてきています。

で、です。
僕は愚樵さんの言う『「私が被害に遭わずに済んでいるのは、幸運だからだ」という「負い目」』を感じていると自分では思ってるんですが、愚樵さんはそれでもそれを「風邪をひかないように心がけている」と仰る。
ということは、
《『「私が被害に遭わずに済んでいるのは、幸運だからだ」という「負い目」』を感じていると自分では思ってる》僕は、やっぱり"「正常」という病"だということですか?

そして、もしそうなのであれば、どういう人が"「正常」という病"でない状態の人なのですかね?

返事がおそくなりました

アキラさん。ちょっと出かけていたもので。返事がおそくなりました。

「価値」の意味合いについて。

経済の話をしているということが前提です。経済の基盤が何処にあるかという議論に、自然価値説、労働価値説、貨幣価値説などありますが、ここでいっている「価値」は、そうした価値。すなわち、「交換」を含む財・サービスさらには精神的な「思い」を、やり取りする基盤となっているところ。社会に共有された「思いなし」。

(「媒介形式」という言葉を使ったこともあります。これも、ここでいう「価値」です。)

ですから、個人的な価値というのは、経済の基盤であるところの「価値」ではないんです。基本的に。けれど、人間は、個人的な価値を経済基盤であるところの「価値」だと「思いなし」をしたいものではありますね。アキラさんご指摘の通り。私はそこに合意しつつ、けれど、その「思いなし」をなしにする「思いなし」をしようと主張しているわけですね。

そこから振り返れば、『思いなしてはいけないという「思いなし」』を「見果てぬ夢」なのだと認識して追おうということであれば、そこには同意できます。

ここまでは、今までいろいろと対話を重ねてきて、私たちの間の共通認識になっていることだと思っています。

だけれども、愚樵さんの言い方を聞いていると、どうも「実現可能な夢」として認識しているように聞こえる

私が実現可能だと思っているのは、「見果てぬ夢」を見てもいいんだよという「思いなし」を基盤に成り立つ経済、だといえばいいでしょうか。

「見果てぬ夢」はどこまでいっても見果てぬ夢です。それは真理というべきものであり、経済の形がどうであれ、変わらない。けれど、「思いなし」は変えられます。そして、共通の「思いなし」は経済を基礎づける「価値」となる。

アキラさん自身も、「見果てぬ夢」を追求することと、貨幣経済とは整合しないと感じておられるはずなんです。だから、まじめに付き合わないというわけでしょう? 経済が拠って立つ合理性――のの計測基準が「価値」――は、「見果てぬ夢」をシステマチックに排除していきます。

僕が最初から気にしているのは、愚樵さんが仰るように2点のみです。
一つは、「僕のような想い方は"「正常」という病"なのか?」ということ。
それからもう一つは、愚樵さんのアプローチのしかた、です。

核心を突いてこられましたね。(^-^) とくに、後の疑問。

まず、お詫び申し上げます。私は今回、アキラさんを挑発したんです。どういう挑発の仕方をしたかというと、「正常という病」の診断基準を引き下げたうえで、アキラさんに適用した。

通常の診断基準でいけば、アキラさんは「正常という病」にはあたらない。けれど、私も含めて「正常という病」に全く冒されていない人間はあり得ません。「正常という病」は、人間であるということと同義であり、それはアキラさんがいう「人間は初めから発狂している」ということとも同じです。

で、今回、診断基準をどこに設けたかということですが。私は最初、

アキラさんに限らず、自分の方法論を(早くに)確立している人々ほど、そのように疑問を持つ傾向があると私は感じています。早くに確立できたということは、それだけ「正常な社会」との確執が少なくて済んだということでしょう。その分、「正常な社会」がもたらす分断が効いている

としました。これはなぜ、そのように見えるのか、私の見方を明らかにした方が理解しやすいでしょう。それは一次産業と三次産業の差異なんです。

アキラさんは整体師で、分類するならば三次産業でしょう。一方、私は林業労務者で一次産業。しかも森林というのは、その営みの周期が人間のそれよりも長いため、貨幣経済に組み込まれて人間化してしまう「産業化」がしづらい分野であると同時に、されてしまうと弊害が大きく出る分野でもある。

森の営みというのは、もとより「健全」です。そして、森の生態系もまた経済なんです。経済というと人間の専売特許であるかのように思われるのが一般的でしょうが、人間の専売特許は貨幣経済であって、広義の経済は森にもある。というより、生態系こそが本来的な意味での経済。「健全な経済」の理想型は生態系です。

で。貨幣経済と森林の経済は根本的なところで相容れない。一方、林業というのは、貨幣経済を基盤に成り立っている産業。ですから、林業を産業として確立していけばいくほど、森林の「健全な経済」を破壊していくことになる。

これまでは、林業と森林の折り合いは、林業を産業としては中途半端な形において確立させないことでバランスしてきたんですね。「樵」というのは、そういう折り合い方を指す言葉として私は用いているつもり。林業労務者というと林業専属ですが、「樵」は林業を得意分野とする百姓といったような意味です。

少し話がわき道に逸れました。

一次産業に比べ、三次産業はまだ貨幣経済との折り合いは悪くないんです。というのは当たり前で、貨幣経済が発展したからこそ、三次産業があり得る。一次産業は貨幣経済とは対立的であるのに対して、三次産業は共存的。私とアキラさんの貨幣経済への目線の違いはここにあると私は感じています。

対立的なところをスタンダードにおくと、共存的は対立的になる。真面目に付き合わずに済むのは、もともと共存的だからです。けれど、根っこが対立的だと、真面目に付き合わないということが原理的に不可能。真面目に付き合わないと、どんどん相手に侵食されていく。真面目に付き合わなくても上手くやっていくことが可能なところにおられるアキラさんと、それが不可能なところにいる私と。この差異が、貨幣経済に対する温度差になっていると思うんですね。今回の場合。

私の場合は、「正常」から離脱しようと思えば、真面目に経済と格闘せざるを得ない。で。格闘しているか否かを「正常の病」の診断基準にしたのです。

技術の質の違い

追記。視点の違いについて。

アキラさんの技術と、私の技術とでは、大きく異なる点がひとつあります。それは、アキラさんの技術は「活かす技術」であるのに対して、私のは「殺生の技術」だという点です。

「活かす技術」は、生命に対して共存的。「殺生の技術」は対立的です。ここのところが、技術についての誇りという点で、非常に大きな違いになっていると思うんです。

対立的な「殺生の技術」では、自分の労働に「価値」を見出してしまうと、生命への「価値」が見失われてしまうことになる。

私は自分の労働に誇りを持っています。それは、生命と向き合うっているという誇り。生命と向き合うということはアキラさんとは同じだと思いますが、アキラさんが順接だとすると私は逆接なんですね。殺生をすることで向き合っている。

