愚慫空論

愉氣な経済

昨日。アキラさんのところの「愉氣の会」の稽古の最中に、頭に思い浮かんだ本。

せいめいのはなし

ことに、内田樹さんの動的平衡と経済の類似性の話。

どうして、最近経済がダメなのか、その理由を考えていて、もしかするとそれって、「経済とは何か」という本質的な問いを間違えているからじゃないかな、と思ったんです。経済って、本質的に動的平衡じゃないかな。モデル的にずいぶんと近いような気がするんです。だって、経済活動の本質って、一言で言えば、ものがグルグル回っていくということでしょ。


ものをグルグル回すためには、ものがグルグル回るシステムが必要なわけです。手渡す人がいて、受け取る人がいて、パスが繋がることが必要なわけですよ。みんながグルグル回っている「もの」ばかりに目を奪われていて、どういうふうに回しているのか、どういう工夫を凝らして継続的なパスの連携を確保しているのか、そういうことはあまり顧みていないような気がする。商品や貨幣が回っているのを見て、商品や貨幣それ自体のうちに運動力が内在していて、自力で回転しているだと思っている。でも、ぼくは違うと思う。


だから、「価値のあるもの」をやりとりするために人間たちは経済活動を始めたわけじゃないとぼくは思うんです。・・・「交換する主体」となりうるために無数の人間的条件がクリアーされなければならない。だからこそ交換が始まった。つまり、経済活動というのは人間を成熟させるための装置だったというのが僕の理解なんです。


*****

昨日は、縁が繋がって、富士吉田から2名、新たな参加者を連れて行くことが出来た(「愉氣の会」は、静岡県・富士市)。初めての人が来たということで、稽古の前に少し、野口整体とはなんぞや、という講義があって、活元運動(自働運動)、行氣、愉氣、型、といった説明。ことに、愉氣。愉氣とはなんぞや、どのようにどうしたら愉氣になるのか。実習を始める前の、イメージの喚起。どういう感覚を捉まえれば良いのか。

実際、愉氣というのは、言葉だけで説明するのはなかなか難しい。

 光るナス『愉氣(ゆき)のこと』

愉氣(ゆき)というのは、言ってみれば、まぁ「手当て」です。
お腹が痛いときには、思わずお腹に手をやりますよね?
歯が痛いときには、痛いところに手を当てるでしょ?
お腹が痛いときに、頭に手を当てる人はあんまりいませんよね。 (^_^;)

自分で思わずやっているそれとおんなじように、人のおかしなところに手を当てるわけです。
おかしなところに手を当てて、澄んだ気持ちでそこにこちらの注意を集注する。
な~んにも考えない。
ただ 感じる。
それが愉氣。


付け加えると、その「感じ」に、ピッタリ付いていく。「手当て」をすると、なぜか、相手の状態が変化するので、関係性が変化しないように、変化にピッタリくっついて行く。

アキラさんが仰っているのだけれど、最近、アキラさん自身に「進歩」があって、説明もそれに伴ったものになっている。(⇒「中心感覚」のこと

しかし、面白いというか、皮肉というか、愉氣は、その正体に近づけば近づくほど、言葉にすると矛盾してしまうようなところがある。これは愉氣に限らず、何かの「極意」といった類のものは、そうなんだろうけれど。昨日のアキラさんの言葉でもそうで、愉氣を“消極的な働きかけ”というふうに表現していた。その言葉が矛盾したものだという指摘も、自分自身でしながら。

そのようなアキラさんの言葉を改めて聞き、その言葉から受け取ったをイメージを体感すべく稽古をしながら、頭の中に浮かんでいたのが、前掲の『せいめいのはなし』の一部だったというわけだ。

******

野口整体は、その「整体」という言葉のイメージだけで想像をしてしまうと、その実態に触れたときには裏切られてしまうこのがある。「整体」からイメージされる、たとえばマッサージのような操作感が希薄だからだ。整体の指導を受けて――ここは必ず「指導」である。というのも、身体は自ずから整うものというが、野口整体の思想だから。術者がするのは、その手助け――、受けた者が、“よく効きました!”といったような感想を持ったとすると、それは術者(指導者)にとっては恥ずかしいことなのだという。忍者のように、術者の存在はなるべくない方がよいのだという。

(このあたりは、河合隼雄さんのカウンセリング論に似たようなところがある、と、昨日初めて参加した人のひとりが言っていた。)

内田樹さんは、前掲書のなかで、資本主義者たちの最大の誤謬は商品そのものに価値があるからだと思い込んでいることにあるとしている。商品の価値は、「グルグル回すためのシステム」の整備を促進するために、仮象しているだけのものに過ぎない。

商品価値という側面から整体を考えてみたとき。そうすると、整体はまず、「サービス」でなければならない。で、「サービス」の価値を高めようと思うのなら、存在感を際立たせるのが得策だということになる。が、野口整体の思想は、それとは逆向きのベクトルを持つ。その「サービス」が、なるべく際立たないことを良しとする、というのだから。

