愚慫空論

〈ファンタジー〉を鍛えるということ。『のだめカンタービレ』

たとえばアニメなどというものは、もとよりファンタジーだ。そのファンタジーを〈ファンタジー〉と受けとめるか、【ファンタジー】だとして切り離してしまうかは、それぞれの受け手の“構え”の問題。

この“構え”こそ、私は「愛」と呼ばれるものだと思っている。愛するということ

 愛とは、特定の人間にたいする関係ではない。愛の一つの「対象」にたいしていではなく、世界全体にたいして人がどう関わるかを決定する態度性格方向性のことである。もし一人の他人だけしか愛さず、他の同胞には無関心だとしたら、それは愛ではなく、共生的愛着、あるいは自己中心主義が拡大されたものにすぎない。
 ところがほとんどの人は、愛を成り立たせるのは対象であって能力ではないと思い込んでいる。それどころか、誰もが、「愛する」人以外は誰も愛さないことが愛の強さの証拠だとさえ信じている。これは、私たちが先に述べたのと同じ誤りである。つまり、愛が活動であり、魂の力であるということを理解していないために、正しい対象を見つけさえすれば、後はひとりでにうまくゆくと信じているのだ。
 この態度はちょうど、絵を描きたいと思っているくせに、絵を描く技術を習おうともせず、正しい対象が見つかるまで待っていればいいのだ、ひとたび見つかればみごとに描いてやる、と言い張るようなものだ。一人の人をほんとうに愛するとは、すべての人を愛することであり、世界を愛し、生命を愛することである。誰かに「あなたを愛している」ということができるなら、「あなたを通して、すべての人を、世界を、私自身を愛している」と言えるはずだ。


エーリッヒ・フロムの古典的名著『愛するということ』より。fantasticな文章だと思うが、さて、それは以下のどの意味においてだろうか?

fantasticの意味
  1 とてもすばらしい, すてきな, すごい.
  2 途方もなく大きい[多い].
  3 〈事・物が〉空想的な, 奇想天外な, 現実離れした;
   〈計画などが〉とてつもない;奇妙な;
   〈人・考えなどが〉気まぐれな, とりとめのない.
  4 想像上の;根拠のない  


fantasticの意味は、【大人】的感覚からいえば分裂している。素晴らしいが根拠がなくバカげているのが、fantastic であり、fantasy。それは同時に「愛」というものへの感覚でもある。

上記文章の特に後半など、素晴らしいがバカげていると感覚を呼び起こす典型的なものだろう。

「あなたを愛している」ということができるなら、「あなたを通して、すべての人を、世界を、私自身を愛している」と言えるはずだ。


そう言えたらいいね。でも世の中を、現実を見てみろよ。とてもそんな具合には行かない。それこそまさにファンタジーだ――というような声が聞えてきそうである。

愛とファンタジーは、よく似ている。私の直観では、ファンタジーは愛の前段階。ファンタジーが方向性を持てば、愛になる。私自身にであれ、他人にであれ、全世界に向けてであれ。ファンタジーが溢れ出したものが愛なのだといっていいかもしれない。

  ***

以上を前置きとして、今回は『のだめカンタービレ』という作品の主人公について語ってみる。原作は二ノ宮知子によるクラシック音楽をテーマとした日本の漫画作品。テレビドラマ・テレビアニメ・実写映画などの作品が制作された。私が見たのはアニメである。

主人公「のだめ」を語るには、まず、この動画がいいだろう。


音楽大学でのレッスンの一コマ。ハリセンを持っているのは教師で、その教師を前にのだめはファンタジーを繰り出す。それが『もじゃもじゃ組曲』である(『おなら体操』というのもあるw)。

のだめは優秀なピアノの技術的才能を持っている。音楽についての才能も持っている。だがその才能には「蓋」がされてしまっている。「蓋」をしたのは彼女が幼い頃に受けた【教育】である。

ハリセンを手に大阪弁でしゃべる教師の造形は、【教育】を施す者の姿をカリカチュアだ。彼にとってファンタジーは【ファンタジー】でしかない。だから、呆然とした顔をしている。【音楽】を学ぶはずの学校において、ピアノを弾いて遊んでいる生徒の存在自体が彼にとっては驚きである。【教育者】にとってピアノを弾くことと【音楽を学ぶ】こととはまったく異なるなのだから。