だから。『思いなしてはいけないという「思いなし」』は、私にとっては順接なんです。このような逆接的な「思いなし」をできるということが誇りになる。自分の労働に「価値」をおこうとする「思いなし」を空じ、生命に「価値」をおく。

が。生命は、人間の専売特許であるところの貨幣経済を基礎付ける「価値」にはなり得ない。生命は計測不可能だから。

といって、計測不可能なものが経済を基礎付ける「価値」になりえないかといえば、そうではない。

もろもろ了解しました。

となると、「負い目」は「風邪」には相当しませんね。
「健全」というのは風邪をひくことができる身体、「正常」というのは風邪をひくことができなくなった身体だ、と置き換えることもできない。
この「負い目」は、何か「よきもの」とすることができないものなのであれば、ある意味「ガン」みたいなものじゃないですか?
気づいた「負い目」を降ろすことは、事実上不可能なんですから。
風邪みたいに経過できるものではありませんよね。

『真面目に経済と格闘しているか否かを「正常の病」の診断基準にした』
これがそもそもミソですよね。
僕はお百姓さんをメインにやっていたときも、すでに「マジメに貨幣経済とつき合う」ことをやめていました。
今の仕事が整体指導者だから・・・ではないんじゃないかと、僕自身は感じています。
僕がそもそも「そういう人」なんじゃないでしょうか。

一方で、愚樵さんはそもそも「マジメに格闘したい」人。
なんかそういう違いのように感じています。

で、その「真面目に経済と格闘しているか否か」を自分でやる分には全然かまわないと思うんですが、それを「万人がしなければならないこと」と もしも してしまうのだとすると、そこでちょっとミョーなことになるんだろうと思いました。
今回の愚樵さんのアプローチは、最初の感触は「以前 うちに戸別訪問に来た日蓮正宗のお坊さんみたいだな (^_^;)」だったし、後半にかけては「なんだ、もろキリスト教じゃんか!」でした。 (^_^;)

悔い改めようのない「罪」を相手の中に見出しては、「悔い改めよ」と言っているようなアプローチでしたよね。
その「罪(負い目)」を自覚するのはいいんですが、自覚したからといって、その実それを降ろすことは不可能。
そこまでを内包したようなアプローチでない限り、響いたとしても、「そうだ! 私は罪深き人間だ」「悔い改めたいです」になって、そこからは「悔い改め」の無限ループの地獄です。
その「負い目」を降ろすことは出来ないんですから。
そして、愚樵さんのコントロール下に置かれてしまうことになります。

僕はこのようなアプローチはハラスメントだと思ってるんですよ。 (^o^)
それが最初っから、ずっと気になっていたんです。
けれど、僕が自分で気がつけないところで"「正常」という病"であれば、この愚樵さんへの観え方は間違っていることになります。
それで、先に挙げた2点を解明すべく、ずっといろいろ記してみてきたというわけです。

僕は今回 単純に知りたい要求でやりとりしていたので、おそらく「感情」は動いていないと思います(自分で思ってるだけですが)。
でもそれは多分「アクロバット」です。
ここでこちらの「感情」が動いてしまったら、僕はこれは立派なハラスメントだと思いますよ。 (^_^;)


>これまでは、林業と森林の折り合いは、林業を産業としては中途半端な形において確立させないことでバランスしてきたんですね。「樵」というのは、そういう折り合い方を指す言葉として私は用いているつもり。林業労務者というと林業専属ですが、「樵」は林業を得意分野とする百姓といったような意味です。
<
これは非常に興味深かったです。
僕の理想とピッタリでした。 (^o^)

いろいろ分かって面白かったです♪

ハラハラしました。

愚樵さんとアキラさんのやりとりを見ながら、ハラハラしてました。(^_^;)
でも、良いもの見させていただきました。
お二人のスタンスというか、なんというか、が少し見えた気がしました。
うーん。わかんないコメントですいません。

すぺーすのいどさん

ハラハラさせてしまって、すみませんでした。(^^;)
批判し合ってるわけではないので、大丈夫っすよ。

こうやって愚樵さんと話をしている中で初めて気がつくこともたくさんあるので、僕自身はとても勉強になってるんです。

今回のこのやりとりは、僕の中では、愚樵さんに直接会って「愉氣」のことを共有し、いろいろ話をしているということがあったので、敢えて話をしてみたのでした。
以前のようなネット上だけのやりとりだけだったら、しなかったと思います。

アキラさん、ありがとうございます。

アキラさん、わざわざありがとうございます。

大丈夫です。私もご両人がケンカしてるとは思っていなくて、なんていうか、スポーツでいうと緊迫した良い試合を見ている感じでハラハラしたという感じでした。

あれ?

・アキラさん

先のアキラさんのコメントにすぐ返信したんだけど、なぜか鍵コメになっていて、今、気が付きました。ブログ主が自分のコメントを鍵コメにしてしまったのでは、他の誰も見ることは出来ませんよね?

なぜ、そうなったのか? まあ、いいや。改めて書き直すとします。

僕はこのようなアプローチはハラスメントだと思ってるんですよ。 (^o^)

はい。私もそう思っています。ただし。

愚樵さんのコントロール下に置かれてしまうことになります。

コントロールを目的としたものでは、断じてない。日蓮宗の坊さんやキリスト教の伝道師に似ているというのは、わかります。というより、そういうことをしているのだと、私の方から申し上げている。その上で「挑発」だとも言っている。

コントロールを目的とするハラスメントとの違いは、その最終が理知的に「理解できるもの」であるということ。私は最初に、経済のカラクリはアキラさんが理解できるのだと申し上あげました。すべてはそこが前提で、よしんば、理解へと至る過程でコントロールがあったとしても、理解へ至れば自ずから解放される。コントロールを目的とするならば、最終ゴールとはまやかしで、そこには「理解出来ないもの」を据えておかなければならない。

私にとって不思議なのは、なぜ、「理解出来るもの」と「理解出来ないもの」とを混同するか。この不思議は、私の側からは、アキラさん自身が理解を阻んでいるように見えるわけです。その光景を、私は「正常という病」と称している。

余談ですが、経済についての理解の発端を私に与えてくれたのはブログ『晴耕雨読』の管理人の早雲さんですが、その早雲さんは、「物理法則を理解するように、理解できる」と仰っている。私もまったく同意見です。それはすなわち、物理法則のように我々を規定してしまうということ。

もろもろ了解しました。

この了解のなかには、

私が実現可能だと思っているのは、「見果てぬ夢」を見てもいいんだよという「思いなし」を基盤に成り立つ経済、だといえばいいでしょうか。

が原理的に実現可能だという理解は含まれていないように思います。もし、そこが理解できたなら、私の「ハラスメント」の目的も理解ができて、“コントロールされてしまう”というのがアキラさんの思い込みであることが理解できるはずだからです。

が、それはもういいでしょう。結局、アキラさんは、理解を拒否しているのだと感じます。拒否しているものを強要するのは、その目的がどうであれハラスメントです。私としては、貨幣の内面化の頑固さを改めて思い知った次第です。

なお。

この「負い目」は、何か「よきもの」とすることができないものなのであれば、ある意味「ガン」みたいなものじゃないですか?

