愚慫空論

〈ことば〉と〈ファンタジー〉

ファンタジーについて、引き続き書いてみたくなったので。

私の考えでは、「ことば」には〈ことば〉と【ことば】がある。同様に、ファンタジーにも〈ファンタジー〉と【ファンタジー】とがあることになる。

私は〈 〉と【 】の表記を多用する。使い始めたのはこのあたりから。「良心」と【良心】とを区別したのが始まり。それから【 】の対比として〈 〉の表記を用いるようになった。

〈 〉と【 】を区別する具体的な定義はまだ考えていない。漠然としたイメージがあるだけ。

  〈 〉 ← 開いたイメージ
  【 】 ← 閉じたイメージ

という単純なもの。開いていれば繋がるし、閉じていれば切断する。

その伝でいくと、〈ファンタジー〉および【ファンタジー】のイメージを語るとどうなるか。先の藤浩志さんの記事で、私はこのように書いた。

>> ファンタジーの世界を自由な世界というならば、現実の世界は制約の世界である。現実はファンタジーのようには行かない。だから多くの人間、いや、大人は、ファンタジーと現実とを切り分けてしまって、それで納得してしまう。けれども、思い出していただきたいが、私たちが少年少女であった頃は、私たちもファンタジーと現実の世界の両方に跨がって生きていたのである。<<

この文章を〈ファンタジー〉【ファンタジー】を使って書きなおすなら、

>> ファンタジーの世界を自由な世界というならば、現実の世界は制約の世界である。現実は【ファンタジー】のようには行かない。だから多くの人間、いや、大人は、【ファンタジー】と現実とを切り分けてしまって、それで納得してしまう。けれども、思い出していただきたいが、私たちが少年少女であった頃は、私たちも〈ファンタジー〉と現実の世界の両方に跨がって生きていたのである。<<

現実と切断されているのが【ファンタジー】。現実と繋がっているのが〈ファンタジー〉。【ファンタジー】は妄想であるが、〈ファンタジー〉は希望である。同じ「ファンタジー」でも、現実からの逃避に使うのなら妄想になるが、それを現実を生きるための糧とするなら希望になる。

  ***

それが〈ことば〉と、どう関係するのか。それが当文章の主題だが、そこをつなぐ鍵が“子ども時代”。そして、「センス・オブ・ワンダー」。

 センス・オブ・ワンダーとは、レイチェル自身の言葉によると「神秘さや不思議さに目を見はる感性」のことをいう。
 この感性は、これもレイチェルの説明によると、やがて大人になると決まって到来する倦怠と幻滅、あるいは自然の源泉からの乖離や繰り返しにすぎない人工的快感に対する、つねに変わらぬ解毒剤になってくれるものである。
 そのセンス・オブ・ワンダーをもつことを、レイチェルはどうしても子供たちに、また子供たちをもつ親たちに知らせたかった。なぜなら『沈黙の春』執筆中に癌の宣告をうけたレイチェルは、自分の時間がなくなってしまう前に、なんとしても自分が生涯を賭けて感じた「かけがえのないもの」を次世代にのこしておきたかったからだった。その「かけがえのないもの」がセンス・オブ・ワンダーだったのである。



  ****

“子ども時代”とは“自由な魂の時代”と言い換えてもいいだろう。自由な魂と〈ことば〉とは深い関係にある。子どもはどんどん〈私〉を膨らませて成長するが、それは〈ことば〉が増殖し、つながることである。せわしく明滅する有機交流電灯が、その数を増やしていくのが“子ども時代”。

「ことば」は言霊(ことだま)でもある。生まれたばかりの赤ん坊はインターフェイスなしの剥き出しの魂の状態だが、成長するにつれてインターフェイスを発達させ、そのなかを霊で満たす。

 ⇒ 魂に「蓋」をするもの その2

〈霊〉や〈ことば〉は開かれている。「蓋」をされていない、抑圧から免れている自由な魂は、〈霊〉あるいは〈ことば〉で満たされた開かれたインターフェイスで蔽われている。その開かれ方は自由である。現実世界にも、現実ではない想像の世界にも開かれている。未体験のことが多い子どもが、初めて出会った体験ばかりでなく繰り返し出会う体験の中にも神秘や不思議を感じるのは、インターフェイスが開かれていて魂と繋がるからだ。

五感に感知された感覚は複合されて「ことば」になる。「ことば」は魂と繋がることで〈ことば〉になり、〈私〉の一部になる。新たに出会った神秘や不思議を魂経由で別の〈ことば〉へと接続させれば、それはファンタジーだ。ファンタジーとは魂が紡ぎ出すインターフェイスのなかの物語であり、開かれた自由な魂においては、現実世界と繋がってゆく〈希望〉となる。

  *****

“子ども時代”は、子どもだけのものではない。肉体的に成長し年齢を重ねて、社会的には大人と認知されるようになっても“子ども時代”を生きることは可能。そうした〈大人〉が存在するということは前の記事で記した通り。制約の多い現実世界の中で、制約を逆に自由の糧として自在に生きることができる〈大人〉である。

コメント

ファンタジーの切断

シェターニという呪術彫刻で知られる、タンザニアのマコンデ族などは、成人になってもファンタジーと現実世界がリンクしていますね。共同体の生活様式がファンタジーを許容していると考えられます。

現代人(現代文明)において<ファンタジー>を【ファンタジー】に変質させる最大の要因となったのが、TVだと私は考えています。TVはそれまでに全く無かった、映画ともまた本質的に異なる強力な仮想現実を強いる力を持っていたと思います。

以前にも書きましたが私は田舎の出で、そこには人間の手が大なり小なり入ったものとはいえある程度の自然は残っていました。言葉と自然(私の場合は昆虫・小動物)は、それが生息する環境とセットでつながっていたと言えます。
タイコウチ/マツモムシ/ミズスマシ/モノアラガイ/ジグモ/コガネグモ/ナナフシ/アリジゴク/ジンガサハムシ/イモリ/サワガニ……このような生物がどこでどのような生活史を送っているのか、大まかに把握し、その場所で自由に捕まえることも出来ました。それはあくまで私にとって「現実」に他なりませんでしたが、生活史の不可視の部分が<ファンタジー>だったと言えるでしょうね。

一方、自分の中でそれと並列して、それを凌駕する勢いで力を揮っていたのがTVです。
4~5歳というと、言語によって世界が分節化されると同時に、脳が大きな器質的変化を経る時期だそうですが、この時期よりも前から私はTVの洗礼をもろに受けていました。自分では全く覚えていませんが、親が言うには私は様々なドラマの長々とした冒頭のナレーションを記憶し、自在に諳んじていたそうです。

少なくとも4歳くらいの時期には、私はTV番組というものが現実ではないということがはっきり理解できていました。それをどう表現すべきかは知りませんでしたが、「虚構」であると感覚で知っていた。
しかし、同時にそれが昆虫のような現実と拮抗する力、幻影を強いる力を持っていることも感じていた。
虚構から恐怖や悲しみ、笑いだけでなく、抽象的な観念を受け取っていました。
「霊魂」「呪い」「復讐」「模造(複製)」……例えばこういった概念を視覚的な情報と共に私が得たのは、全てTVからです。でもそれらは全て、TVの中の虚構です。現実から切断されていましたね。

話が少しずれますが、私の父親は口では無神論者、霊魂否在論者であると自負していますが、実際はかなり神秘主義的な人間で、幼い頃墓地でしばしば人魂を見たとか、夜葬儀をあげている家の玄関からサッカーボールくらいの人魂がぽーんと飛び出してパッと消えるのを見たとか、時折ぽつっと語ることがありました。
父はそれを「怪談ネタ」として話したわけではありません。「昔は南側の山には清水が湧いていてモウセンゴケがびっしり群生していたよ」とか「オオクワガタなんて山で幾らでも採れたよ」という話と同じ、過去の風物詩です。不思議でも何でもなかったんでしょうね。

私は人魂は見たことがありません。他のものは……まあ措きます。語っても意味がないと感じるので。
<ファンタジー>というものが現実と他界を繋げるものだとすれば、父はまだそれと繋がっていたことがあるのかもしれません。
私のはほとんど【ファンタジー】です。子供の頃から電気信号によって作られた仮想現実に侵食され尽くしていますからね。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/729-c35d224b

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード