愚慫空論

「学習資本」と「努力主義」のミスマッチ

前記事に頂いたすぺーすのいどさんのコメントへの返信を書いているうちに、とある言葉が頭に浮かんできた。「学習資本」。「不安」という言葉をタイプしたときに、浮かび上がってきた。

「内田樹の研究室」の8月8日の記事。「学力と階層」解説。私はここで初めて「学習資本」なる言葉を知った。

苅谷さんの知見のうちで、私がもっとも重要だと思うのは、前著では「インセンティブ・デバイド」(意欲格差)という言葉で語られ、本書では「学習資本」という言葉で語られる、「学ぶことへの意欲」そのものが社会構築的な能力だというアイディアである。


ここに定義される「学習資本」は、『生きるための論語』において提出されている〈学習〉の定義、および孔子の思想と大部分は整合する。

  子曰。
  學而時習之。不亦説乎。
  有朋自遠方來。不亦樂乎。
  人不知而不慍。不亦君子乎。


子の曰く、學んで、時にこれを習う。また説(よろこ)ばしからずや。朋、遠方より來たるあり。また樂しからずや。人知らずして慍(いか)らず、また君子ならずや。

先生が言われた。何かを学び、それがあるとき自分自身のものになる。よろこばしいことではないか。それはまるで、旧友が、遠方から突然訪ねてきてくれたような、そういう楽しさではないか。そのよろこびを知らない人を見ても、心を波立たせないでいる。それこそ君子ではないか。


 この「学習」という考えは、論語の秩序論の根幹を為す。この章が示すように、学習過程が開かれていることが、君子の条件である。逆にそれが停止している人を「小人」というのだと私は解釈する。


“大部分は”ということは、整合しない部分もあるということである。それは「学習資本」には「君子」という思想が抜け落ちていること。

再び『「学力と階層」解説』より。

その一方で、私たちの社会のエスタブリッシュメントはいまだに「努力することへの動機づけ」を安定的に備給されている人々がいる。そのような階層の子どもたちは「努力すればいいことがある」というタイプの利益誘導型のロジックにではなく、むしろ「あなたは人に倍して努力することを義務づけられている」という選良意識に従って努力をしている。そのような「努力することができる」集団と、「努力する能力を早い時期に損なわれた」集団が日本社会には解離的に存在しており、その隔たりは、日々拡がっている。階層上位の人々は、「強者連合」的な相互扶助・相互支援のネットワークを享受しているが、階層下位の人々は分断され、孤立化し、社会的流動性を失っている。それが苅谷さんが「『学習資本』の階層差」と呼ぶ事態である


努力することへの動機づけ」を安定的に備給されることで、【学習】への努力を為し、「学習資本」を蓄積するエスタブリッシュメントの子どもたち。そうした子どもたちが君子へと成長するかというと、答えは否であろう。「偏差値」だけは高いエスタブリッシュメントが主導する日本国のありさまがその答えを示している。「学習資本」を蓄積した者は君子には非ず。もとより選良意識による努力から蓄積される【学習】などで君子になれるわけはないのだが。

しかし、君子をめざす〈学習〉でなくても、エスタブリッシュメントという「立場」の獲得を目指すための【学習】であっても、「学ぶことへの意欲」が社会構築的な能力になっている。だか、私は思うに、それは偶然結果として、そうなっているだけであって、必ずしも必然ではないのではないか。

  ***

孔子=安冨の、君子による社会秩序という理論には、とある必然性が前提とされている。「魂の作動」である。〈学習〉とは、「魂の作動」を従い、「魂の作動」の範囲を拡大させていくことであり、その結果として秩序が保たれることになる。

一方、「立場」を獲得するための【学習】には、そのような必然性はない。「立場」とは、安冨先生によれば、日本に独特の人間生態系であり、戦後において完成を見たもの。「立場」を獲得するための【学習】が社会秩序を保つことに偶然結果として社会秩序を保つことになっているのは、戦後日本が「立場主義」社会だからである。

苅谷=内田の「学習資本」理論は、戦後日本において限定的に成立するもの。苅谷さんも内田樹さんも、現代日本社会の病理という視点で眺めておられるわけだから、限定的だいうのはもとより前提だろう。

  ****

下流志向内田さんは、そうした限定的な病理が発生した理由を教育への市場原理の侵入と、子どもたちの消費者化に求める。その著作は私も読んだし、納得させられることが多かった。だが、疑問が残っていないではなかった。