という記述ですが、これは同意すると同時に、違和感を感じると申し上げておきます。

私はアキラさんの理解を促す目的で、「負い目」≒「風邪」としました。論理的に言えば、「負い目」≒「風邪」は、同時に、「負い目」≒「ガン」であっても何ら問題はありません。なので、上記述に同意できるわけですが、アキラさんは「負い目」≠「風邪」/「負い目」≒「ガン」だとされる。「風邪」と「ガン」のどちらがより「負い目」に近いかという議論が提起されること自体が私の意図の拒否なのだと、私は感じます。

最後に。私のハラスメント行為をお詫びしつつ、再会を楽しみにしています。(^o^)

真剣勝負です。

・すぺーすのいどさん

お気に掛けていただき、ありがとうございます。

一点。コメントを訂正して頂きたく。

スポーツでいう

スポーツではないのです。真剣勝負です。だからアキラさんは、

愚樵さんのコントロール下に置かれてしまうことになります。

とまで、感じることになる。

実際のところ、貨幣とは真剣勝負を強いられます。なにせ、私たちの暮らしを握っているのが貨幣なのですから。

はい、僕も愚樵さんがコントロールを目的としてやっていたとは思ってません。
「手法(術)」としては結果的にそうなりますよね?という話のつもりで、そのような書き方をしました。

ですから、僕自身がここでハラスメントを受けているとか「コントロールされている」と感じているわけではありません。
誤解させてしまって、すみません。
真剣勝負だとは思ってます。

今回のやりとりは、言ってみれば僕の完全なるおせっかいですから、そのことはこちらもお詫びします。
もちろん、おそらく愚樵さんが思ってくれているように、僕も「愚樵さんだからいいだろう」と思ったからこそのおせっかいでした。(^^;)

僕の側からだけ言えば、これは『興味を惹かれない事柄について 「理解できるものだから」といって、なぜに知的な理解を強要されなければならないのか』問題なんです。(^^;)

ですので、気にしているのはただ一つ、自分が理解できるかどうかとか、愚樵さんの説明が分かりやすいかどうかではなく、僕が経済という事柄を面白く思えるかどうかの「術」の問題なんですね。

僕は、この「手法(術)」の先に「理解出来ないもの」があれば「宗教」だと思いますし、
この「手法(術)」の先に「理解出来るもの」があれば「イズム」「イデオロギー」だと思います。

ですから、僕の側では単純に、「理解出来るもの」であろうと「理解出来ないもの」であろうと、「手法(術)」としてはおんなじだということを気にしているわけです。

僕は「経済」に関して、多分 体感的な興味とか好奇心はあるんだと思います。
ですが、知的好奇心とか知的興味は(まだ)ない。

ですから、愚樵さんの仰ることを知的に理解できたからといって(多分理解できてると思ってるんですが)「だから何?」と思ってしまうんです。(^^;)
それで「いける」とは思えない。

知的に理解できても、原理的に実現可能であっても、僕にとってはあまり意味がないんですよね。
そこが愚樵さんとは決定的に違うんだろうと思います。

ですから、こういう僕のような場合には、『理解へと至る過程でコントロールがあったとしても、理解へ至れば自ずから解放される』ことはないんです。
「理解」のしかたが違うから。

だから「術」を模索する僕としては、どうしても元々持っている「色」である体癖的な感受性みたいなものを考慮せざるを得なくなるわけです。
・・・が、それはこちらの興味であるので、「おせっかい」だったんです。
どうもすみませんでした。

「面白い」と「負い目」の断絶

・アキラさん、おはようございます。

なかなか対話を止められないですね。嬉しいです。(^o^)v

僕が経済という事柄を面白く思えるかどうかの「術」の問題なんです

仰りたいことは、よくわかります。そのあたりがアキラさんの関心事であるということも。
ただ。面白くすることが可能かどうかは、ちょっと疑問。だから「負い目」ということをいう。

「負い目」を負うことが面白いかどうか? 私の場合で言うと、経済に関心を持つようになったのは、「負い目」を軽くすることが目的だったんですね。なぜ、木を伐り捨てて捨ててしまわなければならないのか? なぜそのような行為が合理的なことになってしまうのか? 最初は誰もが違和感を抱くんですけれど、すぐに慣れて、「そういうもんだ」と思い込んでしまう。なぜなのか。

私が格闘したいと人間だというのはその通りですけど、この問題はスルーしてよい問題だとは、どうしても私には思えない。ここをスルーするのは自己欺瞞。「正常という病」です。

そういう「負い目」が身体化しているので、面白いかどうかという視点は(アキラさんに言われて面白いと思いましたけど(^_^;))、ちょっと思い浮かばないんですよね。私は自分が楽になるためにやっているというのが正直なところだから。

(ん? もしかしたら、こういう語り方の方が面白い?)

そうやって経済を追求していくと、林業をやっている者だけではない。みなが同じ構造の中で、自分自身を商品化して生きていることに気が付く。自分が気が付くと、なぜ、他の者は気がつかないのだろうと疑問になる。

いえ。自分自身を商品化しているということの理解は、資本主義を批判的に見ている者は、知識としては知っていることです。それを理由に資本主義はダメなんだと、批判の根拠に用いる。ですが、それを自分自身の「負い目」だとは捉えない。資本主義がダメだから、自分は犠牲者だ――という「構え」なんです。この「構え」が私は欺瞞に見えている。

反原発に対しても、そうのような「構え」の人は多いですよね。自分たちは最初から最後まで被害者なんだという「構え」。だから原発推進者を告発する権利を有するのだと、放射能を1ベクレルたりとも浴びない権利を有するのだと、何の疑いもなく考えている人たち。そうした人は小出裕章さんですら、批判してしまう。

そういう「構え」をアキラさんも批判していたと私は記憶しています。

そのような人たちに、どうすれば、「負い目」を面白く説くことが出来るのか? 当事者でなければ、すなわち、原発がこの世に存在しなくて、原発事故がSFであるならば、面白くすることはできるでしょう。けれど、当事者に――すでに日本国民は誰もが当事者です――に、“面白く”説くことはまず不可能だと思う。

この点に関しては、私は他力本願です。そういう機縁がある者にしか伝わらないと思っている。論理的に「あなただって加害者の一人だ」と説くことは簡単です。ですが、情理を尽くして説明したところで、伝わらない人には伝わらない。特にネットのような空間では。

で、今回。私はその不可能性を承知で、敢えて踏み込んでいる。そのことは、アキラさんも初めから十分承知のはず。承知の上で、私からのハラスメントを受けている。不可能な線を乗り越えようとするのは、ハラスメントですからね。

ハラスメントがハラスメントして作用するのは、逃げられないからです。親子関係が典型的ですが、逃げられないから、乗り越えることが不可能なはずの線が突破されてしまう。逃げることができるのであれば、不可能は不可能なんです。で、私とアキラさんとの関係は、逃げようと思えば逃げ出せる関係です。

なのに、アキラさんは、敢えて私のハラスメント攻撃を受けていた。それだからこそ「真剣勝負」ということなんですが、それでもなお、「内面化された貨幣=正常化」というラインは突破できない。不可能性が際立った。そこが私には興味深い。

もっとも。私も最初からこれほど深く踏み込むつもりはなかったんです。機縁のタネを蒔くくらいのつもりだった。ところがアキラさんの「受け」があまりに見事なので、つまり「面白い」ので、ついつい踏み込んで行ってしまった。アキラさんは私からのコントロールが云々と仰いましたが、私の方も、コントロールされていたのだと言えなくもない。

くり返しますが、コントロールを受けるほど「面白い」ものであっても、「負い目」というところにはなかなか届かない。「負い目」は、肌で感じる以外仕方がないものということなのでしょう。で、なぜアキラさんが「負い目」を感じないでいられるのかというと、アキラさんにその能力がないというのではなくて、「貨幣と真面目に付き合わない」ことが上手く行っているから――というのが、私の見解です。

余談になりますが。

悲劇というもの誕生と貨幣の普及は、同期しているものなんだそうです。古代ギリシャで誕生した悲劇は、貨幣の普及と深く関わりがある。それ以前にも物語はあったけれども、悲劇はなかった。つまり、悲劇は起こらなかった、起こらなかったから物語に描かれることもなかった。

ここでいう悲劇とは、共同体(家族)が分裂してしまうことです。

その頃のギリシャ人は、悲劇の起源をしっかり認識していたと思います。悲劇誕生の場面を目撃しているのですから。が、現代人は、もはやその場面を目撃することは出来ません。赤ん坊から自意識をもった個人として社会にデビューする時点で、デフォルトなものとして刷り込まれてしまいます。なので、内面化の痕跡を追跡しようと思うと、自身の「負い目」を辿って行くほかない。

もし、その追跡を面白くすることができれば――。論理では無理でしょうね。物語でないと。ちなみに『魔法少女まどか☆マギカ』は、そのような物語ですよ。

追記。

『魔法少女まどか☆マギカ』は面白いと言いましたけど、それはあくまでSFであり、要するに「他人事」として引き受けることができるから。魂が「ソウルジェム」なんて形になって物質化することはあり得ないですから。

『まどか』を面白いと思い、その登場人物たちの思いを想像して、ともに苦悩することができるのは、SFだという線が乗り越えられない壁として立ちはだかっているから、安心して苦悩できるんです。まどかの「負い目」を引き受けることができる。あくまで架空の引き受けとして。面白く。

ところが。私はこれを貨幣の物語として読み替えましたけれど、この読み替えは、SFを現実へ引きつけるものなんですね。すると、あくまで架空の引き受けであった「負い目」を、現実のものとして捉えなければならなくなる。このとき、面白さは霧消する。予め現実の「負い目」を感じている者には「読み替え」は理解できるでしょう。けれど、それがない者には、おそらく理解不能です。「負い目」を負いたくないという心理が理解を阻む。

だとすると、結局、「面白い」と「負い目」の断絶は、他者からの誘導では不可能ということになる。そう結論づけていいかは、まだわかりませんが。

もうひとつ。

Twitterの方で、興味深い出来事が出現しています。

『佐藤秀峰氏、佐藤智美氏、安冨歩氏の対話まとめ』http://togetter.com/li/391180#c783335

佐藤秀峰、智美夫妻はともにマンガ家。そのおふたりに対して、安冨先生が「ハラスメント」をしたことから始まった騒動なんです。アキラさんと私の「真剣勝負」にちょっと似ている。

決定的に違うのは、佐藤夫妻が逃げてしまったこと。まあ、それが普通ですよね。そんでもって、その後に、コメント欄でこれまた騒動があった。面白いですよ。ちょっと覗いてみてください。

異次元人?

トゥギャッターのコメ欄、現時点まで読みました。
凄まじいですね。(^_^;)

でも、なんかスッキリしました。
思うに安冨さんは既に異次元の人なのでしょう。
このまま読むと大変失礼な言い方なのですが、私が言いたいのは、安冨さんには狂った世界がちゃんと狂って見えているのではないでしょうか。【正常】が狂って見えているのではないでしょうか。と言う事です。
だから、例えば極端な例ですが、安冨さんには、ライオンの檻の中を通過しようとしてると見える人に「危ないっ!」と怒鳴るのだけど、他の人は次元が違うからわからなくて、気付けなくて、いつもの事なのに何言ってんだとかになっちゃうんじゃないですかね。

蛇足ですが、愚樵さんが非常識だと断言した所は笑っちゃいました。

はい、「こういう語り方」の方が僕にとっては「面白い」ですし、分かりやすいです。(^o^)
今回のコメントで話されてることは、とてもよく分かりますし、とても共感を覚えます。
僕に「合ってる」んでしょうね。

僕が「面白いかどうか」と言ったのは、「僕にとって」面白いかどうか・・ということでしたので、愚樵さんの仰るように「万人に面白く」みたいな出し方は難しいし、多分ムリ・・ですよね。
ですから「他力本願」と仰る気持ちもよく分かります。
また、なるだけ万人に・・ということを考えれば、これまた仰るようにSFやファンタジーのような物語にするしかないような気もします。

>私の方も、コントロールされていたのだと言えなくもない
<
というのも、確かにそうも言えると思いました。(^^;)


「反原発」の「構え」との対比は、まさにその通りだと思います。

で、です。
ここから先を、多分二人で検討していかなければならないんだと思います。
それは少し寝かせて、おいおい改めてじっくり考えていきたく思っているのですが。

僕が今回 愚樵さんの「手法」に対して行っていた「操作」(しっかり受けてるんだけど強い影響を受けてない)と、僕が「貨幣経済」に対して行っている操作とは、おそらく同質のものか、あるいは同じものだと思うんですね。

