愚慫空論

【ことば】は〈私〉を抑圧する (8)

前回からの続き。姪っ子への「授業」の話。

私は姪の前で白紙の上に日本地図と世界地図を描いて見せた。

日本地図だと、まず北海道の菱形を描く。菱形の上の角は宗谷岬。右に角は上下二つに分かれていて、上の角が知床。下の角は納沙布。納沙布から左下へ進んでいって、北海道の下の角は襟裳岬。さらに進めると、北海道の左は菱形にはなっていなくて、渡島半島という足が出ている。足の土踏まずのところに函館。

津軽海峡を挟んで、北海道の下。右が大きな下北半島。左は小さな津軽半島。その付け根に青森。右からいって、海岸線は太平洋に向かって少し膨らみつつ何か。岩手県で、リアス式海岸の三陸で、途中に宮古や釜石があって、牡鹿半島のトンガリに至ると宮城になって、少し窪むと仙台に至る。何かを続けるとまた太平洋に向かって少し膨らんで、福島。バクハツした原子力発電所はこのあたりかな...

...と、こんな感じ。ここで続けるのは長くなるので切り上げるが、このような具合で大雑把な日本地図を描いてみた。世界地図も、同じような感じ。

姪は、なぜそんなに憶えているのかと尋ねてくる。そう尋ねられても、困る。出てくるのは出てくるとしか答えようがない。
(ただし、そうした出力はところどころ欠落がある。例えば、実は私は「納沙布岬」の名が出てこなかった。「根室」は出てきたのだが。また、記憶の網の目が細かいところと粗いところがあったりもする。)

では、姪にはそうした能力はないのか。そんなことはない。

中学2年の姪は、今は夏休みだけれど、ウィークデイは毎日学校へ通っている。徒歩でだいたい30分かかるという。その道程を地図に描いて見せろと言われれば出来るはずだ。実際、できるという。そのときの地図の書き方と私がやって見せた地図の書き方は、同じのはずだ。

ただ違うのは、姪の家から学校までの地図は彼女自身が経験していること。日本地図、ましてや世界地図は、実際に経験したことではない。仮想的に“地図の上を歩く”ことを通じて身につけたもの。そうやって身につけたものだから、今でも残っている。そういった知識を身につけたのはもうかれこれ20年以上もまえのことで、ゆえにところどころに「抜け」はあるけれども、まだ大方は残っている。同じ頃、苦心惨憺して憶えたはずの英単語が見事に抜け落ちていることと比較すると、その差は歴然。私にとって、地図上の地名は〈ことば〉に成っているのに対して、英単語は【ことば】だった。英単語は〈私〉の形成に関連のない、単なる知識だった。

今度は私が姪に尋ねる番だった。地図の上を歩いてみたことはある? “地図の上を歩く”ということがどういったことなのか、わからないという答え。そうだろう。

  ***

“地図の上を歩く”というのがどういったことなのかを説明するのは難しい。わかる者にはわかる。わからない者にはわからない。この差は単にわかるわからないだけの差ではない。胸が踊るか踊らないかの差でもある。“地図の上を歩く”ことを識っている者は、そのことを思い出すときに胸が踊る。これは「子ども」の得意技だ。

子どもは空想が大好きだ。たとえば人形遊び。人形の中に〈私〉を没入させて、人形になったつもりなって、そこからさらに空想を羽ばたかせる。人形が飛行機や車のオモチャでもいい。道ばたから拾ってきた石ころでもいい。とにかくなんであろうと、そこの〈私〉を投入して、ファンタジーを繰り広げる。そんな能力が子どもにはある。

“地図の上を歩く”というのも、そうした空想の延長線上にあるものだ。たとえば北海道のオホーツク海沿岸、宗谷岬から知床半島までを歩く。歩き始めるとすぐ「クッチャロ湖」という名前に出会う。変な名前におかしくなって空想が始まる。怪獣でも済んでいるのか?(そういえば、クッシーというUMAがいるという噂があった)。進むとこんどは「紋別」。これも変な名前。さらに「サロマ湖」。お、これはなんだかカッコイイ。「網走」。刑務所だ! マンガで読んだことがあるぞ。「知床」。きれいなところなんだよね。唄で聞いたことがある...

