愚慫空論

暴力とは ~『護身の科学』


著者の毛利元貞さんは、元傭兵という経歴の持ち主。(⇒Wikipediaの経歴欄

人は、本当に身に危険が迫ったときには、直感で恐怖を感じます。この感覚はとても重要です。恐怖は、人間に備わった「身に迫る危険を知らせる警戒警報」といえます。そのうえで本書ではQ&A方式を用いてあなたの不要な怖さを取り除くノウハウを提供していきます。(「まえがき」より)


正直なところ、本書で紹介されるノウハウを理解したからといって、直ちに危険を回避できる達人になれるかどうかは、疑問。本書は、「科学」とタイトルされているが、内容は「極意」というべきもの。傭兵という死線をくぐり抜ける体験を経て極意を体得した著者が、その極意を平易に具体的に――科学的に――紹介・説明というのが本書の内容だが、平易に説明は出来ても、体得は困難を極めるというのが「極意」というもの。

人間は、直感で恐怖を感じることができる生き物だということは間違いないだろう。でも、だからといって、その直感を、なかなか上手く働かせることができないのが、人間というものでもある。

本書の効用は、人間とはどのような生き物なのかを、暴力というフィルターを通じてよく理解できることにある。つまりは、人間のもつ二面性。直感力と、直感に「蓋」をしてしまう不要な思い込み。この思い込みとは、「常識」であり「正常性バイアス」。

(本書には「正常性バイアス」という術語は登場してこない。「正常性バイアス」は防災心理学の用語で、昨年の大震災の後に頻繁に語られた言葉だが、本書の出版は2005年。)

暴力とは「心とからだを傷つける行為である」とわたしは定義しています。自分や他人を身体的に傷つけるのは、暴力の最終段階といえます。(p.8)


この定義は極めて重要。一般的には、暴力とは「からだを傷つける行為」とはされても、その範囲に「心」が入れられることはない。暴力の対象に「心」を入れ、「からだを傷つける行為」をその最終段階と捉えることで、「心理を読めば暴力は回避できる」という方法論を確立することが出来るようになる。これを著者は「暴力学」とする。

暴力学では、暴力を理解することからすべてがはじまります。それは人の気持ちを察することにつながります。つまり、いかに円滑な対人関係を構築するするかを学ぶことなのです。「力による支配」を理解すれば、言動の意味も見えてきます。相手の気持ちがわかれば、暴力が発生する前にさまざまな処方箋を用いて対処できるのです。(P.9)


ということで、本書は、被害者・加害者・専門家、そして傍観者の心理を読み解いていくのだが、なかでも重要だと思われるのが傍観者の心理だろう。

残虐な事件を起こした犯人が逮捕されると、必ず不可解な現象が起きます。たとえば隣人たちがマスコミに登場し、さまざまなコメントを好き勝手に話します。どうして隣人たちが加害者の家族以上に普段の生活や性格を知っているのでしょうか。ありえない話が平然と語られるのです。なかでも危険なのは、隣人のコメントの多くは顔にモザイクをかけられたり、音声を変えたりしているという点です。匿名性という立場で、好き放題にかたっています。責任感を感じることにない彼らのコメントは...(p.27)


責任感のない傍観者が、匿名性を盾に、自らの主観で好き勝手に語る。残虐な事件のみならず、目下話題の国境紛争に関しても同様の現象を見て取ることができる。

さらに言うならば、本書の範囲を逸脱するが、無責任な傍観者への盾となるのは、匿名性だけではない。日本社会は、「立場」というものが、実名ではあっても、無責任をシステマチックに担保する構造になっている。「立場」を維持するための欺瞞言語が日本社会を蔽っている。


本書の暴力の定義に従うと、「心を傷つける行為」も暴力だということになる。そして、心への暴力を「ハラスメント」という。「東大話法」と命名されるような欺瞞言語を駆使する人たちは、「近代教育」という名の心への暴力行為を受け、その環境に高度に適応してしまった人たち。その結果、暴力を避けるのに必要な直感(魂の作動)に「蓋」をしてまう傍観者となるばかりか、社会のシステムを無意識のうちに悪用して、合法的な暴力を振うようになってしまった人たちだ。

*****

本書では、「教育」の効用についても言及されている。

米国陸軍の調査結果によると第二次世界大戦当時、敵に向かって発砲して兵士の比率は全体の20パーセント弱であったとされています。残りの80パーセントの将兵は「敵を狙うことなく」見当違いの方向に発砲していたのです。もしくは負傷兵を運ぶ、弾薬箱を運ぶといった発砲以外の行動を意識的に選択していました。この報告書を検証すると、人が人を殺すことには拒否感を持つ生き物であることがわかります。ある意味で安心する話ですが、この理性はやがて「条件付け」で抹消されていきます。軍上層部は射撃訓練で丸形の標的を使用していたことが原因だと考えたのです。以後、射撃訓練では人型標的が用いられるようになりました。その結果として、ヴェトナム戦争では敵に向かった発砲率は90パーセントまで高められています。


「条件付け」とは「教育」に他ならない。その他にも、恐怖を怒りへと変換させる「教育」も施されたりする。

そうした「教育」を受けた兵士は、自らの意志で殺人を犯していくようになる。

もっとも「条件付け」にも悪影響があります。人を殺したという記憶は決して、兵士の脳裏から消え去ることはないという点です。一生、重荷となって心に残ります。人を殺した記憶が罪悪感となり、わたしのように心理療法やカウンセリングを受ける兵士もいます。心の痛みに耐えきれず自殺してしまう兵士もいるのです。


兵士が自らの意志で殺人を犯すようになるとは言っても、それが自覚されることは少ない。自覚されないからこそ、「心の痛み」となって発現する。


 参考:愚樵空論『「当事者」の時代』


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