つまり、僕の方から「自ら自覚的に切断してる」んです。
その上で切断の境界面はくっつけている・・とでも表現したらよいでしょうか。

ですからおそらく、
>それでもなお、「内面化された貨幣=正常化」というラインは 突破できない。不可能性が際立った。
<
ということになるんだろうと思います。
だから僕としては、「内面化されている」のかどうかが疑問なんです。

というのも、この「自ら自覚的に切断する」というところは、ツッコミどころだと思うんですよね。
無自覚な切断は"正常という「病」"でしょう?
「自ら自覚的に」のやつはどうなのか?
無自覚よりタチが悪いと言えば、タチが悪いですよね。

でも、今回の愚樵さんに対しても同じ感覚を使ってると思うんですよね。
だから「これはハラスメントだと思いますよ」と言いつつ、多分 影響を受けてない。

加えて、例えば自分の感受性は「置いといて」、自分とは相容れない感覚を持った相手の感受性や興味に合わせられてるときにも、おそらく同じ感覚をうまく使えているときです。

僕自身の疑問としては、さて この「自ら自覚的に切断する」という「手法(術)」は、どうなのか? ということなんです。

これは欺瞞か、病か。
欺瞞と言えば欺瞞だろうし、病と言えば病だと思えるんです、自分自身としては。
また「この身を守る術(すべ)」だとも言える。
切断しながらくっつけているんですから。

・・というあたりのところを、おいおい考えていけたらな・・と思っています。(^o^)

紹介していただいた記事は覗いてみてみますねー。(^^)/

Re:異次元人?

・すぺーすのいどさん

安冨さんには狂った世界がちゃんと狂って見えているのではないでしょうか。

そうだと思います。生きているのが苦しい→自分自身が狂っている→それは家庭や社会からハラスメントを受けた所為だ、いうふうに思考を進めていったのでしょう。

が、それはそれとして、コミュニケーションのやり方はめちゃくちゃです。 あれでは、タガメ女にやられるのも無理はない。(^_^;)

安冨先生のコミュニケーションには、遊びがないんです、おそらく。いきなり真剣で斬りかかる。なので「私の本を読め」というのは、まだ優しいコミュニケーションなんでしょう。ふつうの人は失礼と感じますけど。

ツイートもしましたが、アキラさんのところでよく話が出る、とある登山家の話。いきなり100%の力を出せてしまうという人。「脳力」に関して、それと同じ。いや、ほとんど常に100%なんです。制御が効かない。非常識どころか、危険人物です。

が、だからこそ、社会の歪みを鋭く抉ることができる。理論という形で。

野望

・アキラさん、おはようございます。

私の野望は、パラダイム・チェンジ、レジーム・チェンジなんですよ。

万人に面白く理解させるのは、たぶん無理。けれど、人間は適応する生き物ですから。現在は貨幣経済というレジームの上に人々は生活していて、それに適応しているんですね。この適応こそが「正常という病」の源。過適応してしまうんですね。

で、貨幣にはもともと過適応しやすい傾向がある。近代金融システムはさらに拍車がかかっていて、過適応でなければ適応できない。競争して勝ち残らなければ生き残れない。みんな必死に過適応しようとしてがんばっている。

そういう光景は、適応の範囲に留まることが出来ている人からすれば、馬鹿みたいですよね。でも、「あんたらバカでしょ」と指摘すると、指摘された者は怒り出す。一生懸命やっていることをバカにされたら、怒り出すのは当たり前。

(安冨先生は、すぐにこれをやる (^_^;) )


アキラさんが「自ら自覚的に切断する」という手法を用いて為そうと考えておられること。それは、そんな拙いやり方ではなくて、上手く相手を誘導する方法なんだと思うんです。それには、「ピッタリ」ということが必要になってくる。体癖論などを参考にすると、さらに効果は上がるでしょう。

・・というあたりのところを、おいおい考えていけたらな・・

というのは、そういうことなんだと思うんですよ。そして、そういう方法が上手くいけば、現在の貨幣レジームでも、過適応を強いられるシステムから自分の身を守るために自覚的に切断しつつ、くっつけて、過適応にならずに適応することができる。

仏教で言えば、上座部的な行き方でしょう。それに対して、私が考えているのは、大乗的なんです。

レジームが変わってしまえば、人間はそれはそれで適応していく。私が思い描いているのは、過適応への傾きがキャンセルされた仕組みなんです。

適応にせよ、過適応にせよ、アタマで理解する必要は全然ないんですね。むしろアタマで理解していてダメだと思っていても、カラダがついて行ってしまうというのが適応です。過適応は、それをさらにアタマが応援することで起こる。貨幣は、極めて論理的なものですから、過適応が起こりやすい。

で。そのキャンセルの仕組みを思い描くには、切断された部分をもう一度同期させる必要がある、せっかく保っている切断面を放棄する必要がある、主張しているんですね。

これは欺瞞か、病か。
欺瞞と言えば欺瞞だろうし、病と言えば病だと思えるんです、自分自身としては。

そうなんです。そこを診断基準を引き上げて、私はアキラさんに向かって「正常という病」だと言ったんです。

でも、だからといって、切断面をくっつけて、再び自分が「正常という病」に罹患してしまっては元も子もない。どこかに切断面は要る。切断可能なところがあると私は感じているんです。

「負い目」というのは、その切断可能な部分かもしれません。「負い目」もまた断絶ですから。

私としては、そういうところも考えていきたいと思っているんです。

お礼

アキラさんとの対話「読んでました」というコメントです。
アキラさんは「まどマギ」を観たのでしょうか?
ワタシにはアキラさんが観ているようには思えない。で、コメント中、突然出てくる「まどマギ」は愚樵さんが「毒多、おまえちゃんと、これ読んでいるんだろうな」と問いかけているようで、、、笑
と、勝手に解釈して「読みました」という報告です。自意識過剰かもしれませんが。ありがとうございました。

「読みました」どころか何度も「読み直しながら」読んでました。「面白かった」とコメントしようとも思いましたが、「面白さ」にまで言及されちまって・・・(笑)
読みながら新たな疑問というか「もやもや」に襲われ気が散り、また読みなおすという繰り返しでした。