こんな具合に、時にすでに知っている〈ことば〉とつながり、時にちょっとしたきっかけから空想に入る。そんなようなことをしながら、仮想的に歩く。そんななかで「憧れ」が生まれてきたりすることもある。この海岸には冬になると流氷がやってくる、なんてことを後に学習すると、“歩いた”経験があれば、さらにファンタジーは膨らむ。

  ****

そういう子どもに、「紋別」や「網走」といったような地名を【ことば】として暗記させるのは、「子ども時代」を奪う行為になるだろう。“地図の上を歩く”というような芸当は、子どもなら誰もがするというものではない。それそれの個性や出会いによって、好んだり関心を持たなかったりする。

学校で施される教育とは、個性や偶然を塗りつぶそうとする行為である。「紋別」や「網走」を【ことば】として憶えなさい、というのはそういうことだ。子どもにとって、それがファンタジーを含んだ〈ことば〉であろうと、単に暗記しただけの【ことば】であろうと、ペーパーテストの点数という“その場限り”の評価に、その差は現われることはない。

いや。“その場限り”という表現は誤りだ。その時の「点数」が後々の子どもたちの人生に響いてくる。そのことを子どもたち自身も知っている。その意味において、“その場かぎり”ではない。ただし、これはあくまでも「点数」であって、そのことも子どもたちは知っている。

が、ペーパーテストで「点数」を稼ぐという行為は、間違いなく“その場限り”である。だからこそ〈ことば〉と【ことば】の差異が反映されない。そのことばが〈私〉を形作るものなのか否かの差は、「点数」には現われない。なのに、その「点数」が大人からの評価になり、子どもを規定していく。これは「子ども時代」の抑圧であり、ハラスメントだろう。

  *****

姪は中学2年生だが、未だにファンタジーが大好きなようである。ただ、やはり、小学生の頃と比べると、得意ではなくなってきた。彼女自身がそう言った。地図を憶える方法だけではない。先の記事であげた文章問題を解く方法もそう。〈自分〉を入れる。そういうのは、小学生の頃の方が得意だったという。

これは由々しきことだと思う。もちろん、ファンタジーだけではいけない。大人になるということは、ファンタジーだけでは生きていくことができないということを識ることだ。だが、大人になることと引き替えに、子どもの得意技であるファンタジーを失うのでは、成長の意味がない。そういった「引き替え」を教育が強要しているのだと私は思っている。

  ******

では、具体的にどうすればいいのか? ファンタジーを失わず大人になっていく方法。すぐに見つかるわけもないのだが、続けて考えてみたい。

コメント

ちなみに

この姪っ子は、私のアニメ友達。会うとアニメについて語り合う。ファンタジーな間柄w

地図フェチ

こんにちは。
私も地図帳好きでしたねぇ。
地名を辿ったり、道を辿ったり…いくらでも、眺めていられました。
中3の長男はあまり興味が無いようです。
今でも家族旅行などの計画は総て私がやっています。
その代わり、いつも私の好きな旅程が組めますけど(^_^;)

時刻表マニア

私も地図が大好きな子どもでした。そんで、中学生のころは時刻表マニア。旅行の計画ばかり立てていました。

時刻表をみて、特急●●に乗ろうとか、そんな空想が大好きでしたね。一番つまらなかったのはなぜか新幹線で、これに乗る計画は極力避けていました。お気に入りは寝台急行『銀河』だったんですが、もうなくなりましたねぇ。

