愚慫空論

「貨幣レジーム」から「社会の人間化」まで

昨日のツイートの一部を、ブログへ転載。(修正、追記あり)

貨幣レジームの変革とベーシックインカムの持続可能性
   ―文明の未来はマルクスではなくダグラスが握っている―
』 より

・「貨幣レジーム」 ← 現代社会を的確に表現する言葉だと思う。

・近代貨幣レジームの3大欠陥。 「不況からの脱却の困難性」「バブルに対する促進性」「貨幣発行益分配の不透明性」  ← この欠陥を隠蔽するために要請させるのが「イノベーション(=技術革新)(≠自己革新)」

銀行本位の貨幣レジーム → 中央銀行が貨幣を発行し、それが市中銀行に受け渡され、市中銀行が信用創造によってさらに貨幣を増大させる。

・「内生的貨幣供給モード」→ マネーサプライは、ゼロの金利を所与としつつ、需要や供給の水準、資本ストッ クなどの経済の状態によって、内生的に決定される。現在の日本は基本的には、内生的貨幣供給モード。

・そもそも近代以前の国家には、「貨幣発行益」と「税金」の2 種類の財源があった。ところが、中央銀行が設立され、さらには中央銀行の国債直接引き受けと政府発行貨幣が法的にあるいは事実上禁止されることになった。その禁止によって、国家による貨幣発行益のあからさまな全面的活用は不可能となった。

国民本位の貨幣レジーム → 中央銀行から家計、それから預金を通じて市中銀行、消費を通じて企業へ と向かう貨幣の流れ。市中銀行の信用創造は禁止され、貨幣発行益は、家計へ直接分配される。

・銀行本位の貨幣レジームでは、貨幣の流れが中央銀行→市中銀行→企業→家計。「ポスト近代」の現代では、この間にバブルが発生して貨幣発行益が家計にまで達しない。

・「持続的な貨幣発行益の源泉は技術進歩にあり」という分析は炯眼。

・技術の進歩は社会の進歩。社会の進歩を「貨幣発行益」という形に転化し、それを社会へと分配する。

・例えば、我々は住宅ローンとして、銀行から融資を受けることがある。それは本来ただで受け取ることのできる貨幣である。個人に融資する際にも、銀行は信用創造を行い貨幣を増大させる。貨幣の増大は、その分だけインフレーションの傾向を高め、国家が貨幣発行益を国民のために分配する余力を失わせる。

・信用創造を禁止すれば、銀行が融資している分に相当する貨幣を国民はただで手にすることができる。我々は本来我々のものであるはずの金を受け取る代わりに、銀行から金を借りてあまつさえ利子まで払っている。

・「国民本位の貨幣レジーム」≒「ダグラスの社会信用論」

参考:
関 曠野 講演録 「生きるための経済」― なぜ、所得保証と信用の社会化が必要か ―

・国民本位の貨幣レジームは、必然的にベーシック・インカム制度となるが、副作用として考えられるのが、労働意欲の低下、過剰消費、インフレーション。貨幣レジームの変換は同時に、社会全体の価値観が大きく変わるパラダイムシフトをもたらすはずで、副作用は、新たなパラダイムによって緩和されるはず。

・「技術の進歩は社会の進歩。社会の進歩を「貨幣発行益」という形に転化し、それを社会へと分配する」 ← しかし、この考えだと、貨幣発行益のために技術進歩が必要という考えに逆転する怖れがある。というより、必ず、逆転する。

・技術進歩は人類に恩恵をもたらす反面、自然環境を破壊するという側面もある。ベーシックインカムのために貨幣発行益が必要で、貨幣発行益のために技術進歩が必要という考えからは、自然破壊を抑制するという「思想」が生まれる必然性はない。

・ケインズは「貨幣愛」が資本主義社会の退廃を招くと予想していたという。「貨幣愛」とはつまり、愛を注ぐ対象が貨幣>社会 ということである。池田信夫氏は、「通貨の信用を維持することが国家の役割」といった旨の発言をしていたと記憶しているが、記憶通りなら、これはまさに「貨幣愛」だ。

