愚慫空論

『オーダーメイド殺人クラブ』を読んでみた

ポジションが定まらないというのは、どんな人にとっても、どんな場合においても、つらいものがある。

ここでいうポジションには、大きくふたつの意味がある。人間関係上の「立場」という意味。仕事や勉強に向き合う「構え」といったような意味。アイデンティティという言い換えることができるかもしれない。子どもは大人へ成長する過程で、様々な意味でのポジションを確立していかなければならない。

ポジションを確立するためには、揺るぎない基盤を探り当てなければならない。不安定な足場の上では、どのような関係、どのような構えも、不安定なものにならざるを得ない。確固とした基盤を探り当ててポジションを確立することは、人生の目的だとすら言っていいかもしれない。



ひょんなことから読んでみることになった、『オーダーメイド殺人クラブ』。作者の辻村深月の名は、直木賞受賞ということで聞いてはいたが、特に関心もなかった。が、読んでみると面白かった。

作品の主人公は、ポジション確立への旅に踏み出し始めたばかりの、小林アン。アンは、「特別な存在」であることを“死ぬほど”に希求している、思春期の只中、中学二年生の女子。

思春期の少年が不安定なのは、人間という生き物の性質上、やむを得ない。子どもというのは弱い存在だが、その弱さは、人間ならばだれもが経由しなければならないところであり、広く認知された絶対的特性であるために、そのポジションは安定している。対して大人は、子どもというポジションから離れ、個々にポジションを確立しなければならない存在。思春期は、子どもから大人へ移行期であるから、そこが不安定な時期になるのは、人間という生き物の性質上、やむを得ない。

もっとも現代社会においては、子どもにそのポジションは十分に与えられているとは言えない。現代の子どもたちの多くは、「子ども時代」を奪われている。

その原因は、ポジションが確立するものから獲得するものへと変化したからだ。ポジションには「立場」と「構え」の二つの意味があると上で述べたが、現代では「立場」の比重が非常に重いものになってしまった。現代人は、競争に勝ち抜いて「立場」を確保することで、ポジションを獲得しなければならない

いや。必ずしもしなければならないわけではない。が、なければならないという強迫観念に囚われてしまっているのが現代人である。

本来、「子ども時代」とは、大人へ移行していくことを義務付けられている子どもが、ポジションを確立していくための準備期間である。ところが獲得競争が激化してしまった現代では、「子ども時代」は奪われて、子どもの時からすでに獲得競争へと臨むことを、大人たちからの【善意】という形で強いられている。つまりは、ハラスメントである。

そのようにして思春期に入った少年少女たちは、学校やクラスという小さな社会の中で、学業成績という分野のみならず、時には自身の生存すら賭けて、ポジション獲得競争に臨むことになる。

  ***

『オーダーメイド殺人クラブ』の面白さはまず、このポジション獲得競争の描写、思春期の少女たちの「立場の生態系」描写の鮮烈さにある。それは主に、主人公アンの心情描写を通じて描き出されている。

アンの棲む小さな世界は、暗然としたヒエラルキーが存在する世界。アンは他のクラスメートたちと同様、そんな世界でポジション獲得ゲームを演じるプレイヤーのひとり。ポジション獲得競争が内面化してしまっている彼らの世界は、大人の社会と同様か、それ以上のヒエラルキーが出現してしまっており、ヒエラルキーの中でどのようにポジショニングするかが、彼らの最大の関心事。もっともエネルギーを費やすところだ。

時に友達を仲間から外し、時に仲間から外される。彼氏彼女を作るのも、優先されるのはヒエラルキーで、ポジション獲得が主目的。彼氏彼女がいるということは“リア充”という特別な名称で呼ばれ、それはヒエラルキー上層部を指す言葉ではあるが、こうした言葉とその意味が存在すること自体、本来は個人の自由で、個々人の生きる「姿勢」に属するはずの恋愛ですらが、「立場」に従属するものになっていることを示している。

