愚慫空論

魂の宣言文がふたつ

以下の2つ。文章の趣きはかなり異なるけれども、共通する「何か」があると、私には思える。

2012年9月17日に、「いのちの祭り2012」で発表された宣言。

◯前文:

いのちの夢見の種子が蒔かれ、
50億年というとほうもない歳月をかけて、
草や木や虫や魚たちの秘かな祈りによって育まれてきたいのちの星。
この奇跡の、いのちの星が今、危機に晒されています。

フクシマ原発事故、それは計らずも、文明の袋小路に陥って、
魂を奪い去られているわたしたち自身の姿をあらわにしてしまいました。
そして人とは、生きるとはどういうことかと激しく問いかけてきます。
もはやこの文明にわたしたちの未来を見ることはできようがありません。
それがフクシマからの教訓です。


◯いのちの宣言

自然によって育まれてきたわたしたち。
だがその自然を破壊することができたのは、自らを自然から切り離し、
自然を単なる物と見るようになってしまったからだ。
再び自然に還り、その魂に抱かれて、わたしたちのいのちの物語を歌おう。

助け合い、支えあっていきてきたわたしたち。
わかちあうことができなくなってきたのは、欲望とエゴによって分断され、
いのちがひとつながりであることを忘れてしまったからだ。
再び人としての道に還り、共に生きる知恵を育み、つながることの喜びを祝おう。

地球とダンスしながら、いのちの文明へと歩みを進める。
緑なす地球と共に、いのちの踊りを踊ろう。

いのちの深みに降りていく生き方。
大地とつながり美しさのなかに生きる暮らし方。
いのちの花を咲かせ、実を付け、
そのスピリットの夢の秘められた種子(たね)を未来へと受け渡してゆこう。

ここにいのちの宣言をする、
いのちの文明の、未来への種子を蒔くために。



もうひとつは、安冨先生のブログで発表されたもの。叢書・魂の脱植民地化。刊行のことば。

【刊行のことば: 安冨歩・深尾葉子】

何かを知りたいという、人間の本性の作動は、知ろうとする自分自身への問を必然的に含む。対象への真摯な探求を通じて、自らの真の姿が露呈し、それによって更なる探求が始まる。これが知ることの本質であり、これによって人は成長する。この身体によって実現される運動を我々は「魂」と呼ぶ。
 この作動の停止するとき、「知」は単なる情報の集積と抽出へと堕落する。記述された情報の明示的操作に、知識の客観性を求めようとする「客観主義」は、魂の弱さの表出に過ぎず、その惰弱が知を堕落させる。対象に関する情報のみを記述し、自らの存在を押し隠すことは、客観性を担保するものではなく、実のところ、自己を傍観者という安全地帯に置く卑怯に過ぎない。この堕落が「魂の植民地化」である。植民地化された魂は、自らであることに怯え、罪悪感にまみれて暴走する。
 「魂の脱植民地化」とは、この<知>の円環運動の回復にほかならない。それは、対象への問いを通じて自らを厳しく問う不断の過程であり、修養としての学問という、近代によって貶められた、人類社会の普遍的伝統の回復でもある。「魂の脱植民地化」研究は、この運動を通じて、魂の作動を阻害する暴力を解明し、その解除を実現する方途を明らかにしようとする学問である。
 そのために必要なことは、問う主体を含んで展開する、対象との応答全体の厳密な記述である。それこそが、読む者にとって有益な、真の意味での客観的記述ではあるまいか。
 『魂の脱植民地化叢書』はそのような客観的記述のために刊行される。



似通っているのは、「魂」という言葉が使われているから、というだけではない。「魂」は、どちらの文章においても、その必然性があって記されているものだ。

前者は、「サイケデリック」「ヒッピー」と称されたムーヴメントの流れを汲むもの。もともとサイケデリックという言葉が「魂の解放」を意味している。「いのちの宣言」は、その流れを汲んで、俗にいう“スピリッチュアル”な趣きある。

もっとも、“スピリッチュアル”からイメージされる、不健全さにはここにはない。LSDのような薬物を使用していたサイケの不健康な部分も、もう既に洗い流されている。そのことは、「いのちの宣言」を起草した、おおえまさのりさんの著作に、よく表れている。

未来への舟

(余談。、実は私、大江さんがこの宣言を推敲しておられてところに、偶然、立ち会う機会があった。そこで、“魂を奪い去られている”という表現を、“魂に蓋をされている”あるいは“魂を抑圧されている”にしてみては、と提案したが、それは容れられなかったようだ。魂はいつでも「ここに在る」ものなのだから、奪うことなどできようはずはない。もっとも、“魂を奪う”という表現は慣用句として成立しているから、不適切というわけではない。)

