愚慫空論

自由な魂の、自由な魂による、自由な魂のための 前編

先日、8月4日。

 (講義)【緊急企画】経済学者・安冨歩と観る藤浩志作品
 「藤浩志のどこが凄いのか? ~かえっこ v.s. 東大話法~」


を受講してきた。当記事はその感想文だが、さて、どのように綴ったものか。たった90分ほどの講義だったけれども、とても楽しく、とても面白く、そう簡単に整理ができない。整理をするのがもったいない。私は以前は読書で、ここ半年はそれに加えて動画や講演、コンポジウムといった形で“安冨歩体験”をしてきたが、今回はそのなかでも、もっとも楽しい体験だったと言ってよい。

それはなぜか、と、まずその理由を考えてみた。

「魂の脱植民地化」を唱える安冨理論は、魂そのものは研究できないが、魂を抑圧するものは厳密に検証することができるという立場に立つ。なので勢い、論じるところは「抑圧」になる。それは興味深く刺激的ではあっても、やはり「抑圧」についての話であるから、憂鬱さを伴うことは避けることが出来ない。その典型は、新著『幻影からの脱出』の4章で語られている「世界の発狂」。面白く読むことは出来ても、楽しく読むことはできない。

その点でいえば、アメーバブログの方の『マイケル・ジャクソンの思想』は、M・Jという「自由な魂」の紹介だから、面白くかつ楽しい。で、今回の講義は、「藤浩志」という自由な魂の紹介。それもライブ。面白くかつ楽しいのは道理なのだ。

自由な魂の、自由な魂による、自由な魂のための講義。

細かな点にこだわっておくと、「講義」はレクチャーというよりインタープリテーションというべきものだったと思う。授業というより仲介。私を含め参加者の多くは藤浩志のことを事前にしらなかったので、授業的要素は少なからずあったけれども、中核部分は「仲介」であったと思う。少なくとも私はそのように思ったし、だから楽しいと感じたわけだ。

  ***

では、藤浩志さんは、どのように自由なのか。そこを語るには、まず「不自由」を語らなければならない。自由は自由であるとしかいうことが出来ない性質のものだから。

安冨先生がまずレクチャーしたのは、ネットが発達して以来とみに耳にする「リテラシー」という概念だった。リテラシーの意味するところは、“わかっていないことをわかっている”こと。言い換えると、“枠組みがあることをわかっていること”。

世の中の現象は本来、分割できない連続のもの。しかし、人間の認知とは、本来分割できないはずのものを何らかの形で分割・線引きすることである。この分割は恣意的だが、その恣意こそが「枠組み」になる。

古典芸術は「形式」が前提になっている。形式は「枠組み」だが、それが広く共有されているうちは恣意とはみなされない。現代芸術はその共有に疑問をもつことからスタートする。形式への疑問を恣意的な「枠組み」とし、その「枠組み」を破壊することが芸術行為だとした、恣意的芸術。それが「進化」していくと、共有され破壊されるべき形式はなくなり、恣意的に「枠組み」を見出し破壊すること、恣意から恣意へという自己満足が芸術行為になってしまう。あるいはリテラシーを持っていることを示威するためのデモンストレーションが芸術行為となってしまう。

そうしたものから自由なのが、藤浩志さんなのだという。恣意というのは自らの内にある作為であり、作品を創造する際には欠かせないにも関わらず、その作為をできる限り彫琢しなければならないという厄介なものだが、そこを「OS的表現」という形で棚上げしてしまった。「OS」とはWindowsに代表される、OSである。

だから、藤浩志さんの作品には恣意が感じられない。感じられないということは、作品が鑑賞の対象ではない、ということだ。作品には作家の恣意が込められ、その作為が如何に彫琢されているかが鑑賞され評価の対象になるのだが、そこが棚上げされているために、鑑賞するにもしようがない。従って、藤浩志さんの個々の作品はすごくないし、そもそも作品と呼んでよいのかどうかすら定かでない。

その代わりに引き出されてくるのが、鑑賞者の恣意である。「OS的」の意味するところは、鑑賞する側の恣意のプラットホームになるということ。鑑賞者が藤浩志の作品を見ることで何らかの恣意を感じたら、藤浩志さんの勝ちになる。

例えば、こんな作品。


これを見て、「あ、ちびまる子ちゃんだ。ちびまる子を好きな○○に見せてみたいな。おしゃべりしてみたいな」と思ったら、藤浩志さんの勝ち。

  ****

だからなんなのだ? と思われる方も多かろう。それは確かに自由ではあるだろうけれども、そんな自由のどこが楽しいのか、と。「藤浩志の作品」として見る限り、その疑問は湧き起こる。そんな自由はちっぽけなものでしかないし、なによりそこに魂は感じられない。

彼の作品は「わらしべ長者」のように、老松のぬいぐるみや、鴨川の中の鯉のぼり、ゴジラとハニワの結婚式といった学生時代の作品から始まって、彼自身の人生の転がり具合のなかで、人々との交歓=交換を繰り返し、かえっこしながら、どんどん膨らんでいく感じがします。その行き当たりばったりの、波乗りファンタジーの生み出した、お伽話としての作品の数々を、皆さんと楽しんでみたいと思います。


この文章は上記リンクからのものだが、ここに書かれているように、藤浩志さんの作品は“どんどん膨らんでいく”「藤浩志」という作品の一部であり、作品としての魂は「藤浩志」にある。作品のワンピースが「藤浩志」と繋がり、そのワンピースに何らかの恣意を感じることが「藤浩志」という作品をさらに膨らませることだと理解したとき、感知することができなかった面白さが湧き上がってくる。しかも藤浩志さんの“行き当たりばったり”こそ、「自由な魂」の発露。行き当たったものに対して既成の観念を適用せず、ただ自分の感性に従って膨らませてきた。

そうして膨らませてきた成果の表れのひとつが、これ。


といって、これもまた、だからなんなのだ? だろう。この大量の使い捨ておもちゃが何を意味するのか。

これらはすべてアーティストの藤 浩志さんが考案した、おもちゃを交換するシステム「かえっこ」によって藤さんのもとに集まってきたもの。2000年に始まった「かえっこ」は、子供たちがいらなくなったおもちゃを持ち寄り、子供たち自身がおもちゃの価値(ポイント)を査定して、もらったポイントに応じて好きなおもちゃと交換できる仕組み。13年間で国内外1,000カ所、5,000回以上にわたって開催し、各地域の市民が主導するコミュニティプロジェクトに発展している。


これは画像のリンク先から引用。では、「かえっこ」とは何か。紹介HPページはこちら(アイコンをクリック)。


What's kaekko? かえっこってなに?

かえっこはいらなくなったおもちゃを使って地域に様々な活動を作り出すシステムです。

かえっこでは「カエルポイント」という世界共通の(?)「子ども通貨」(遊びの通貨)を使います。

子どもたちが遊びの中で自主的に、自由な活動を実施し、地域社会に新しい活動が芽生えるといいですね。

かえっこによってそれぞれの地域活動がつながってゆくともっといいですね。


かえっこの参加資格

子どもの心を持った人。

× 大人の価値観を押し付けようとする人に参加資格はありません。


余計に何が面白いのか、わけがわからなくなってしまうかもしれない。

  *****

実はここまでは、かなりイジワルな構成になっている。大人が大人の頭で理解しようとすれば、ますます何が面白いのかさっぱりわけがわからなくなるようにと思いつつ、文章や引用を構成している。というより、そうするほかに上手い方法が見つからない。

「かえっこ」は子どもの心のための場である。私には、まだ子どもの心をほんの少しだけの子どもの心が残っているつもりがあるけれども、残念ながら、その心をそのままに表出できる技法を持ち合わせていない。そうでなくても理屈を並べる私の文章では、子どもの心は表出できない。

できるのは、大人の文章で表出できない子どもの心を想像してもらうことだけ。子どもたちが「かえっこ」を面白いと感じるのは事実であり、その証拠に2000年以来、5000回以上も開催されているという。さらにその証拠が物語るのは、「かえっこ」を面白いと感じる子どもの心を持った大人が少なからず存在すること。いくら面白いといっても子どもにイベントが開催できるはずもなく、大人が面白いと感じなければ5000回以上も継続するはずがない。

とするならば、大人の文章で表出できない子どもの心も、大人が子どもの心を保持しているならば、想像できなくはないはずだ。そして想像がそこへ至ったのなら、

それにしても、なぜこんなにおもちゃが集まるのか。それは藤さんの自問であり、鑑賞者一人ひとりに対して投げかけられる問いでもある。本展では、「かえっこ」の13年を辿ると同時に、「かえる(変える、還る、換える、買える)」をテーマに、膨大なおもちゃを素材としたインスタレーションやワークショップ、サイレント・オークションなどを行う。来場者が実際におもちゃに触れることで、大人も子供も小さな違和感に向き合い、意識や関係をそれぞれに「かえる」きっかけになることを狙う。


という、大人としての狙いも理解できるだろうし、さらには

世の中を根本から変えるには大きなビジョンを打ち出すよりも、小さな活動が連鎖して、つながっていく仕組み、プラットフォームをつくっていかなければ。美術という力でそれを推進していきたい


という藤浩志さんの言葉も理解できよう。この言葉の出所はまぎれもなく健全な「大人の心」だが、その心はまた「子どもの心」を大切にすることに重なっている。これを「自由な魂」と言わずしてなんと言おうか。

  ******

長くなるので、後編へ続くことにする。

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