しかし、実は、のだめにとってもファンタジーは【ファンタジー】でしかない。というのも、ファンタジーは彼女の逃避先でしかないから。のだめは自分のファンタジーを活かそうとして、幼稚園教諭(あるいは保母)を志望している。

『のだめカンタービレ』はのだめの葛藤の物語であると同時に、ラブストーリーでもある。のだめは千秋真一という男に恋をする。恋をする者は、恋した相手の願望を自らの願望と見なし、二人の願望が成就することを望む。千秋は指揮者を志望する優秀な青年で、次々に成功を収めていくが、その千秋とコンチェルトで共演することがのだめと千秋の夢になる。

もっとも。その夢へのスタンスは二人の間で決定的に異なる。千秋にとってその夢は、さらなる夢への一歩にすぎないのに対して、のだめにとっては最終ゴール。のだめはその望みを果たして、千秋に寄り添って幸せに暮らすことが出来ればいい。そのゴールを通過しなければ、千秋との幸せはないのだという強迫観念に取り憑かれたキャラクターがのだめという存在が描かれている。あくまでコミカルに。

ちなみに千秋の夢は、一個の独立した音楽家としてののだめとともに〈生きていく〉ことである。この場合、〈生きていく〉ということは〈音楽をする〉ということに他ならない。それが音楽家であるということだ。こちらはかなりシリアスに描かれている。

のだめと千秋のふたりは、それぞれに思い描く未来の姿を異にしながら、それでもそれぞれに成功を手中にしつつ、成長していく。しかし、物語としてはそれで終わらないのが常道。悲劇が待ち構えている。その悲劇は、のだめが思い描いていたコンチェルトを、他の者と実現してしまうという形になって現れる。

  ****

もう少しあらすじを整理してみようか。

当初千秋は、指揮者志望のピアノ科の学生として登場。「優秀な」教師であるハリセンと衝突してのだめと出会うというところからスタートする。そこへ世界的指揮者であるシュトレーゼマンが登場。千秋はシュトレーゼマンの弟子となって、指揮者修行への道に入ることになる。

そのシュトレーゼマンと千秋とが、学園祭においてコンチェルトで共演する(曲目はラフマニノフの2番)。この成功が千秋の出世のきっかけになると同時に、のだめの「夢」になる。つまり、指揮者千秋とピアノ大好きのだめ
の「夢の」共演である。

そんな「夢」を抱えたのだめは、夢を実現するべくピアノを勉強しようと決意する。ハリセン教師についてコンクールを受けるが、落選。夢が破れたと思ったのだめは実家へ帰る。そこへ千秋が迎えに行き、コンクールで審査員をしていたオクレールというパリの音楽学校教師から留学の招待を受けるという幸運もかさなり、パリで千秋とともに音楽の勉強を続けることができるという展開になる。

パリでのだめはまだ学生だが、千秋はプロの指揮者としての道を順調に歩き出していく。のだめもリサイタルを開いたりと順調。のだめはファンタジーを発揮し、聴衆を魅了する。ことにモーツァルト『キラキラ星変奏曲』では、【ピアノ教育】を施されてピアノ嫌いになりかけていた少年たちにピアノの楽しさを教える。

ここにのだめのライバルが登場する。既に名声を確立した女流ピアニスト、ルイ。千秋とのだめはふたりで共演するために、ラベルのピアノ協奏曲を勉強する。ところがその曲を千秋はルイと共演してしまう。その「裏切り」の結果、のだめはシュトレーゼマンとの共演へと走ることになる(ショパンの1番)。

世界的指揮者との突然の共演とその成功は、のだめをスターの座へと押し上げようとするが、のだめは「もうあれ以上のものを弾けない」といって逃亡してしまう。のだめにとって千秋との共演は「最高のもの」でなければならなかったが、その「最高のもの」を別の者と実現してしまった。のだめの【ファンタジー】の限界が露呈し、のだめは行き詰まって逃亡するしかなくなくなった。

パリにおけるのだめのピアノ教師であるオクレールは、のだめを終始「べーべちゃん」と呼ぶ。のだめはファンタジーを誰よりも抱えていながら、それを自分のためにしか使えない“子ども”だからである。そのオクレールが、のだめを世間的・音楽業界的な「成功」に導いたシュトレーゼマンを非難する。