それは、市場原理の侵入、および、子どもたちの消費者化、は日本に限定された現象ではないはずだから。それが特に日本の子どもたちに強く作用した要因があるはずで、そこのところの指摘が不十分なようには感じていた。

私にとってその答えの一つが、安冨先生の「立場主義」になっていたわけだが、それとは別の答えを内田さんの『「学力と階層」解説』の文章から見出したように思ったのである。「不安」という言葉が梃子になって。

学習機会はすべての子どもの前に平等に開かれている。学力や体力には個体差があるが、「努力する能力」は万人に均等に分配されている。というのが、近代日本において、一度として懐疑されたことのなかった「努力主義」イデオロギーである。
苅谷さんはこれがある種の歴史的状況のもとで生まれた、一個の臆断であり、それによって日本の教育が深く損なわれていることを指摘する。これは教育学史上に残る卓見だと私は思う。


「学習機会」の概念を「学校教育」に限定してしまえば、これがある種の歴史的状況で生まれた、それも近代日本に限定された現象だということはできるだろう。しかし、〈学習〉とは、必ずしも学校教育におけるいわゆる「知育」だけを指すわけでもない。「学習」という言葉は、近代以降の日本では「勉強」という言葉と強く結びついているけれども、日本にはもうひとつ「修行」という言葉もあって、これもまた〈学習〉である。というより、〈学習〉を自己変革だと捉えるならば、「修行」こそが、日本においては〈学習〉の本道であった。

日本人の「修行」の対象範囲は広い。子どもが一人前の大人になるには「修行」を経ねばならなかったと認識されていたし、その認識は現在でも根強く残っている。ただ、それは現代では「修行」が「勉強」に置き換わってしまっている。

「勉強」が「修行」に置き換わったという点に着目すれば、「努力主義」は近代日本限定のものであるといえる。しかし、「努力主義」そのものに着目すれば、それは近代日本に限定されない。近代以前、江戸期の「勤勉革命」を経由して、さらに源流を遡ることができるものだ。日本限定ではあっても、日本近代限定ではない。

ただ、日本近代において、「努力主義」がイデオロギーと化しているという指摘は、正鵠を射ていると思う。「不安」を克服するのではなく、隠蔽するのがイデオロギーだという意味において。

  *****

再度、以下の文章に着目する。

その一方で、私たちの社会のエスタブリッシュメントはいまだに「努力することへの動機づけ」を安定的に備給されている人々がいる。そのような階層の子どもたちは「努力すればいいことがある」というタイプの利益誘導型のロジックにではなく、むしろ「あなたは人に倍して努力することを義務づけられている」という選良意識に従って努力をしている。


ここには“未だに”という語がある。“未だに”の意味するところは過去と現在の対比だから、“未だに~いる”という文章が暗示的に意味するのは、“かつては~たくさんいた”である。では、前段に“かつては~たくさんいた”に相当する文章あるいは文言があるのかと探してみれば、見つからないのである。

現在の状況分析から、“その一方で”、その分析に当てはまらない状況が提示されるというのは、論理的である。しかし、そうであるだけなら、“未だに”の語は不要なはずだ。それに対応するのは一見、“「努力主義」イデオロギー”のように思えるが、実はそれとても現在の状況分析でしかない。“「努力主義」イデオロギー”から、“その一方で”の間の文章も、現在の状況の分析でしかない。“未だに”に対応する文章及び語句は、『「学力と階層」解説』のなかには存在しない。

これは「盲点」である。

“未だに”によって想定される文章は、次のようなものであろう。

>>かつては、私たちの社会では、エスタブリッシュメントではなくても、人々は「努力することへの動機づけ」を安定的に備給されていた。どのような階層であっても、子どもたちは「努力すればいいことがある」というタイプの利益誘導型のロジックにではなく、むしろ「あなたは人と同様に努力することを義務づけられている」という宗教的意識に従って努力をしていた。<<

“選良”意識に置き換える語句を少し思案したが、やはり“宗教的”でいいと思う。特に日本人の場合。

「立場主義」に絡めていえば、大人になって、世襲の「役」を担うべく修行し、努力すること。そうした意識が、日本人には宗教的と称していいほど、意識の古層のなかに刷り込まれている。

ところが近代以降の近代教育制度が普及した日本では、「役」は世襲のものではなくなった。努力を傾けるべきは「修行」から「勉強」へと移り、「勉強」は近代的教育システムのもと、市場原理の子どもである競争原理に晒されることになった。つまり、「役」も「立場」も、獲得するものへと変わってしまった。