・「貨幣愛」という言葉は皮肉語だと感じる。貨幣は「愛」の対象にはなり得ない。「執着」はしばしば「愛」と言い換えられるが、「貨幣愛」での「愛」は、、「執着」という意味での「愛」であろう。

・ダグラスの「社会信用論」(およびマルクスの共産主義思想)は、必然的に「貨幣愛」へと陥っていく資本主義社会を離脱して、「社会愛」へと向かう社会を希求することの中から、生まれたのではなかったか。

・プレ近代の呪術社会(宗教社会)から、近代に入って社会は脱呪術化(人間化)したが、それは「貨幣愛」に囚われた社会。近代が完成するには、「貨幣愛」を脱し、「社会愛」に至らなければならない。そうでないと、「近代」は完成しない。

Can_vv@gushou ここ一年、放射能は安全だという呪術世界に逆戻りしてしまっていますね…。

>>@Can_vv いえいえ。日本社会は、もともと脱呪術化していません。ただ「人間化」しただけ。だから、科学というのも呪術の一種なんですよ。だからこそ、「ニセ科学」なんてのが蔓延ることになる。

>>@Can_vv ついでに言いますと。日本では、「ニセ科学」を信奉する者の方が、まだ「魂」に近い存在です。躍起になって「ニセ科学」を退治しようとする科学教信仰者は、「無魂洋才」というべき者。

・だが、社会の人間化を目指す「近代主義」を、私は支持しない。「近代主義」の背景にある直線的な歴史観。人間は、原始状態から「進歩」して高度な存在になってゆくという、キリスト教的宗教観を背景にした思想を、受け入れることができない。

参考:愚樵空論『〈世界〉への関わり方』

・日本人である私の基層にあるのは、循環する歴史観である。それは、「山川草木悉皆成仏」といったような言葉で表現される宗教観とともにある。人間を含め、すべての生命は、大きな営みの中で循環している。そこには「進歩」などというものはない。ただ「変化」があるだけ。

・「変化」は無秩序になされるわけではない。中心がある。その中心は、「魂」と呼ばれるのが適切であろう。私たち自身の中にあることは想定されうるけれども、存在するか否かさえ、判然としない。判然とさせる必要すらない。そこは、存在するのだと「信仰」しさえすればよいようなもの。

・おそらく。それぞれの文化には、「愛の回路」とでも呼ぶべきものがある。西洋文化の場合、その「回路」の中枢にあるのは超越神。「社会愛」は「人間愛」に他ならないが、それは「神への愛」が変化したもの。神は、とりわけ、つまり他の生命よりも、人間を愛する存在だと想定されているが、その「神からの愛」と、人間からの「神への愛」とが、近代化で神が抜け落ちる過程で融合して、「人間愛」へと変化した。だから、西洋文化では、「人間愛」を遡れば「神への愛」へと行き着く(のだと思う)。

・ところが日本文化の「愛の回路」には、超越神が存在しない。代わりにあるのは、自然(「しぜん」、もしくは「じねん」)への愛である。自然(しぜん)を、自然(じねん)な循環と捉える形で「愛の回路」が存在している。いや、していた、というべきだろうか。

・西洋の場合、「神への愛」と「神からの愛」が融合することで脱呪術化され、社会が人間化した。「愛」の人間化。ところが日本の場合、「自然への愛」は、「洋才」を採用したことでただ抜け落ちただけで、脱呪術化がなされていない。「愛の回路」が抜け落ちて人間化し、人間社会そのものが呪術化した。

(「愛」は、「呪い」でもある。)

・山本七平が発見した「空気」。安冨先生が提唱する「立場主義」。これらはいずれも、呪術化した人間社会の様相ではないのか。

 

・西洋社会が脱呪術化→人間社会化していくことが出来た背景には、「言葉への信仰」があるように思う。その点こそが、日本と最も異なるところなのかもしれない。「教典」というものがない日本語の悲劇、か?

