愚慫空論

〈ことば〉が〈私〉を形作っている (6)

『〈私〉とは複合感覚である』とタイトルして記事を5つ書いてみたが、続きの本記事からはタイトルを変更。

「〈ことば〉が〈私〉を形作っている」の意味するところは、「〈私〉とは複合感覚である」とほぼ同じ。〈ことば〉というのが複合感覚であり、〈私〉とは、複合感覚である〈ことば〉が統合されたものだからである。

わかりにくいかもしれない。書いている私自身も、実はよくわかっていない。

  わたくしといふ現象は
  仮定された有機交流電灯の
  ひとつの青い照明です
   (あらゆる透明な幽霊の複合体)
  風景やみんなといつしよに
  せはしくせはしく明滅しながら
  いかにもたしかにともりつづける
  因果交流電灯のひとつの青い照明です 
   (ひかりはたもち、その電灯は失はれ)


上は宮沢賢治の「春と修羅序」の冒頭部分だが、イメージとしてあるのは、これ。「わたくしという現象」が〈私〉。あらゆる透明な幽霊の複合体。この「幽霊」というのが〈ことば〉であり、その〈ことば〉もまた、せわしく明滅する現象。

人間のもつ五感は五色の電灯。五色の電灯が組み合わさって〈ことば〉というひとつの照明が出来上がる。五色の光が明滅する〈ことば〉。そのような無数の〈ことば〉がさらに組み合わさって〈私〉という照明を形作っている。そんなイメージ。

〈ことば〉に対して、私は【ことば】という表現も用いている。〈ことば〉が明滅する現象であるとすると、【ことば】は確定した存在。いま、私のこの文章を読んでくださっている読者の方の視覚に跳び込んでいるのは【ことば】である。PCモニターに表示されている文字は物理的にいえば現象でしかないはずだが、人間はそれを存在と認識する。が、存在としての【ことば】が、読者の内に入ると、それは〈ことば〉という精神的現象になる。

  ***

話はまたしても、あっちを向いて飛んでいく。



これは藤浩志さんという方の『トイザウルス』という作品なんだそうだ。私は藤浩志というような名前も作品も、つい先日までまったく知らなかった。知ったのは、安冨先生つながりから。

 (講義)【緊急企画】経済学者・安冨歩と観る藤浩志作品
 「藤浩志のどこが凄いのか? ~かえっこ v.s. 東大話法~」


といった催しがあることを知って藤浩志という名をはじめて知り、上の画像をグーグルで検索してきて貼り付けた。

私から見て、『トイザウルス』はよくわからない。作品名と視覚的な形状から、恐竜、それもティラノザウルスを模していることはわかる。けれど、何が面白いのは、さっぱりわからない。

上の画像は、広い意味での【ことば】である。それが私の視覚を経由して私の内に入って〈ことば〉になるわけだが、『トイザウルス』という〈ことば〉に複合してくる感覚が何もないから、〈私〉には統合されない。宙ぶらりんの〈ことば〉として『トイザウルス』はある。そんなものが面白いはずない。

  ****

【緊急企画】のページには藤浩志さんのブログ記事へのリンクが貼られている。

 AIT企画の「環境・術」での「ファンタジー」トーク(Report 藤浩志企画制作室)

これが面白い。といって、私は記事の内容が理解できるわけではない。

イメージの連鎖の話をするうちに、安冨さんが「それはファンタジーですね」と切り込んでくる。

まさか自分の表現をファンタジーと呼ばれるとは・・・。

とっさにその言葉に対して、どちらかといえば拒否反応を抱いたが、よく考えてみるとじわじわと染みてくる。


記事の核心部分は安冨先生が藤浩志さんの作品を「ファンタジー」と呼んだことにあるようなのだが、何がどうファンタジーなのか、その文脈は私にはさっぱり見えない。だから、内容を理解しようとしても、さっぱり面白くない。私が面白いと感じていることと、「ファンタジー」の意味するところとはまったく関連はない。関連できるだけの材料を私は持っていないのだから。

面白いと感じるのは、「ファンタジー」という【ことば】を藤さんが自身の内に取り込んでいって、藤さん自身の〈ことば〉にしていったことを読み取ることができるから。そして、安冨先生は、それを狙い澄まして「ファンタジー」ということばを放ったのだということが、(藤さんの主観を通して)わかるから。

・・・つまり言葉にできなかった物事をそれぞれがそれぞれの経験の中でそれぞれの方法で言語化し、それなりに経験を重ねているので、・・・


それぞれの方法で言語化するということが、【ことば】を〈ことば〉にするということだ。

  *****

学者とは、「ことば」を操ることを生業とする人種だと言っていいだろう。そして、我々の漠然とした学者のイメージでは、学者が操るのは【ことば】である。【ことば】には「箱システム」がよく適合する。
(「箱システム」については、前記事参照。)

安冨先生が操る「ことば」は、〈ことば〉である。だから、一般的な学者のイメージでいると裏切られることになる。学者でありながら「箱(≒専門)」がないと言っていい。当人もそういっておられる。あるのは、安冨歩という〈私〉(≒人格)だけ。

だから「魂の脱植民地化」などといった、一般的な学者のイメージからすると奇妙なことを唱えることになるのだろう。「魂の脱植民地化」とは、平たくいえば、私は〈私〉なのであり、他人や「箱」に囚われる必要ないのだ、ということ(だと思っている)。

  ******

私は、明日行なわれるという上記イベントに行ってみるつもりでいる。予約もした。

抱いている期待は、お気に入りのミュージシャンの新曲を聴きに行くようなもの、といえばいいだろうか。安冨先生はお気に入りのミュージシャン。藤浩志さんのことは私は何も知らないから、新曲である。どんな〈ことば〉を奏でてくれるのか。

ミュージシャン、アーティスト、芸術家。そういった人種は、〈私〉を表現するものと言っていいだろう。安冨先生にとって学者であるということは、マイケル・ジャクソンがミュージシャンであることと同じと言っていいだろうと思う。それが学者であるかミュージシャンであるかの違いだけ。

学者が操るのは〈ことば〉である。ミュージシャンなら音楽になるのだろうが、音楽も広い意味では〈ことば〉になる。〈私〉を構成するパーツという意味での〈ことば〉。

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