所属するグラブ。趣味。容姿。服装のセンス、など。ありとあらゆる要素が「立場」の生態系のなかに絡め取られ、しかもその世界は狭いのである。そんな世界の中で、プレーヤーたちは、自己中心的に他者からの評価を獲得すべくゲームを演じている。ヒエラルキー上部へ行くほどプレーヤーは、ヒエラルキーのなかのポジショニング、すなわち「立場」を失うことを怖れ、自分の立場を確保するためには他人を陥れることも辞さなくなってゆく。

その有り様は、大人社会の縮図といったところを超越して、煩悩世界のミニチュアと評した方が適切かもしれない。世界が狭い分だけ、競争は熾烈なのである。アンはそんな世界にうんざりしながら、そんな世界から“解脱”できない自分をもっとうんざりして、「特別な存在」になることを“死ぬほど”に希求するである。

『オーダーメイド殺人クラブ』のストーリーは、アンの希求が、具体的な「殺人の計画」となって準備されていくという形で進行する。それは、アンがクラスのなかでの「立場」を喪失していくことで深まってゆく、“解脱”願望の高まりと並行する。

この「準備」には、協力者が存在する。クラスメートの徳川である。徳川との出逢いが、アンをして「事件」へと舵を切らせる決定的要因となる。

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『オーダーメイド殺人クラブ』のもうひとつの面白さ。それを“面白さ”と評するのは、私の主観においては相当の抵抗があるのだけれど、「立場の生態系」のリアルな描写とともに、作品としての面白さの主要部分を構成していることは間違いない。すなわち、“命の軽さ”である。

アンにとって、命とは、ポジション獲得のために“使うもの”である。アンは、同年代の少年少女の自殺のニュースに接したときに、もったいない、という感想を抱く。せっかく命を“使った”のだから、もっと大きなポジションを獲得できなければもったいない。アンは、そうした事件の記事を蒐集し、同時に「少年A」――猟奇的事件を侵した未成年が、世間に報道されるときの名称――的なもの惹かる。徳川は、そんなアンの前に、「少年A」として出現するのである。

アンは徳川に、アン自身の殺害を依頼する。アンはそうやって自身の“命を使う”ことで、「特別な存在」となり、ポジション獲得競争から“解脱”することを目論む。“命を使う”からには、少しの間、世間を騒がせるだけではもったいない。その「事件」は、その後に続くであろう事件のモデルとなり、後世に語り継がれなければならない。そのためには、どのように「事件」を計画し、実行するか。彼らが辿り着く結論が「オーダーメイド殺人」というわけだ。

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少し冷静に考えて見れば、ポジション獲得のために“命を使う”などというのは、どう考えても矛盾しているし、バカげているように思うだろう。が、冷徹に社会を見渡してみれば、人間は、また特に日本人は、そのように“命を使う”のである。

数年前、『希望は戦争。』という宣言が物議を醸したことがあった。フリーターという「立場」に甘んじることを強いられた者が、「立場の生態系」が崩壊することを希求したものだった。ここには自らを「特別な存在」たらんとする希求が潜んでいる。この宣言は、多くの共感を呼んだ。

(『希望は戦争。』の筆者は、アンが「オーダーメイド殺人」によって獲得しようとしたポジションをを、この文章によって獲得したと言ってよいかもしれない。もっとも、筆者は“死ぬほど”希求したわけではなかったし、そのことは文章の欺瞞となって現れていると、私は思っている。)

戦争ということでもっと遡れば、かつての戦争中、日本の若者は、「立場」に殉じて自ら死を選んでいった事実が多く存在する。そうした若者が望んだのは、靖国において英霊という名の「特別な存在」としてのポジションを獲得することだったのだ。

 ⇒ 「立場主義」という日本文化が陥る罠(1)

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人間にとって生きる力を生み出し、創造性を生み出す源は、状況の中で我々の身体が生み出す情動であり、それを脳は感情としてモニターし、意味を生み出す。

アンの情動と感情は引き裂かれている。アンが置かれている「立場の生態系」からの情動・感情と、アン自身の命から生まれる情動・感情である。アンの意識においては前者が支配的であり、だからこそアンは苦しみ、前者を選択しているつもりになる。後者の情動・感情を克服することで、「特別な存在」へと至ろうと企てる。

