愚慫空論

【穢れ】を見据えて人を憎まず

ここ幾つかのエントリーで【穢れ】をテーマに集中的に書いてきたが、いったんここらで区切りをつけたいと思う。

まず言い訳を申し述べなければならないが、ここ幾つかのエントリーで私が使っていた【穢れ】という言葉は、【穢れ】という言葉自体は新しいものではないけれども、その言葉に含まれる意味合いは、私自身、かなり自由に解釈して使っていた。ここらはいろいろと誤解を招く点もあったと思う。

途中で他の言葉に置き換えることが出来ないかと考えないでもなかった。例えば「心の負債」とか。何か罪を為したり為されたり、そういうときに人の心の中に生ずる傷とか重石とか、正確に言い当てることは難しいけれども、そういったものを「心の負債」と呼んではどうか、一時は思案した。


けれども、これは次の2つの理由で退けた。

その1は、「心の負債」とするとなると、それはその人の感じ方次第になってしまうという点である。今流行の言葉である「鈍感力」に優れた人である場合、どのような罪を為そうとも「心の負債」は生じない可能性がある。しかしこれを【穢れ】とするならば、「鈍感力」とは【穢れ】によって穢されて感受性が鈍くなった状態とすることができ、こちらの方が合理的(?)に説明できると考えたのである。

またその2は、【穢れ】という言葉の持つ身体性である。【穢れ】はもともと日本古来の信仰である神道から概念だけれども、神道でも厳密に言うと、【穢れ】と【罪】は区別されていて、その二つをあわせて「罪穢れ」という言い方をすることもある。すなわち【穢れ】とは自然に発生するもの、【罪】は人為的に発生するもの、と考えている。
しかしながら、『ご先祖様』で示したような自然循環の世界観のなかで生きている人たちにとっては、自然発生と人為的発生の区別がかなり曖昧だ。自然のなかで暮らしていくということそのものは、人為であるけれども自然でもあり、そうして暮らしていくことが【穢れ】にまみれるということなのである。

(ユダヤ教やキリスト教では“人間は原罪を背負っている”という考え方をするけれども、暮らしていくことが【穢れ】にまみれていくという感覚は、ひょっとしたら、それに近いものなのかもしれない。)


私の基本的な人間観は、人間性善説である。胎生動物であるヒトは「個の意識」よりも先に「家族の意識」をもち、「家族の意識」の方がより基本的な人間の心性であると考えているから、人間は素直に育てば、その性格は善性であると思っている。

そうした善性を妨げるのが【穢れ】だ。【穢れ】が身体性を持つということは、人間は生物であるから生理的に汚物を排出するいうことが、まず第一。不衛生な環境では、人間の心は歪みがちになる。自然は【穢れ】を浄化する(汚物を分解する)が、人口密度が高くなると自然浄化が発生する【穢れ】に追いつかなくなる。そうなると必然的に【穢れ】の密度が濃くなり、【穢れ】が他の【穢れ】(犯罪など)を呼ぶことになる。


もし人間の基本的な性格が悪性だとするならば、「罪を憎んで人を憎まず」という言葉は、意味のない戯言でしかない。罪は人間の属性であり、ゆえに罪だけを人間から切り離すことはできない。罪よりもまず人を憎むしかない。
また殺された被害者も悪性であることになり、本格的な悪性を発揮する前にこの世を去ったということは、ある意味、喜ばしいことであったということにすら、なりかねない。しかし、残された遺族がかけがえのない者の死を“喜ばしいこと”だなどと思うはずがない。少なくとも遺族は被害者を善性と考えているのである。

ある事件があって、被害者と加害者が出る。被害者は善であって加害者は悪である。被害者は生まれながらにして善で、被害に遭うときまで善であった。では、加害者は生まれたときから悪であったのか? そう考えたい気持ちは分からなくはないが、私はその立場には賛同できない。

加害者も生まれたときには善であった。成長の過程でその善が歪められた。歪めたのが【穢れ】である。人口密度が高く人と人とが争うことが多い社会では、どうしても【穢れ】密度が高くなる。純真な子どもがそういう社会の中で暮らしていて、【穢れ】にまみれることが少なくて済んだのなら、それは幸運である。だが、不幸にも【穢れ】にまみれてしまったからといって、誰がその不幸を責めることが出来ようか? 


【穢れ】という言葉は、確かに曖昧なものであると思う。しかし曖昧ではありながらも、ここには幾ばくかの真実はあると、私は思う。人間の基本的な性格を善であると考えるなら、その善を歪める【穢れ】――と呼ぼうが、どう呼ぼうが構わないが――を見据えることは大切なことだと思う。

コメント

こちらでは、はじめまして。

時折ですが、興味深く拝読させて頂いております。
なるほど、と感心させられるお話が多いです。

さて、殺人と穢れのお話についてですが、これに関しては私は違うと思います。
と申しますのは単純な理由で、殺人=穢れをもたらすと考えるならば「人身供犠」が各時代のさまざまな文化において発生した理由の説明が付かないからです。例えばアステカ文明の高度な数学や建築学を見れば、人身供犠が洗練された文化とともにあったことが理解できます。野蛮・未開といった言葉で片付けられるものではない。そして、たとえそれが儀式であれ、殺人が穢れであるなら人身供犠は即ち神への冒涜になってしまいます。

それと、家族の意識と性善説の問題。
爬虫類・鳥類・哺乳類の中で、同族殺しが確認されているのは家族性を持つ種類のものだけではないでしょうか(爬虫類では社会性を有し親が幼体を保護するクロコダイル、哺乳類では群れと群れの間で凄惨な殺し合いをするチンパンジーなど)。
むしろ、同族殺しは社会性・家族性と緊密な関係があるのではないかと推測します。もしかしたら、蟻や蜂のような「真社会性」の生物に及ばぬ不完全な社会性が、同族殺しと相関関係があるのかも知れません。

人間にとって殺人は元々善悪を超越したところにあるもの。それは社会が規定するもの。社会の規定が性善説・性悪説という概念を生み出しただけで、人間の本性は善でも悪でもないというのが私の考えです。

sidewinderさん

sidewinderさん、ようこそ。コメントありがとうございます。

>人間の本性は善でも悪でもない
はい。客観的(?)に見れば、そうだと思います。私の人間性善説というのは、はっきり言ってしまえば「そうであって欲しい」という願望です。
その上で敢えて言うならば、ヒトを含めた生物にとっての善とは種の生存のための戦略とでもいいましょうか。しかしヒトは、その善から踏み外しているようにも見える。そう見えることを人間の本性とは考えたくない。というわけで性善説なのです。

>殺人=穢れをもたらすと考えるならば「人身供犠」が各時代のさまざまな文化において発生した理由の説明が付かないから

この指摘はごもっともです。私の考えはそこまでは至っておりませんでした。
この点を含めて、今一度【穢れ】については考え直してみます。「人身供犠」はアミニズムの重要な要素で、【穢れ】はそのアミニズムの中から出てくるものだろうと考えていたのですが...。

鋭いご指摘ありがとうございます。またお越しいただいて、コメント残していってくださいね。

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