その結果、「努力主義」は普遍的で宗教的なものから、「不安」を隠蔽するものへと変化した。宗教的というのは、「不安」を和らげ克服し、「安心」を供給するいう意味でもあるのだけれど、システムが変化したために「立場」「役」が「安心」を供給する役割を機能的に無くしてしまい、つまり、獲得すべきものへと変化したために数量的にも減少したにもかかわらず、それがいまだに「安心」をもたらすものだと認識されてしまっていて、ミスマッチが生じている。そのミスマッチから生じる「不安」を「努力主義」というイデオロギーで隠蔽してしまっているのが、現代日本教育制度の構造上の欠陥になっている。

そして、その構造は、教育者としての苅谷=内田の「立場」からは「盲点」になっている。なぜなら、近代教育システムの一員である彼ら自身ももまた、システマチックに「安心」を「不安」へと転換している共犯者だからだ。

  ******

学習への意欲を駆り立て、あるいは阻害しているのは「不安」である。「安心」への距離感と言い換えてもいい。内田さんのいう「エスタブリッシュメント」とは、「勉強」という意味における【学習】を、競争の結果、自身の「役」として、「立場」として、獲得するに至った者たちを指す。そこの生まれた子どもたちは、選民意識よりも、むしろ古層的宗教的意識に従って、親と同じ「役」と「立場」を果たすべく、周囲と同様の「努力」を傾ける。周囲と同様であるということが安心感をもたらし、子どもの「努力」を下支えする。

もとより子どもは、大人になるに当たっては「不安」を感じるものだ。生理的な身体の変化からはじまって、さまざまな要因で「不安」を抱えるのが子どもである。それを「安心」をもってバックアップするのが大人の役割だが、エスタブリッシュメントは、そうした「不安」と「安心」のバランスが、かつてのように未だうまく機能している集団を指すのではないか。

そのエスタブリッシュメントたちは、ますます「不安」が増す社会の中で、自分たちの「安心」を確保しようと、エスタブリッシュメントの「立場」を獲得した能力をさらに発揮する。そのことが「立場」の生態系をより強化し、もはや“搾取”といってよい域にまで達している。

一方、非エスタブリッシュメントたちは「不安」と「安心」のバランスをうまく取ることを、社会によってシステマチックに阻害されてしまっている。そのためにますます解消できない「不安」を偽装しようと、“子どもの為”という大義名分を掲げ、教育という名のハラスメントを子どもたちに行なってしまう。子どもたちは子どもたちで、「安心」を得るために、親からのハラスメントを甘受してしまうことになる。

  *******

『「学力と階層」解説』に最初において指摘される、日本の教育危機の実相。

「自分探し」イデオロギーを深く内面化した子どもが社会階層下位に集中していること。
階層下位の子どもたちほど学習機会を放棄する自分に自尊感情を抱いていること。

苅谷剛彦さんが導き出したというこれらの事実と、「不安」による学習意欲の駆り立てあるいは阻害の理論は、よく整合するように思う。と同時に、「不安」と「安心」のアンバランスによって学習意欲を阻害されている子どもたちに大人が差し伸べなければならない、「努力することへの動機づけ」の形も見えてくる。

それは「君子」への〈学習〉だが、それこそが今の日本の大人たちにもっとも欠けたもの。また、それゆえにこそ今の日本の惨状がある。ゆえにまず、大人がそこを自覚することから始めなければならないのだが。


コメント

「君子」とはどんな人なの?自分は一般的な儒教感に懐疑的なんだけさ。

君子とは

Screamcatさん、わがブログへようこそ。

私も、世間一般に敷延している儒教観には違和感を憶えています。なので「君子」といっても、以前はピンと来なかったんですが。

旧友が遠方から突然訪ねてきてくれた時のような学習の悦びを知り、なおかつ、その悦びを知らない人を、ありのままに受け入れることが出来る人を君子と呼ぶ。『生きるための論語』の解釈を少しだけ変えただけですけど。

心を波立たせない。ありのまま、というのは案外難しいと思います。これは謙虚ということでしょうが、そうあるべきと思ってもなかなか出来ない。知識を得るとどうしても啓蒙したくなるのが、小人というもの。原発推進派を勉強していないと見下したりしてしまうのは、君子ではないんでしょうね。まして、同じ脱原発派を、隠れ推進派だのなんだのとレッテルを貼って悦ぶことは。

そうそう。孔子の有名な「吾十有五而志于学」の、「六十而耳順」。先入観なく人の言うことをきくことができる。少なくとも、ここらあたりに至らなければ、君子とは言えないのではないでしょうか。

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