野口整体において、愉氣において、目指すところはあくまで「グルグル回す」こと。では、一体、何を回すのか? この答えも難しいが、答えるとするならば「氣」ということになるだろう。なるだろうが、この答えもまた仮象だと思っておいた方が適切だ。

*******
 
『せいめいのはなし』は、著者が福岡伸一さんであることから想像されるように、メインテーマは「動的平衡」。内田さんの話は、動的平衡→グルグル回す→経済という連想を、人類学的な知見に基づいて膨らませたものだと言える。私の連想は、グルグル回す→愉氣。そしてそこから、愉氣≒経済 と捉えた。だから、当文章のタイトルが出てきた。

そして、そのように捉えてみれば、共通点がいろいろと見えてくる。

たとえば。愉氣は人間を成熟させるためのものである、ということができること。「ピッタリ」を求め維持するためには、さまざまな人間的(身体的・精神的)条件をクリアーしなければならないということ。

たとえば。「グルグル回す」こと自体が、経済において、発展(多様性の展開)をもたらすのと同様に、愉氣においても、「グルグル回す」こと自体に、発展性が内在しているといえること。

たとえば。「グルグル回す」ことを促すために仮象された「価値」に囚われてしまうと、「グルグル回すこと」が阻害されてしまうこと。

********

愉氣の場合。「グルグル回す」ことを阻害する要因を廃し、「ピッタリ」を維持することができれば、それは自ずから「愉」になる。なぜそうなるのかを解明することは、まず不可能で、神秘とでも呼ぶしかないが、そうした「作動」は間違いなく存在する。

この「作動」の主体を「魂」と仮象してみれば、阻害する要因を廃することを「魂の脱植民地化」と呼んでみても、そう的外れではないだろう。

そして、そうした神秘的な「魂の作動」を前提とした視座(合理的な神秘主義)から、愉氣と経済との間に共通の構造を見出しうることが出来たなら。「愉」を伴う経済の可能性を見出すことも、出来るかもしれない。できたなら、それは、魂の経済学ということになるだろうか。

*********

「愉氣の会」からの帰りの車の中。初めてのおふたりは、しきりに、身体が温かいと言っておられた。愉氣の概念的なイメージを頭で捉えることはともかく、身体のほうは間違いなく、何かを実感したのだろう。


コメント

昨日はお疲れさまでした。

せっかくですから。
愉氣というのは「受動的な働きかけ」だと思ったんです。
技術(型)は「能動的な働きかけ」。
消極的な働きかけはあり得そうですが、「受動的な働きかけ」ってのはかなり語義矛盾ですよね。 (^_^;)


>愉氣においても、「グルグル回す」こと自体に、発展性が内在しているといえること。

 たとえば。「グルグル回す」ことを促すために仮象された「価値」に囚われてしまうと、「グルグル回すこと」が阻害されてしまうこと。
<
おぉー、なるほど、なるほど!
そうそう、そうなんですよね。

僕は「グルグル回す」ことを阻害する要因をよく「力み」と表現しますが、これは肉体的な力みも「力み」ですし、心理的な力みも「力み」です。
で、この「力み」、愚樵さんが以前仰っていた「蓋」と多分おんなじようなものなんだよなぁ・・と、僕の方は想っていたのでした。 (^o^)
よくも悪くも、今まで生きてきた中で身についてしまっている「蓋」。

確かにこれを外していきたいよね♪という話なので、「魂の脱植民地化」と言える気がします。

「受動的な働きかけ」

アキラさん。遅レスになってしまって、失礼しました。

愉氣というのは「受動的な働きかけ」だと思ったんです。

おお、そうでしたね。言葉の記憶が曖昧で、失礼しました。

で、この「力み」、愚樵さんが以前仰っていた「蓋」と多分おんなじようなものなんだよなぁ・・と

その「蓋」は、私の言葉ではなくて、借用したものです。先日、「蓋」の原典にあたる書籍が出版されましたので、もしよければご覧になってください。

深尾葉子著『魂の脱植民地化とは何か』 http://www.amazon.co.jp/%E9%AD%82%E3%81%AE%E8%84%B1%E6%A4%8D%E6%B0%91%E5%9C%B0%E5%8C%96%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B-%E5%8F%A2%E6%9B%B8-%E9%AD%82%E3%81%AE%E8%84%B1%E6%A4%8D%E6%B0%91%E5%9C%B0%E5%8C%96-1-%E6%B7%B1%E5%B0%BE%E8%91%89%E5%AD%90/dp/4862280609

この本も近いうちにブログに書いてみるつもりですが。特にオススメは、第5章の『ハウルの動く城』の解説。読むならまずここからがよいと思います。「蓋」とは何か、「魂の植民地化」とはどういうことを指しているのは、とてもよくイメージできます。

「蓋」の呪縛から解脱していく過程・方法論は、野口整体のそれとは異なるかもしれませんが、本質的なところは同じ。そういう感触をもっていただけると思います。

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