今は新幹線だらけだから、たぶん今だったら時刻表マニアにはならなかったでしょう。リニアなど出来た日には。

そうそう。アニメ友達の姪とは、こんど、架空「聖地巡礼」をしてみようと考えています。

ブルトレブーム

そういえば、私らが中学の頃って、ブルートレインが流行ってましたよね?
「さくら」とか「はやぶさ」、乗りたかったなぁ~。
それでも寝台列車は大人になってから、「日本海」で青森まで行きましたよ。目的地は富良野でしたが。

仮想聖地巡礼ですか。いいですね。
私も昔、大林監督の尾道シリーズが好きで、尾道も竹原も行きましたね。
最近はストリートビューもおもしろいですね。ちょっといった気になれる。

姪御さん、可愛いですね。
年頃の女の子は距離感がむつかしいですけどね。(^O^)/

改めて、時刻表マニアw

ブルトレの話題は出てくると思っていました~ (^o^)

でも、実は私、あまりブルトレとかに興味はなかったんです。あくまで時刻表マニアであって、鉄道マニアではなかったんです。計画を立てるのが好みで、それを実行に移すことは考えていなかった。ちょっと変でしょう? 

新幹線が嫌いだったのは、ブルトレが好きだからではなかった。『銀河』を好んだのは、新幹線が嫌いだったからで、その逆ではなかったんですね。では、なぜ新幹線が嫌いだったのか。それは、多様性が失われるからです。

当時新幹線はまだ東京~博多間だけの営業でしたけれど、それでも既にダイヤは新幹線中心に組まれていたんですね。北海道に行く計画を立てるにしても、新幹線利用が推奨されていて、時刻表巻頭に早見表が組まれていた。私はこれが大変、嫌いだった。

利便性を追求するならば、それは便利でしょう。でも、そんなところに〈ファンタジー〉などなにもありません。時刻表マニアとしては、そんなの詰まらないじゃないですか。

実験材料ですw

もうひとつ、返信。

姪っ子、可愛いですよ。でも、それが問題だった。可愛いから“勉強を見る”つもりはなかったんです。はじめは。

ちょっと屈折しているようですが、これは私の偽らざる気持ち。「勉強する」というのは、安冨流の表現でいえば「幸福の偽装工作」の手管を身につけるということ。当人が楽しんで勉強できるのならいい。けれど、残念ながらそうではないみたい。なのに、将来のためと称して学校の成績を上げることに手を貸すのは、どうも「幸福の偽装工作」に手を貸すみたいで。可愛いから、幸福になってもらいたいから、“勉強を見る”つもりはなかった。

それで、“勉強のやり方”ならばといって、話をしてみたんです。

ところが話をしてみると、もしかしたら、偽装工作ではない幸福になるための知識の使い方を教えられるかもしれないと思ってしまった。それで、できるかどうか実験してみることにして、お母さん(義妹)に申し出てみたんです。私の実験材料に姪を貸してくれ、と。(^_^;)

そんなわけで、距離感とか難しいことは考えないことにしています。実験と言ったって、キチンと向き合わなければよい結果は得られない。まして相手は生身の人間ですから。余計なことは考えない。

あ、実験はこれからの話です。

鉄っちゃんに非ず。

なんか、愚樵さんとじっくりやり取りするのも久しぶりなので、楽しくなってきました。
私は子どもの頃から帰省は新幹線だったので、あまり特別に考えたことなかったですね。でもまぁ、今でも時間に制約が無ければ、新幹線なんかつまんないから乗らないで済む方が良いのですが…^^;
愚樵さんほど時刻表にこだわりなかったですが、地図フェチとしては巻頭の路線図には目を奪われましたね。
こんなとこに線路があって列車が走ってるんだ、と想像するだけで楽しかったですね。

ところで、愚樵さんが家庭教師なんて、ちょっと違和感だったんですが、なるほどそーゆーことでしたか。(^O^)
僕は娘はいないのですが、立場上10代前半の女の子と関わる機会が多く、いろいろな想いもあったのでチョット突っ込んでみました。(^_^;)
最近はだいぶ慣れましたけどね。

じゃあ、デモ参加に戻りま~す。

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「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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