参考:愚樵空論『読書メモ ~『蠱物としての言葉』 その1』
  :光るナス 「蠱惑的」「判断的」シリーズ

漢意(からごころ 
「中国文明に特徴的であると本居宣長の考えた、物事を虚飾によって飾りたて、様々な理屈によって事々しく事象を正当化したり、あるいは不都合なことを糊塗したりする、はからいの多い態度を指す。」

・中国文明に対する本居宣長の解釈が正しいとは思えないけれども、日本近世には、外来のものに対する警戒感は、少なくともあったようだ。

・いや。この警戒感こそが、日本をおかしくしたのかもしれない。

・もしかしたら。日本は伝統的に「脱呪術化」を、外来思想に依存しているのかもしれない。そして、その依存に自覚的だった。古くは漢語を「脱呪術化」のツールとして用いた。そして、たとえば和歌のような「日本語」を呪術のままに保存した。

・しかし明治維新以後。西洋から輸入した概念を、漢字を用いて「和訳」。その過程で、日本語が「呪術言語」であるという自覚を喪失したのではないか。その自覚の喪失が現代に至り、「東大話法」へと結実したか?

・「脱呪術」的なものを輸入品で間に合わせるという日本の伝統は、貨幣においても観察されるかもしれない。なぜ、日本の天皇家は本格的に流通する貨幣を発行しなかったのか? 平清盛は中国から「宋銭」を輸入することをはじめ、その伝統は以後引き継がれた。戦国時代以降は、貨幣は武家が発行したが。

*****

付け足し。近代主義者と公言する宮台氏の『きみがモテれば社会は変わる』を読んでいて、あれ? と思ったところ。


主体は場所である
・・・
 キャリコットは、「なぜ環境を保護しなければならないのか」という理由について考えました。でも、「利益がもたらされるから」と功利的に考えても(開発したほうがふつうは便利です)、「義務があるから」と道徳的に考えても(環境を守ることよりも、子どもを飢えさせないために森を切り開くことのほうが、ふつうは上位の義務です)、どちらも矛盾におちいってしまう。そこで彼は、発想を逆転させ、「人を主体にするな、主体は人ではなく場所だ」と考えることが前提であると主張したのです。
 その発想は相当にユニークで、場所をひとつの主体としてとらえ、人を場所という〈生き物〉への寄生物だと考える。そのうえで、〈生き物としての場所〉にとって自然なものを許容し、不自然なものを許容しない。そうすることで、たんに人々のニーズにこたえる場合より、結果的に、そこに住む人々の〈幸福と尊厳〉を保つことができる――これがキャリコットの考え方です。


いや、全然、ユニークではないのだが。ユニークだと感じるのは、脱呪術化して人間化した社会、つまり「近代」をスタンダードだと考えるからで、こうした「脱人間化社会」的な発想そこが本来、人類にはスタンダードだというべきだ。

私が、あれ? と思ったのは、ユニークだと言いつつも、こうした「脱人間化社会」的発想に、近代主義者・宮台が注目したということ。

******

付け足し、その2。

「家」から切り離されて「立場」に
 江戸時代には、人は「家」を単位に生きていました。人は「家」に属するもので、「家」を代表して社会の役割を果たしていました。より正確にいえば、「家」がひとつの生命体で、人はそれを構成する要素だったといってもいいでしょう。
 それを象徴するのが、中世の「住宅検断」です。「村」のなかで殺人事件が起きたら、村人たちは「住宅検断」といって、その犯人の住んでいた「家」を燃やし、場合によってはその「家」を構成する人々をみな殺しにしていました。犯人だけでいいじゃないかと思うかもしれませんが、当時の人々は「家」をひとつの生命体と考えており、「家が罪を犯した」と考えていました。それどころか、犯罪があると、逃げた犯人は放ったらかしにして、家だけ燃やして一件落着ということがよくあったのです。ちなみにこれは東京電力の勝俣元会長のお兄さんである、東大名誉教授の勝俣鎮夫先生が明らかにされたことで、勝俣先牛は「家」
が文字通り生命体だったのだ、と指摘しておられます。
 このように「家」が生命体であれば、「人」というのはあくまで「家」の「細胞」のようなものだったわけです。それを理解していただくには戦がいい例でしょう。中世でもそう頻繁にあることではありませんでしたが、その国で暮らす人々には「軍役」というものがありました。


この記述は、キャリコットの“ユニーク”な考え方と似通っている。「家」という場所が生命体であり、「人」はあくまで「家」の「細胞」のようなもの。「人を場所という〈生き物〉への寄生物」だというのと、同じだと断じても、差し支えないと思われるほど。

しかし、それでも私は、この安冨―勝俣の視線を、人間化社会に立脚したものだと感じる。「家」というのは、あくまで人間主体の場所。だが、“山川草木悉皆成仏”という世界観にいた当時に日本人にとっては、「家」が生命体であったとしても、それはもっと大きな生命体――自然――のなかの「細胞」のようなもの、であったはず。

このことは、特に農村の「家」――建築物としての家屋の構造と、そこに込められた思想を追いかけてみれば、明らかになると思われる。

雑念する「からだ」 『カタチと境界』

ご存じの方も多いかもしれないけれど、隈研吾さんという建築家は「負ける建築」というコンセプトで建築設計を行なっている面白い方である。

(「負ける」というコンセプトは、野口体操の創始者である野口三千三先生もおっしゃっていたことである。「負けて、参って、任せて、待つ」。)

「負ける建築」と言っても、何も吹けば飛ぶよな家を建てようということではない。

その建築を建てる土地や気候や風土に「勝とうとしない」ということであり、もっと言えばそういうものと「勝負しない」そんな建築のことである。

もともと日本の建築文化は、「自然を征服しよう」という気のさらさらないようなものであった。

そうでなければ、障子のような「薄紙一枚張っただけの仕切り」など、思いつこうはずもない。

日本の建築はどちらかといえば「自然と折合いを付けていこう」という思いがある。

日本人の世界観には「一緒に生きていかなければならないモノとは、勝ち負けを決しない」というような考え方がある。(勝ってしまうくらいならむしろ負けておけと古人は言う)

それは長い経験に裏付けられた偉大な「人類知」であると私は思うが、その思想が建築そのものの中にも現れていた。

それが隈さんの言う「負ける建築」というコンセプトなのだと思う。


安冨・勝俣両先生のいう「家」からは、現代の、西洋風になった外界と遮蔽する「家」を想像してしまう。

コメント

推薦本

「国民本位の貨幣レジーム」というコンセプトがあること知るに足る価値があった。
ありがとう。

さて、「山川草木悉皆成仏」といった世界感とはテーマを異にするが、「ニッポンイデオロギー」を読み取った書として以下を推挙したい。

http://www.amazon.co.jp/8%E3%83%BB15%E3%81%A83%E3%83%BB11%E2%80%95%E6%88%A6%E5%BE%8C%E5%8F%B2%E3%81%AE%E6%AD%BB%E8%A7%92-NHK%E5%87%BA%E7%89%88%E6%96%B0%E6%9B%B8-388-%E7%AC%A0%E4%BA%95-%E6%BD%94/dp/414088388X

8・15と3・11―戦後史の死角 (NHK出版新書 388) [新書] 笠井潔著

愚樵氏の考える「自然主義」とは位相が違うかもしれない。
しかし、自分は笠井氏の「人間」を諦観しつつそれを捨てられない性格に共感している。

最新著作でもあるので機会があれば一読をお勧めする。

読んでみます

・Screamcatさん

amazon のレビューも読み、早速、注文してしました。

レビューを読む限り、私とは、確かに位相は異なるようです。が、それならなおのこと、異なる位相を端的に要約した本は、自身の思索の手助けになります。

本の推薦、感謝です。

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