べーべちゃんは、もう少しで本当のピアニストになるところだったのに。本当のピアニストとは〈音楽と生きる〉決意をしたもので、彼女はさまざまな作曲家の〈音楽〉に触れることで少しずつそのことを身につけようといていた。それをシュトレーゼマンが「成功」させてしまったことで、台無しにしてしまった、と。

逃亡から返ったきたのだめを〈音楽と生きる〉ことに踏み出させたのは、子どもたちである。逃亡から返ったのだめは、今度は子どもたちへと逃亡する。かつてのように。『きらきら星変奏曲』で子どもを魅了するが、ちょっとした即興演奏を子どもたちに面白くないと言われてしまう。そこへ「のだめはちゃんと弾くとすごいんですよ」と
ベートーヴェン・ピアノソナタ31番を弾き始める――。

(ベートーヴェンのこの作品こそ、「蓋」が外れることを音楽として表現した作品である。)

  *****

『愛するということ』において、エーリッヒ・フロムは愛を技術だと主張する。だとするならば、ファンタジーもまた技術であり、鍛えることができるといえる。

ファンタジーは自由な魂から生まれる。しかし、自由は鍛えようがない。自由とは解放された状態、抑圧されない状態を指すのであるから、その「状態」を鍛えるというのは論理としては矛盾する。言えるのは自由を目指して「何か」を鍛える、ということだけだ。その「何か」がファンタジーに当たる。

だからファンタジーを【ファンタジー】としてではなく、〈ファンタジー〉として捉えるのは重要なこと。【ファンタジー】では自由を目指すことを放棄することになる。

では〈ファンタジー〉を鍛えるということはどういうことか。これは感性を磨く。修行をする。そのように表現されることなのだと私は思っている。そうすることで〈ファンタジー〉の多様性が増す。多様性が増すと自由な魂を表現する方法が増える。それで魂はますます自由になる。

感性を磨くというのは、制約の意味をするところを知るということ。ファンタジーが自由な世界であるのに対して現実は制約の世界である。ファンタジーを【ファンタジー】として切り離してしまうことは、制約を受け入れてしまって自由な魂に「蓋」をしてしまうこと。だが、自由な〈ファンタジー〉は、自由であるがゆえに相手には届かない。自由とは、逆に言えば孤独である。

孤独から逃げる方法には2つある。ひとつは制約を共有すること。オマエとオレは同期の桜だ、と。同期であり桜であり、桜の先には日本国のために「花と散る」という共有がある。共有する者は孤独から免れる。が、自由ではなくなる。

自由でありながらかつ孤独から解放されるには、相手との回路を切り拓かなければならない。制約を伝達の回路へと変換しなければならない。それには制約の意味するところをよく知らねばならない。制約の意味するところを知悉し、操れることが出来るようになることを“自在”と表現するのだと私は思っている。

音楽家として〈音楽に生きる〉とは、音楽という制約あるいは楽器という制約の中で、その制約を我が物として〈生きる〉ということに他ならない。昔の作曲家の記した楽譜というのもまた制約である。それが我が物として習得することは、技術といっていいだろう。楽器の演奏に習熟することも。それらの技術を身につけるに従って、魂は自由を発露させることが出来るようになっていく。

  ******

のだめは、ビアノという制約については習熟した存在として設定されている。ファンタジーも豊かに抱えていて、そのことが音楽の才能として垣間見られるという設定になっている。しかしそれには「蓋」がされてしまっていて、そのファンタジーを自分のための【ファンタジー】としてしか使えない。そのことがやがてのだめ自身の抱える矛盾となって、のだめを追い込む。『のだめカンタービレ』はそうした物語をコミカルに描いた作品になっている。コミカルであることが逃避の表現となった作品になっている。

その物語から浮かび上がってくるのが、自由な魂は、自由なだけは自由ではいられないという真実。不条理と形容してもいいかもしれないが、同時にその不条理を我が物にする「術」があるということも示唆されている。ただ残念ながら、明瞭に示されているとは言いがたいが。

が、それは『のだめカンタービレ』という作品の責任ではない。そういう「術」はたぶん誰にも明示できない。明示できないからファンタジーになる。

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/730-a8479b26

 | HOME | 

 
プロフィール

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード