愚慫空論

【ことば】は〈私〉を抑圧する (7)

前回の続きを書くつもりだったけれど、止めることにした。いろいろ考えては見たけど、どうも上手く書けない。たぶん、藤浩志さんのことを調べて勉強してしまったからだろう。純粋に「講義」で感じたことだけを綴ればよかったのだが、余分な知識を仕入れてしまったために混乱してまとまらなくなってしまった。

というわけで、とりあえず続きを書くことは放棄。気が向いたら書くかもしれない。

  ***

というわけで前々回の続きだが、また記事のタイトルを変更した。通し番号は継続。

 〈私〉とは複合感覚である
 〈ことば〉が〈私〉を形作っている
 【ことば】は〈私〉を抑圧する

この3つのセンテンスは私のなかでは同じ意味を為しているのだが、若干説明が必要か。

「ことば」には〈ことば〉と【ことば】とがある。〈ことば〉は〈私〉を形成しているもの、〈私〉のなかで縦横無尽に繋がって、ある〈ことば〉を引き出せば、芋づる式にずるずると別の〈ことば〉も感覚的に連なってくるような、そんな「ことば」。対して【ことば】は単なる記号。連ならない、中に浮いた「ことば」。

  ****

また話はがらっと変わって。

先日、中学2年生の姪の“勉強をみる”機会があった。以前から、勉強ではなく“勉強のやり方”について話をしてあげるよ、などと言っていたのだけど、そういう機会が実現したというわけだ。そうはいっても、あちらは具体的に“勉強をみて”もらうつもりだったようで、まあ、そういう期待は当然ではあるだろう。彼女やその親にとって、気になるのは数字で表わされる「学校の成績」だろうから。

私は「勉強のイメージ」を話するつもりで、実際その話をしたのだけど、取っかかりとして夏休みの宿題として出されている学習ドリルの出題を一緒に解いてみることにした。大抵の子どもが苦手としていて、姪もその例外ではない数学の応用問題。一次連立方程式の文章題というやつ。

まずはこんな出題。

50円の切手と80円の切手がある。合計枚数が15枚。合計金額が960円になるときの、50円切手、80円切手のそれぞれの枚数を求めよ。


文章題の初歩の初歩。ここらは難なくクリア。ところが

列車が走っている。列車が650mの鉄橋を渡り始めて渡り終わるのにかかった時間が25秒。750mのトンネルに入り終わって出始めるまでの時間が30秒。列車の長さと速度を求めよ。


となると、もう躓いてしまう。文章をうまく方程式に置き換えることが出来ない。

  *****

姪と話をしていて気がついたことがある。それは一生懸命、【ことば】を操作をしようとしている、ということ。

前の出題は、〈ことば〉から【ことば】への置き換えは単純である。50円切手の枚数をx、80円切手の枚数をyと置けば、すぐに連立方程式になる。後の出題でも、列車の長さと速度をそれぞれ代数に置き換えれば良いのだが、文章の通りに連立方程式を組み立てることが出来ない。

といって、彼女が出題文が提示している状況を理解できないかというと、そうではない。自分が列車の運転手になったつもりになって「鉄橋を渡り始めたとき」「鉄橋を渡り終えたとき」「トンネルに入り終えたとき」「トンネルから出始めたとき」の状況、つまりは列車の先頭にいる自分の位置はどうかと尋ねたら、なんの躓きもなく易々と答えることができる。

なのになぜ、連立方程式を組み立てることが出来ないのか。私は尋ねてみた。「650とかいう数字が出てきた瞬間に、数字に囚われていないか?」 姪は、「そうかもしれない」と答えた。

大抵の中学2年生は、連立方程式を解くことができる。前の出題から組み上がる方程式は

 x+y=15
 50x+80y=960

だが、この方程式を彼らは【ことば=記号】を操作して、x=8 y=7 と正解を導き出すことができる。

前の出題の文章は、数学的・記号的な【ことば】操作の方法でそのまま連立方程式を組み立てることが出来た。ところが後の出題は、その感覚では連立方程式は組み上がらない。それとは別の、彼らにすでにインストールされている〈ことば〉の感覚を用いないといけないし、用いれば組み上げることができる。ところが彼らはその感覚を用いずに、どうも【ことば】的感覚で出題を眺めているようなのだ。

【ことば】的操作感覚では、列車の運転手になったつもりにはなれない。姪は、出題を解くに当たって、自分が列車の運転手になるというような想像をしてみることをしなかった。〈ことば〉的感覚においてはそれができるにも関わらず、「蓋」をしてしまっていた。いや、されてしまっていたというべきか。

  ******

【ことば】操作感の基盤を為しているのは「等価」である。たとえば、上の連立方程式を解いて、x、yを求めるという操作をしてみる。

① 上の式を y=15-x に変形。
② ①を下の式に代入。 50x+80(15ーx)=960
③ ②を計算して -30x+1200=960 ⇒ 30x=240 x=8
④ ③の結果を ①に代入して、y=15-8 ⇒ y=8

これらの操作はすべて、記号(【ことば】)が“等価”であることを前提に、「置き換え」をしていくもの。

文章題の前の出題は、この「置き換え」だけで連立方程式が組み上がる。ところが後の出題は【ことば】的「おきかえ」の前に〈ことば〉的な操作が必要なのだが、これは「等価な置き換え」ではない。“自分が列車の運転手になったことを想像する”という行為は、「等価な置き換え」からは生まれてこない。〈ことば〉的想像力は、芋づる式の〈ことば〉感覚からしか生まれてこない。

姪には、後の出題の状況を想像するには十分の〈ことば〉的想像力はすでに備わっていた。ただ、それを発揮するべき場面でないと思い込んでいただけのことのようなのである。だとすれば、その思い込みはどこから生じたのか。そして、思い込んでしまって〈ことば〉的感覚を自ら封印してしまう者(出題を解けない者)とそうでない者(出題を解くことができる者)の違いはどこにあるのか。

  *******

思い込みの原因は、「箱」システム的教育にあるのかもしれない。つまり、数学は数学。国語は国語と、それぞれ「箱」に入れてしまう教育の在り方。国語的理解でいえば、後の出題は中学2年生には何ら問題がないレベルのはず。にもかかわらず、それが数学になってしまった途端に理解できなくなる。理解ができなくなるのではない。理解が封印されるのである。

数学で学習することはいろいろあるが、まず習熟しなければならないのは計算。これはどんな複雑なものであろうと「等価な置き換え」。足し算、引き算、かけ算、割り算。自然数、小数、分数、マイナスの概念、代数と、学習が進むにつれていろいろな要素が加わってくるが、それらの要素は「等価」の在り方のバリエーションが増えるというだけのことであって、だからこそ計算が可能。不等式という学習もするが、それとても「不等」という“等価”のバリエーションが増えるだけのことだ。

(【ことば】的「等価な置き換え」操作を「形式論理」というのではないのか? 〈ことば〉的想像を「弁証法」というのではないのか?)

数学の学習では、計算問題を基本とし、文章問題を応用と位置づけている。ここには計算問題は簡単で、文章問題は難しいという暗黙の前提が盛り込まれているが、果たして本当にそうなのか。確かに、テストをすればと基本とされている方の得点率は高く、応用とされいる方が低い。この事実からは基本⇒易/応用⇒難という「事実」が容易に推測されてしまうけれども、教える側のそうした「推測」こそが、教わる側の初歩的な〈ことば〉的想像力に「蓋」をしてしまうことになっていて、それが結果として現われて、基本⇒易/応用⇒難ということなっているのではあるまいか。

  ********

基本⇒易/応用⇒難ということについての、私自身の感覚の話。私もつい最近まで、基本⇒易/応用⇒難と思っていた。おそらくは思い込んでいた。私自身が中学生の時、基本問題は苦手で応用問題は得意だった。正答率でいえば基本問題は低く、応用問題の方が高かった。

私自身の正答率ということでいうなれば、私にとって難しいのは基本問題の方で、応用問題はむしろ簡単なのだと言わなければならなかったはずだ。にもかかわらず、私自身も基本⇒易/応用⇒難だと、ろくに考えもせずに思い込んでいた。

けれど、よくよく自分自身の感覚をモニターしてみれば、応用問題の方が楽である。計算問題を解くのに必要な【ことば】的「等価な置き換え」操作は、それを為すのはとても不自然な感じがする。自分の身体に見合わない不自然な動作を強いられているような感がある。だから苦であり、よく間違う。対して応用問題の方は、〈ことば〉的想像力を用いればよくて楽。身体的にごく自然な動作をしている感触。なので間違うことはまず、ない。勘違いはあったとしても。

これまで、家庭教師などで応用問題を苦手とする者の勉強を見た経験はあるけれども、その際にも、基本⇒易/応用⇒難の前提で向き合っていた。応用問題を解くことができない者は、能力が不足しているのだと考えていた。しかし、そうした態度では、しっかりと相手に向き合うことができていなかったのかもしれない。相手は苦しいやり方で苦労しているのに、それは見過ごして、自分は楽なやり方をやっていたのかもしれない。教える立場でありながら楽な方法は教えず、自分の能力を誇示してみせるようなことをしていたのかもしれない。

そう思って思い返してみれば、微妙な「教える」という行為に微妙な違和感を抱き続けていたことを思い出す。正解を求めて、相手を誘導するという感じ。誘導できると達成感があるが、相手の手を放すとまた迷ってしまい、問題を解くことが出来ない。このときの落胆。違和感。目隠しをした者でも手を引けば誘導できるが、放せばまた迷うのは道理だ。相手は目が見えないのではない。目隠しをされてしまっているだけ。手を引くのではなく、目隠しを外すべきだったのではなかったか。

  ********

つづく。

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