で、おまえの意見はどうなんだ、、と、自問してみますが、論理とか言葉にはずいぶん置いていかれていますが、感覚として、運動時代は愚樵さんの感覚にちかく、今はアキラさんのいうことのほうがしっくりくる、という感じです。
全ての個々が健常になれば社会も健常になるだろう、のほうに傾いている自分がいるなぁ、と思いながら読んでました。以前、アキラさんには「運動家的人間の言うことは、自分にない部分だから面白い」といわれたことがあることも思い出し、どう違うのだろうと思いながら。
アキラさんは「整体」を通じて「健常(かなにか)」を広げようとしていますよね。その「広げよう」とはなんだ、と思うんですね。それは運動ではないのか? では啓蒙、、まさか宗教?、、、で広げて何がしたい?
 と、同様に、いったい愚樵さんは(togetherのほうでいえば安冨氏)何がしたいのか? と思いながら読んでいました。運動じゃないのか? 啓蒙? それとも宗教?
 最後のコメントにでてましたね「野望」だったんですね。
 なぜそんな野望をもつの?自分のため? 社会のため? 未来のため? と問いたくなりますが、「まどか」になぜそんな希望をもつの?と同じく、その問いそのものが「正常な病」なのでしょうね。

 togetherも読んできましたよ。それにしても安富さんってのは、「子ども」みたいだなぁ、、、ってのは褒め言葉ですよね。というか、「イエス・キリスト」(キリスト教じゃないですよ)を想像させました。とつぜん「普通」「正常」に凸して「普通」「正常」からみるとワケワカメな突拍子もない事をいって、驚かせる。周囲の反応は驚くか怒るか、、、あまり知らないのですが、聖書のなかの情景を想像しています。現代という環境ではイエスのように「奇跡」をおこしてみせても、余計に悪い反応しか得られないかもしれないな、とか。システムを壊すところまで影響力をもてるようになると「健常」の面をかぶった正常人間にもうらぎられ「十字架」・・・
 愚樵さんをイエスの弟子とはおもってませんが、愚樵さんのフォローは必要かも、笑

確信犯かも(^_^;)

そういえばエリスの創刊号の安冨さんの文章よみました。
それで、安冨さん、確信犯じゃないかな?と思いましたよ。
最後の「実験終了」というコメントも含めて。

こうゆう、最初にドカン!とやる、やり方に拘ってるんじゃないのかな?



> 愚樵さん

ご紹介いただいた「まとめ」、読んできました。
僕の感想は「あかん・・・」です。
「脳力」に関してマサさんと似たような人・・という説明が、なるほど♪と理解できました。
僕は近寄りたくない人種です。 (^_^;)


> 毒多さん

お久しぶりです♪
僕は仰るとおり「まどマギ」観てませーん。

それから、
>アキラさんは「整体」を通じて「健常(かなにか)」を広げようとしていますよね。
 その「広げよう」とはなんだ、と思うんですね。それは運動ではないのか? では啓蒙、、まさか宗教?、、、で広げて何がしたい?
<
僕は何かを広げようとは思ってないし、広げたいとも思ってません。
野口整体ですら・・です。
好きな人が、面白いと思った人がやればいい・・と、そう思ってます。
それ以上でもそれ以下でもありません。 (^o^)

アキラさん

僕は近寄りたくない人種です。 (^_^;)

でしょうね。わかります。

が、身体を診てみたいとは思いません? どれだけバラバラな身体をしているのか、に私は興味があるんですが、それを私は診ることはできないので。残念ながら。

で。安冨先生自身も、自分の身体のバラバラさを感知しているんです。「馬といるときだけ、人間でいられる」なんて言うんです。(^_^;) バラバラの身体では馬には乗れない。馬に乗ると強制的に、ちゃんと繋がった人間の身体にしてくれるんです。

といっても、安冨先生の乗馬姿は、素人の私から見てもバラバラ。様になっていない。経験はかなり踏んでいるはずなんですがねぇ。

野口整体ですら・・です。

でしょうとも。だからこそ、私は〈連携〉できると思っている。

あくまで私の中の位置づけですが、アキラさんは修行者なんです。自分自身が至るべき所に至るか否かが主たる関心事。極端に言えば、他人との交わりも、自身の修行のため。「そういう人」だと思っています。

だからね。馬がハイウェイだからといって、それに乗る気はないと思う。ハイウェイだったとしたら、それはズルだろう、くらいに思うと思うんです(^_^;) 他人が乗るのはもちろんOKでしょう。けど、自分は乗らない。そんなズルをしたら、修行にならないじゃないか、と。

私は、そういう人が要ると思っている。

将棋の羽生名人が「WEBはハイウェイ」だと言っています。このブログを書くときに、それが私の頭にあった。昔は将棋をある程度のレベルに上がるのにも道場が必要だったが、今はいらない。将棋をやりたい人はWEB上で修行ができて、ある程度まではレベルを上げられる。が、それ以上は、やっぱりちゃんと道場へ入門する必要がある。そうでないと、プロのレベルの棋士にはなれないんだ、と。

社会に将棋は必要で、必要だとすればプロ棋士も必要。そのようなレベルの者がいなければ、社会が必要とする「将棋」を維持できないんですね。将棋が社会に何らかの効用をもたらすには、そうしたレベルがないとダメ。そうでないと、単なる遊戯になってしまう。

野口整体も、当然、同様のことが言える。

「修行する」というのは、「生きている」ということとほぼ同義だと考えているんですね。で、馬は、いうなれば修行のWEBなんです。そこから先は、「道場」が要る。野口整体はその「道場」だというのが、私の位置づけ。「道場」には、師範が居なきゃダメでしょう。

もちろん「道場」は野口整体だけではない。他にもいろいろあると思います。

で。話をもっと広げますと。ここでアキラさんとやり取りした貨幣論なんですけど、私が想像しているのは、ハイウェイに相当する貨幣システムなんです。そこに適応してしまえば、強制的に修行になるような。

毒多さん

『まどか』の話にいきなり振ったのは、毒多さんを意識してのことです。他意識過剰? でも、これは毒多さんに見られているという自意識から来てますから、やっぱり自意識過剰ですね。(^o^)

で。私はいったい、何をしたいのか? 啓蒙か? 宗教か? カテゴライズするならば、宗教でしょう。

啓蒙というのは、アタマを教育すること。宗教というのは、カラダを教育すること。
その意味で言えば、野口整体も宗教です。

なぜそんな野望をもつの?自分のため? 社会のため? 未来のため? と問いたくなります

野望というのが、そもそも誤解を招くんですが、なかなか適切な言葉ないんです。昨日、ツイッターで、

「『ブラックジャックによろしく』はすっとばして、『新~』の方を読んでみた。とりあえず五巻まで。印象に残ったのは、「善意は欲」。名言だと思う。自分を嫌いな人が、一生懸命探して見つけ出した言葉だ。」

という囀りをアップしました。『ブラよろ』の作者は、ここでも話題に上っている佐藤秀峰氏。「野望」とか「善意」とかは、「自分を嫌いな人」が持つものなんですね。「自分が好きな人」にとっては、「野望」とか「善意」とかは、「自分が生きていること」であって、ことさら「野望」とか「善意」というような言葉にする必要がないことなんです。

私は「生きたい」と思っているだけ。でも、「生きたい」だけでは伝わらないとおもっているから、わざわざ「野望」とかいう言葉にする。

言葉というのは、「自分を嫌いなこと」がデフォルトになっているのかもしれませんね。

「生きること」=「修行」だとすると、安冨先生は、修行者としては、子ども。初心者。けど、自身でその自覚がある。「脳力」でその自覚に辿り着いた人。「脳力」で辿り着いたということに、そもそも「ネジレ」があるんですけどね。

その点は宮台さんとよく似ているんです。でも、宮台さんは自身を初心者だと思っていないでしょう。むしろ上級者だと思っている。

(そういえば、アキラさん。宮台さんには近づいてみたいと思います? 私は思わないけど。)

でも、それは思い込みに過ぎないと思う。ちらっと聞いた話ですが、内田樹さんもそのように感じておられる、とのこと(私の誤解かもしれませんが)。

「イエス・キリスト」(キリスト教じゃないですよ)を想像

「東大」という世界で、そうなる可能性が高いことは、当人も察知されていると思います。いずれ「クビ」という形で処刑されるかもしれない。

すぺーすのいどさん

それで、安冨さん、確信犯じゃないかな?と思いましたよ。

確信犯ということは、自分が手にしているのは「真剣」だという自覚があるいうことでしょう? でも、それはないと思う。ないから、非常識で危険人物なんです。

論文や著作を書いたりするのは、いうならば「演舞」なんです。相手がいない。演舞は真剣を持って真剣にやった方が迫力がある。

が、対話というのは、相手がいるんですよ。竹刀しか持っていない相手に、いきなり真剣で斬りかかってはダメでしょう。(^_^;) 

togetterの方に新たにコメントを入れておきましたが、安冨先生を攻撃する者は、竹刀しかもっていない、真剣を持った相手には適わないということを知っているんです。だから、だれもまともに打ち合おうとしない。当然ですよね。で、アイツは真剣だ! と非難している。

これまた当然の批判のようですが、ここにズレがある。竹刀を持っている連中が批判しているのは、竹刀で打ち合うべき所に真剣を持ってきたことではなくて、真剣自体を批判している。だから、真剣勝負も御法度なんです。真剣勝負御法度というのが、「役システム」なんです。

江戸時代の武士が「役」に嵌まることで、真剣勝負をしなくなったというのと、同じようなものでしょう。

そうですか

リアルな安冨さんをご存知な愚樵さんなので、意義を唱える根拠は私にはまったく無いのですが、安冨さんはエリスの投稿でMJにハマるきっかけで、派手な衣装やポーズと歌の内容のギャップなどのショック療法的な方法で、相手の心に入り込むといった内容もあったと思うのですが、そこらへんとの関係はどの様に考えていますか?
携帯入力でわかりにくい文章ですいません。(^_^;)

派手な衣装やポーズと歌の内容のギャップなどのショック療法的な方法で、相手の心に入り込む

それも「演舞」、パフォーマンスだからできることでしょう。

マイケルのパフォーマンスは、一見すると、ふざけていますよね。私はずっとふざけていると思っていました。けれど、このおふざけが真剣なんだとわかれば、そのギャップがかえって心の中に入っていく。真剣なおふざけのギャップを解析していくのが、『マイケル・ジャクソンの思想』でしょう。

いずれのせよ、鍵は「真剣」なんです。

演舞やパフォーマンスなら、いくら真剣でも、その刃が自分に届くことはないんです。自分から入り込んでいかない限りは。

そのあたりのことは、このコメントで、アキラさんと私の「真剣勝負」にも見られたことだと思います。「真剣」はハラスメントをどうしても内包するんです。けれど、自分から入り込んでいる限りは、ハラスメントはハラスメントではないんですね。

(このハラスメントの定義は、誤っています。ハラスメントは欺瞞行為ですから、「真剣」がハラスメントを内包することは論理的にあり得ない。が、気分的にはハラスメントと言いたいのは確か。このあたり、整理する必要がありますが、とりあえず「気分的ハラスメント」をハラスメントということで。)

演舞やパフォーマンスは、相手から入り込んでくることはないんです。こちらから入り込むしかない。そういう性質のもの。ブログも、本文は「演舞」です。けれど、コメントになると、斬り込み合いになる。

あたりまえの話ですけど、人間は「真剣」が怖いんです。その恐怖から逃げだそうと徒党を組む。それが「同」です。なので、いきなり「真剣」を突きつけられたら、逃げ出すに決まっています。

でも、「真剣」にならなければ生きていけない。仲間同士で真剣にやりましょう。これが「乱」であり、その結果生まれる真剣な関係が「和」なんですね。が、まず仲間でなければダメなんです。ここが安冨先生はわかっていない。

というのも、安冨先生には、「真剣」が怖いという感覚がない。あまりにも真剣だから。真剣であることを強いられきて、それに過適応した人。可哀相な人ですよ。

>アキラさん

お久しぶりです。
えーと、ワタシが、アキラさんが「なにか」を広げたいのとちゃうか?、と思ったのは、光るナスのほうに勉強会の予告をしたり、ブログで整体や派生すらあれこれを説明・解説してくれるでしょ、だから「広げたい」「伝えたい」んだろうなぁ、と思った、と思います。
積極的に「広げたい」というのがなくても、「広がる」と嬉しい、ぐらいの気持ちはあるのではないか?それも、広げたいの内に入るんじゃないの? ってのも思いました

そうでないというのは、愚樵さんが、アキラさんを「修行者」と表現したことで、ああ、そうなんだ、とちょっとわかった気もします。
ワタシなんかだと、ブログを書くにしてもどこかに「広がったら」いいのに、広がると嬉しい、という気持ちがありそうな気がしますが(きっと公開するというのはそういうことで)、広げたい(繋がりたい)というのは人間の本性かな、とも思うのですが、「修行者」となるとまた違うのかもしれないな。
あ!!!!、ということは

>個々が健常になれば社会も健常になるだろう

ってのも、流れでそういってはみたものの、実はたいしてそう思ってない、のかもしれないのでは? とすると、ワタシは今はアキラさんに近いってのも間違いかもしれない(笑)

アキラさんにしたら「まどマギ」も大して面白くないかもしれないなぁ。なんとなく解っていたから、「観てないだろうなぁ」と判断したのかもしれない。
うん、「まどマギ」をアキラさんに推薦するのはやめよう。絶対みないほうがいいよ。まちがいなく観ない方がいい。ほんと観ないほうがいい、、、(とこれくらい言えば、少しはみたくなr、、、以下略、笑)

>愚樵さん

なになにのため、、、でなく

>「生きること」

これいいや、単純明快!! したいからする、せずにはいられない、魂の動くままに、おお、魂の動くままにしたいことをする=生きること、か!?
とすると、修行ってのは、、、何かに達するための修行ではなく、生きることそのもの? 絶対辿り着けないとわかっててする修行は、プロセスにはなりえない、ですか?

あれ? あれあれ、「なになにのため」ってのは、縛り・蓋なのだろうか?
とさえ思えてきますね。

安冨氏のこと
ワタシはあのtogetherをみていて、安冨さんがそれほどコミュニケーション能力が低いとは思えなかった。最初の「私の本を読め」は笑えましたが、それも謝っているし、佐藤夫人との会話は面白かった。「奥さんが裏で怒っている」と書き込んだ佐藤氏のほうがイタイでしょ、ちゅうか卑怯、、いや、甘えかな? 普通はその「卑怯」「甘え」を指摘しないんでしょうが、安冨氏は言ってしまう、、、面白い人です。
まあ、「実験」とか「サンプル」という言葉はムカっときますが・・・

ところで馘首になるといえば、安冨氏は、東大話法の温床であるだろう東大にいることをどう考えているのでしょう? 

単純明快に「生きること」は難しいし、事実上、不可能でしょう。だからこそ、死ぬまで修行――ということなんでしょうね。

自分のしたいことを為すことが「生きること」で、それがなかなか難しいことであるならば、「生きること」が出来ている時点で、実はもう、報酬はもらっているんです。報酬はすでにもらっているから、「生きること=自分のしたいこと」を為して得た成果は、贈与になるのが当たり前。

「生きること」に報酬をもらって、その成果にさらに報酬を欲すれば、それは【強欲】ですよね。今の世の中は、【強欲】がデフォルトになっている。

いや。違うな。「生きること」への報酬が「蓋」をされてしまって受け取れなくなったから、【強欲】であるしかない。そんな社会が上手く回るはずあるわけないのは、理屈を捏ねなくても直感でわかるはずなんですけどね。その直感に「蓋」をされてしまう。教育を受けると。

安冨さんがそれほどコミュニケーション能力が低いとは思えなかった

そのあたりは、昨日togetterにコメントを入れたとおり、安冨先生のコミュニケーション能力の低い部分を「土俵」と設定して、そこを集中攻撃しているだけのこと。確かに「共感を得る」という観点測ると、得点は低い。けど、ディベートをやったら叶わない。ディベート力だって、コミュニケーション能力です。

安冨氏は言ってしまう、、、面白い人です

共感を得たいのなら、言いませんよね。ふつう。(^_^;) 

欲しいのは共感ではない。あくまで対話。でも、共感がなければ対話はなかなか噛み合っていかない。共感というのは、互いの信頼の基礎ですから。その基礎があって、理論の理解も進むというのが一般的な人間ですが、そのあたりは違っていますねぇ。

安冨氏は、東大話法の温床であるだろう東大にいることをどう考えているのでしょう? 

今度、尋ねておきます。来月早々、会うことになっていますし。

さて。これからアキラさんのところへ稽古に出かけます。

ありがとうございました。

愚樵さん、理解しました。
アキラさんとの真剣勝負をせっかく拝見させてもらったのに、私は迫力と概要くらいしか理解できていませんでした。今でも全部は解りません。
なので愚樵さんには今後もおそらく何度もおなじ事を聞く事になるでしょう。
ご迷惑とはおもいますが何卒よろしくお願いします。

・毒多さん

>毒多さん

あぁ、「広がっていったらいいなぁ」とは思ってます。 (^o^)
でも、それ以上 積極的ではない・・って感じでしょうかね。

僕自身は、野口整体がめっちゃ面白いんです。
こんな面白いことはないと思うくらい、面白い。
でも、それをほかの人が同じように「面白い!」と思うかどうかは話が別ですよね。
ですから僕は、「これ面白くね?」というように見せることはします。
だって面白いんだもの。
でもそれ以上は押しつけない・・というような感じです。
受動的な働きかけ・・・なのかなぁ。

それで興味を持ってもらったり、一緒に面白がってくれたりしたら、とても幸せです。
だから愚樵さんとそんなこんなでご縁があって、一緒に整体の稽古ができるのは、僕にとってはとても幸せなことなんです。 (^o^)
今日もすごい面白かったです♪


>広げたい(繋がりたい)というのは人間の本性かな、とも思うのですが、
<
僕もそう思いますよ。

で、
> >個々が健常になれば社会も健常になるだろう
ってのも、流れでそういってはみたものの、実はたいしてそう思ってない、のかもしれないのでは?
<
については、多少はそう思ってるし、そう願ってもいますが、それほど強くは思ってません。 (^_^;)

・愚樵さん、皆さん

>愚樵さん、皆さん

「演舞やパフォーマンスなら、いくら真剣でも、その刃が自分に届くことはないんです。」

なるほどな♪と思いました。
やっぱりさすがは愚樵さんだな。
確かに「演舞」に「つながる」ときには、受け手の方が自ら入り込んでいくことで「つながり」が成り立ちますよね。
つまり、受け手の自発性がまずありき、ということでしょう。
だから、入り込んでいって刃に傷つくことがあっても、そのこと自体がそのまま「学び」になりますね。

僕が、
《これは『興味を惹かれない事柄について 「理解できるものだから」といって、なぜに知的な理解を強要されなければならないのか』問題なんです》
と言ったことも、まさにそれと同じ話として考えられますよね。
双方向のコミュニケーションの場合は、斬り掛かった者、そしてそのトピックに対して、受け手が「自発的に向き合う」ことが出来れば、それが「真剣勝負」となります。
この「自発的に向き合う」というところを、僕は「興味を惹かれる」というふうに感じているんだと思いました。
興味を惹かれれば、自発的に向き合い始めますよね。

今回の愚樵さんとの「真剣勝負」は、愚樵さんの出したトピックについては僕は自発的に向き合おうという気になりませんでしたが、斬り掛かった者(愚樵さん)について自発的に向き合ったので、「真剣勝負」に成り得たんだろうと思ったりしています。
「乱」の方ですよね。 (^o^)


そうそう、それから宮台氏のこと。
僕は何度かお会いしてるのですが、けっこう親和性があります。
やっぱりタイプの違いかもしれません。
もうずいぶん昔に2度ほど整体指導もさせてもらったこともあります。
でも当時はこちらも今以上に道半ばでしたから、今から考えると恥ずかしい限りです。
そのときの背骨の印象だけ言えば、「この腰椎三番がキチッとしたら、ホントに革命起こっちゃうかもな」でした。 (^o^)

アキラさん、おはようございます。

昨日はありがとうございました。また、富士吉田で「愉氣の会」を開くことが出来そうな運びになって、とても喜んでおります。

斬り掛かった者(愚樵さん)について自発的に向き合ったので、
「乱」の方ですよね。

まさに。(^o^)

「この腰椎三番がキチッとしたら、ホントに革命起こっちゃうかもな」

ほう。面白い。

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