アンにとっての「少年A」である徳川は、アンと共に「事件」を計画しつつも、アンの決意を疑っている。その疑念を幾度かアンに投げかける。

しかし徳川は、実は「少年A」ではない。アンに疑念を投げかけている時点で、もはやそうではないのである。もし徳川が真性の「少年A」であるならば、そんな疑念を投げかけ、アンの決意をわざわざ確かめる必要などない。アンは徳川にとって都のよい素材でしかないはずなのである。徳川は徳川で「少年A」たらんと希求する動機を抱えているが、徳川に「少年A」たることを求めていたアンには、そのことは盲点になっている。徳川の心情はほとんど描かれていないので、確かなことは作品からは読み取れないけれども、徳川自身ににとっても盲点だったろう。

盲点が明らかになるのは、もちろん、クライマックスの場面である。

アンは決意を固めている。ところが「少年A」だったはずの徳川は、アンを殺すことができない。

徳川がアンを殺すことができなかったのは、徳川が、実はアンが死を望んでいないことを識っていたからだ。徳川のこの認識は、徳川の意識には到達していなかった。徳川もまた徳川の理由で「少年A」という「特別な存在」であることを希求していたから。アンとふたりでオーダーメイドした殺人計画通りアンを殺害して、「特別な存在」になる。意識はそちらを選択してために、アンの真意は意識にまでは届かない。識っているのは、意識に昇る以前の、情動の領域でだ。

徳川は、アンの確固たる決意は認めた。だから「事件」を実行に移そうとした。だが、情動から沸き上がった感情に押し留められてしまう。それでも徳川は「少年A」たることを諦められない。そこでアンと計画していたのとは別の「事件」を企てようとする。

アンは、徳川のその意図を察知する。アンもまた徳川を情動の領域で理解していたからである。アンは徳川の意図を察し、情動から沸き上がる感情の赴くままに行動する。すなわち、徳川がアンと計画した「事件」以外で「少年A」になってしまうことを押し留める。

かくして、「オーダーメイド殺人」は未遂に終わる。

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アンと徳川は「オーダーメイド殺人」を計画、準備するなかで、同じ時間と空間を共有した。同じ目的を持ち、互いの認識をすり合わせてきた。そうした共有から生じた情動が、感情となってモニターされたとき、その感情は“愛情”もしくは“友情”という名称で呼ばれる。

もっとも、ストーリーのなかでは、彼らはそういった名称で呼ばれるような関係をとり結ぶには至らない。おそらくは、アンと徳川は、互いの「事件」を阻んだ感情がそのように呼ぶことができるのだということに思い至らなかったがために。

愛情も友情も、広い意味で愛のカテゴリーへ分類することができよう。そして、愛とは、冒頭のポジションの話に戻っていえば、「構え」を確立することに相当する。アンと徳川は「死」を経由することで「特別な存在」たる「立場」を獲得することを求め、時間と空間を共有するうちに、当人たちも意識しないうちに「構え」を確立することになる。

彼らは、計画した目的は果たせない。彼らの求めた絶対的は「立場」は獲得できなかった。しかし、代わりに「姿勢」を確立することはできた。では、彼らが真に希求していたものは、つまり、小さな社会の「立場の生態系」から“解脱”することはできるたのか。

そこは作品には明確に描かれていない。ストーリーのクライマックスは終わり、後は簡単なエピローグが記されているだけである。

アンは勉強に本腰を入れ、高校は進学校へ、さらに東京の大学へ進学することになる。また徳川は、美大へ。それぞれのポジションに獲得するという結末。そして、アンと徳川の新たな「出逢い」の予感を仄めかして、作品は幕を閉じることになる。

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2人のある計画、

小説「オーダーメイド殺人クラブ」を読みました。 著者は 辻村 深月 中学2年生のリア充女子 アン 彼女はクラスの昆虫系男子 徳川に殺人の依頼をする・・・ ちょっと驚きのタイトル

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

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