愚慫空論

「同じ人間」と「同じ社会」のミスマッチ

「春名風花」という芸名の子役タレントがいることを、こちらのブログ記事で知った。

 《いじめている君へ》(きっと誰かに愛されている)

朝日新聞がいじめをテーマになにやら特集記事を組んでいるらしいことは、朝日新聞は購読していないけど、なんとなく知っていた。ネット経由で情報は入ってきていた。けれど、正直なところ、興味はなかった。いかにも朝日らしい、ありがちな大人のパフォーマンスだろう、くらいにしか思ってなかったから。読みもしないで先入観を持つのは良くないことだが、そうした先入観を持つには、それなりの経緯はあるのだ。ネット上の「いじめ談義」に嫌気がさしていたこともある。

ところがたまたま、春名風花さんのメッセージを見ることになった。そしてビックリした。

今から書く言葉は君には届かないかもしれない。だって、いじめてる子は、自分がいじめっ子だなんて思っていないから。

 いじめがばれた時、いじめっ子が口をそろえて「じぶんはいじめてない」って言うのは、大人が言う保身(ほしん)のためだけじゃなく、その子の正直な気持ちじゃないかなと思います。

 ただ遊んでいるだけなんだよね。自分より弱いおもちゃで。相手を人間だと思ってたら、いじめなんてできないよね。感情のおもむくままに、醜悪(しゅうあく)なゲームで遊んでいるんだもんね。


この「告発」がもたらす衝撃もさることながら。驚いたのは、その視線。大人の「上から目線」では、この「発見」はなかっただろう。同じ子どもの目線からの告発。

ただ。やはり子どもの言葉ではある。この「告発」を読む者は、自らが大人であると自覚するのなら、その言葉をそのまま受け取るべきではない。大人のつもりだけの大人は、得てして、自分の先入観に都合のよい言葉を、そのまま採用する傾向がある。

「相手を人間だと思ってたら、いじめなんてできないよね。」

そういう大人にとっては、この言葉は快く響くだろう。我が意を得たり。そして思考停止。でも、違うだろう。

相手を同じ人間だと思っているから、いじめができるのである。いじめる方もいじめられる方も、同じゲームを遊んでいると思っている。同じ人間だから。

人間は、自分の物差しでしか他人を測ることができない。大人と子どもの境界線は、できるないことを識っているかどうか、というところにあると言ってもいい。無知の知。

  ***

それにしても、いじめは奇妙な適応である。

ヒトは基本的に、快/不快の感覚に基づいて行動する。「快」は、その個体の生存にとって有利だと判断されている。「不快」は逆。この行動原理は、赤ん坊から大人に至るまで変わることはない。

もうひとつの、ヒトにとって基本的な行動原理。それは、社会性。社会性は生まれたばかりの赤ん坊にも、すでに備わっている。ヒトは赤ん坊のときからすでにヒトの顔に敏感に反応するように出来ている。

社会は、ヒトにとっては安全保障である。社会があって、ヒトは初めて人間になる。人間にとって、自らが社会の一員であるということを確認できるということは、自らの生存が有利であるということが判明するということであり、「快」に感じられることのはずだ。

ところで、いじめる者は、いじめゲームに「快」を感じている。ということは、それが生存に有利だとの判断が下されているということになる。しかし、それは、社会の破壊行為である。クラスメート、友達仲間が社会であるとするならば。

いじめる者は、自らが所属するはずの社会への破壊工作を「快」だと感じていることになる。安全保障を脅かすことを「快」だと感じている。これはどう考えてもおかしい。

  ****

もう一度、「同じ人間」という言葉の意味を考えてみる。

「私たちは同じ人間である」というときに含意されるのは、2つの意味。1は、生物種として同じという意味。同じ感覚装置を持ち、同じようなことを感じ、同じような思考をするだろうという暗黙の前提である。「自分の物差しでしか他人を測る」という行動も、この前提から派生するものである。

2は、同じ社会に所属するという意味。

現代の民主主義社会では、1と2は分離しないものだということになっている。基本的人権という思想は、1と2が同一であるというところに立脚しているが、歴史的にみれば、この同一は、普遍的なものではない。歴史的には、1と2が分離しているのが当然であり、生物種としては同じヒトであっても、所属する社会が違えば人間ではなく、殺しても構わなかったし、殺しても倫理的に問題となることはなかった。そうすることが正義でさえ、あった。

1と2が分離した前近代的価値観は、同じ人間だからこそ、共有されていた。

再度、春名風花さんの文章。

けれどぼくは、ぼくがいくら泣こうが、本当に自殺しようが、その人たちが何も感じないことを知っている。いじめられた子が苦しんで、泣いて、死んでも、いじめた子は変わらず明日も笑ってご飯を食べる。いじめは、いじめた人には「どうでもいいこと」なんです。


ここで告発されている事態は、どう見ても、1と2とが分離した前近代的な状態である。いじめる者がいじめることができるのは、いじめる者を、「同じ社会の人間」だと感じていないということになる。つまり、いじめる者は、いじめゲームが社会を破壊しているとは考えていないし、いじめられる相手も、同じ社会に所属していないのだということを共通認識として、同じ人間として、共有していると考えている。

  *****

同じ社会の人間同士でも、優越感に根ざしたいじめというものはある。恥ずかしながら、私自身にもそうしたいじめの記憶はある。したこともあるし、されたこともある。

優越感に根ざしたいじめには、限界がある。いじめる相手がいなければ、自分の優越感を確保できないし、いじめる相手もまた「同じ社会」の一員であるから、その相手が居なくなると社会が動揺することになる。社会の動揺は不安に繋がり、「不快」である。もっとも、だからといって不幸な事件が皆無というわけではなかったが、社会の動揺は倫理的な問題を引き起こし、個人にとっては「心の傷」という形となって残った。

これは、古典的ないじめの形。だが、現代のいじめは、明らかに古典的な範囲を逸脱している。現代のいじめは、もはや犯罪という声も大きい。

だが、犯罪的ではあっても、犯罪と断定できるかどうかは難しい。というのも、犯罪という概念は「同じ社会」を前提にしなければ成り立たない。「同じ社会」のなかのイレギュラーが犯罪であり、そのイレギュラーは「犯意」という形式にまとめられるが、現代的ないじめの場合、犯意が特定できない。いじめる当人はあくまでもゲームだから。同じ人間同士で行なう、異なる社会間のゲームである。しかも、子どもが興じるゲーム。

  ******

このようなおぞましいゲームを子どもたちが行なう理由は、実に簡単で、それを大人たちが行なっているからである。

私は伝え聞いているだけだから真実かどうかはわからないが、昨年の福島第一原発の事故の際、福島から東京電力の社員その他、正確な情報を知ることを出来た者だけが、周囲に正確な情報を知らせることなく、自分たちだけが逃げたという話。もしこれが本当なら、東電社員たちは、福島県民を、同じ空間で生活しながら、同じ社会で暮らす人間だとは思っていなかったいうことになる。

その後の東京電力の原発事故被災者への対応も、到底、同じ社会の人間だとは考えられないようなものだと伝えられている。

同じ社会の人間だと考えているように見えないのは、東電ばかりではない。日本社会のエリートたちに共通する考えのように見える。彼らは、日本社会への破壊工作に「快」を感じているようにすら見える。いじめをする子どもが自らは学校のクラスという社会には所属していないと感じているように、エリートたちは、日本という社会には所属しているとは感じていないかのように思える。

奇妙というしかない事態だが、そうとでも考えなければ合理的に説明がつかない事態が進行中なのは、どう見ても事実である。なぜ、こんなことになったのか。

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いじめられる側の方は、学校のクラスあるいは日本社会は、いまだ一つの同じ社会だと考えているし、感じている。しかし、いじめる側の方は、同じ社会だとは考えているだろうが、感じていない。考えることと感じることが分離してしまっていて、自己欺瞞に陥っている。その欺瞞が、大人の社会では、民主主義を形ばかり成立させている。同じ人間が同じ社会の成員であるという前提を、欺瞞でもって塗り固めている。

その欺瞞を、子どもは正直に内面化してしまう。だから、保身のためではなく、正直な気持ちで、「じぶんはいじめていない」と言うことができてしまう。

大人にこの正直さが発見できないのは、エリートたちの欺瞞を批判する者も、欺瞞を少なからず取り込んでしまっているからだ。自らの欺瞞は棚に上げて、より欺瞞の大きい(と思われる)者を攻撃する態度を身につけてしまっている。自らの欺瞞を隠蔽するために、より大きな欺瞞を、時には捏造しても探し出そうとする。反原発派の中に生じつつある亀裂は、こうした態度から生まれてくるものだと私は思っている。

そんな大人に、子どもの正直なおぞましさが発見できないのは、道理である。

  ********

大人は、いじめられている子どもたちには、逃げろ、と言う。
逃げずに福島でがんばっている人たちを、応援しよう、と言う。

いじめられている子どもには、勇気を持って、そのことを周囲に伝えようと言う。
「がんばろう福島」「がんばろう日本」と言う。

同じ人間だから。「同じ社会」という虚構を維持しなければならないから。
虚構だけ維持しても、欺瞞は深まるばかりだというのに。


コメント

いじめられたら仕返しをする

 いじめと聞くと実にくだらなさを感ずる。いじめを受けたら、いじめを返す。これでいじめは解決。にもなる爺の一言だ。目には目を。歯には歯を。今の世の中、軟弱では?いっそのこと中国と戦争して目を覚ましたら?こう言ったらあいつは過激だ、異常だという社会,世間では決してそう言わない。そう腹立てないで、見守って今に解るから。と。いいところだけ取られて、肝心要は闇の中。美味しいものは少数で食べられ、残り物を漁る、大衆。その位置づけさえ知らない。子供は実に正確に大人の社会を見ている。世間ではないよ、誤解の無いように。

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