「いのちの宣言」を民草の決起ということができるなら、後者は学者の決意だろう。魂という神秘を前提として、その作動を阻害する「暴力」を排除するための学問。そこに向けての決意文だ。

これは、有名な「コギト・エルゴ・スム」に相当するものといえるかもしれない。「我思う、ゆえに我あり」というところに立ち至ったデカルトにも魂の遍歴があったはず。欧州で強固だったはずの、キリスト教を基盤とした思想が揺らぎ、その揺らぎをデカルト自身が引き受け、結実した「コギト」。近代の出発はこの「コギト」である。

その「近代」が、いまや、魂を抑圧・植民地化する【知】の集積へと堕落してしまっている。その【知】を我が身に引き受けた学者が、魂の遍歴を開始し、結実した。

魂の脱植民地化とは何か


現代日本は、抑圧の強い、生きていくことが難しい社会であり、時代である。その傾向は、これから加速度的に強くなっていくだろう。だが、それは同時に、新しい潮流が生まれてくる時代でもある。

生まれつつある新しい潮流に身を委ねることができれば、これほどわくわくする時代もない。おそらくは、命懸けのわくわくだが。

コメント

>生まれつつある新しい潮流に身を委ねることができれば、これほどわくわくする時代もない。おそらくは、命懸けのわくわくだが。

同感です。
残念ながら犠牲なしを期待するにはもう既に手遅れでしょうね。
できるだけ、少なくはしたいところですが…

不可能な目的。

「確かにある側面では社会はよくなったといえるでしょう。でもそうなると必ず、新しい影ができる。(中略)でも人間は、理想の世界を実現させるという不可能な目的に挑戦せざるを得ない、そういう宿命を背負っているのです」

今夏、森美術館での個展を観に行った、韓国人の美術家イ・ブルによる発言です。
引用元 http://ism.excite.co.jp/art/rid_E1330340022005/pid_1.html
愚樵さんから見たらあまりに月並み・拙劣な言葉だと感じられるかもしれませんが、私にはとても共感できる言葉でした。

現代人は、「ここではないどこかを求め、まだ見たことのない光景を求めて止まない生き物」に成った。
私には愚樵さんもまた、そういう人間のひとりに見えます。
愚樵さんの目指す先にどんな光が待ち、またどんな影が生まれるのかに興味があります。

種子となる覚悟

すぺーすのいどさん

「いのちの宣言」にも出てきます。種子(たね)という言葉。未来への種子を蒔こう、という宣言。

具体的に、未来への種子ってなんなのでしょう? ここで取り上げた宣言文もそうでしょうし、未来を担う子どもたちも、そう。種子を蒔こうとする私たち自身もそうでしょう。

残念ながら、すべての種子は発芽することはない。たとえ発芽しても、すべてが成長するわけではない。まして、種子を蒔こうとしているのは、近代文明によって収奪されて、干からびてしまった土壌です。

種子が大地に根を下ろして芽を出し、大きく育って豊かな森へと発展していく。想像すると、ワクワクします。種子に宿る生命力に信頼を寄せ、私たちは種を蒔く。

けれど、種子の全部が芽を出すわけではない。森の木へと成長できるわけではない。途中で脱落するのは、犠牲です。土壌が貧しければ、犠牲も多くなる。でも、蒔かないわけにはいかない。

犠牲を前提とした発展というと、何やら別の嫌なイメージも思い浮かんでしまいますが、でも、それは間違いなく生命の営みの欠かせない側面でもあります。

欠かせない犠牲をどう受けとめるかということと、種子となる覚悟。この二つは、深く結びつくものだと思います。

理想の社会と理想の世界

平行連晶さん

現代人は、「ここではないどこかを求め、まだ見たことのない光景を求めて止まない生き物」に成った。

その「光景」が社会なのか、世界なのか。イ・ブルさんの言では、世界≒社会のように聞えますが、そのあたりは、やはりイ・ブルさんが育った社会(の文化)が影響しているのでしょうか。

理想の社会を実現させるのことは、不可能です。理想の世界となると、話のベクトルは少し異なる。理想の世界は、ミクロな形で、目の前にある。理想の社会はいかに実現するか、ですが、理想の世界はいかに見出すか。

理想の世界を見出したのなら、後は「生き方」の問題です。世界をどう生きるか。そこで社会との関わりが問題になる。

イ・ブルさんは世界を不条理だと感じたがゆえに、アーティストとしての「生き方」を見出した。この世界と社会の関係性は、私のそれとは位相が異なるもののようです。

世界から社会へ

返信ありがとうございます。

巨視的にであれ微視的にであれ、世界には理想(の雛形)がある、という視点。

>理想の世界を見出したのなら、後は「生き方」の問題です。世界をどう生きるか。そこで社会との関わりが問題になる

となると世界を「如何に見るか」という話になります。
次エントリに「グルグル回す」ことについて書かれていらっしゃいますよね。
経済は「回る」ことにより成り立ち機能する。「移動」それ自体が価値を創出するのが経済ですよね(私は経済の素人なんで間違っていたらすみません)。物理でいう「仕事」みたいなもの。循環が価値を生む。

同じようにグルグル回るものが世界には存在する。例えば生物相における食物連鎖。
食物連鎖は循環そのものですが、食物連鎖という「系」そのものを取り出してその価値を問うことはできません。
人体における血流や代謝も循環していますが、これも同じように「系」のみを抽出して価値を問うことはできませんよね。
それらは価値を創出するために稼動しているわけではないから。そもそも価値や意味と無関係なものです。
しかし、人間はそこに価値を・あるいは意味を見出そうとする(食物連鎖を例に取ると、気象等の影響により特定の生物が大繁殖し食草が激減した時などに「バランスが崩れる」などと解釈する。「バランス」も「崩れる」も人間による価値観の反映に過ぎません)。

世界と対峙する時に、人間はどうしても対象に価値を見出し、価値を付与するという習性を持つ。

世界から理想の姿を感得する。
理想を世界の中に見る。

同じようだが、違います。
世界は「ただ、そのようにあるもの」でしかない(と私は感じます)。これは愚樵さんを否定しているのではないです。愚樵さんの視点・思索はたいがい核心を突いていて、そもそも知力が私を遥かに上回っているでしょう。
でも、愚樵さんはもともと自身の理想があり、その理想を裏付けるものを世界から見出そうとしているように見えるときがあるんです。
世界は世界、社会は社会。そう割り切っているわけでもないように見えます。

それが間違っていると思っているわけでは、ありません。むしろ肯定しています。私と違うなあと思っているだけで。
整理されていない文章ですみませんが、私の思っていることが伝わるといいなと思います。

それでもなお

>犠牲を前提とした発展というと、何やら別の嫌なイメージも思い浮かんでしまいますが、でも、それは間違いなく生命の営みの欠かせない側面でもあります。

わかっています。
わかっているのですが、それでもなお、犠牲を前提とはしたくない気持ちはあります。
犠牲を出来るだけ少なく、出来るだけ軽く済むように、精一杯の事をすることが、やむを得ず犠牲となる者が救われる、やむを得ず犠牲となってしまった者への感謝の気持ちを生むのではないでしょうか?

良い意味での「犠牲となった方々の命を無駄にしない」ということかと。

生きて在ることの負い目

・すぺーすのいどさん

その気持ちこそ、「生きて在ることの負い目」だと思います。

そこを忘れてしまったこと、いや、忘れようとしてシステマティックに隠蔽しようとしていること。そのことが人間性の抑圧に繋がっているのだと考えています。

・平行連晶さん

世界と対峙する時に、人間はどうしても対象に価値を見出し、価値を付与するという習性を持つ。

この習性によって人間が創造する「何か」を、私は「霊」と表現しているのだと思います。

世界は「ただ、そのようにあるもの」でしかない(と私は感じます)。

「そのようにある」は、言い換えれば「そのように感じられる」でしょう。ヒトとして持つ感覚装置の性能によって「世界」が決まる。「感じる」と「在る」は同値です。

愚樵さんはもともと自身の理想があり、その理想を裏付けるものを世界から見出そうとしているように見えるときがあるんです。

もちろん、そのはずです。私に限らす、だれもが理想を想定することから「ただ、そのようにあるもの」への旅を始める。はじめから「ただ、そのようにあるもの」に向かって歩みを始める人は、いないとは言い切れませんが、稀でしょう。私も間違いなく、理想から歩みをはじめた者。ですから、そうした理想の残滓はあるはずですし、今でも尚、理想を求めているところはあります。そこを棄てるつもりはないかもしれません。

私と違うなあと思っているだけで。

それでいいのだと私も思います。歩みを進めるならば、いずれ行き着く先は同じのはず。「ただ、そのようにあるもの」。まあ、辿り着けはしないでしょうが...。

>その気持ちこそ、「生きて在ることの負い目」だと思います。

そうですね。
私の中でコンテンツとコンテキストのリンクが確立しました。
o(^▽^)o

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

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