愚慫空論

〈私〉とは複合感覚である (5)

健全な感覚に裏打ちされない〈ことば〉の複合によって成り立っている〈私〉。この不十分な〈私〉は、常に判断に迷うために不安に苛まれている――というのが、(4)までの話だった。

そうした不十分な〈私〉は、不安を打ち消すために【ことば】への依存を深めていくことになる。自らの判断を自らの感覚に拠るのではなく、外部に頼る。他人の判断。体系化された知識。自分の判断の不安を打ち消す拠り所を探そうとする。

  ***

話は飛んで、ここで林業の作業の話をしたい。間伐の話。

間伐とは人工林を構成する樹木を間引きする作業。樹木が生長していくにつれて過密化してしまう林地を適当な密度にし、健全な林の発育を促す。実際の作業においては間伐率といった用語があって、通常間伐率30%というと、本数にして3割の木を間引きする、ということを意味する。(材積で間伐率を表わすこともあるが、ほとんど本数。)

ここに、30%という間伐率で施業する林地があるとする。難しいのはこの30%をどのように選ぶかということ。30%というが、実際はこのような数字は単なる目安に過ぎず、きっちり数を数えて3割を伐るというようなことをしない。密集化して息苦しく感じられる林を、感覚的にスッキリしたものにする。密集具合と3割という数字からスッキリ具合を想像して、適当に伐っていくというのが実際の所。そして、どの木を伐ればよいのか、明確な基準は存在しない。

初心者が躓くのがここのところ。基準がないということ。もちろん大まかな基準はある。途中で折れたり曲がったりしている障害木。生長が遅い劣勢木。こういったものはすぐ判別できるのでいいが、密集具合からするとどれかを伐らなければならないが、優劣の判断を付けがたいところが出てくる。そのような時の判断。これが下せない。

こういった時に私が言うのは、「伐りたい方を伐れ」である。私だけではない。経験を積んだ者なら多くの者が同じように言う。面白いのはそのように言われた初心者の反応。みなそれぞれ違いがある。

大別すると、「ああ、それでいいんですか。」とすぐに納得する者。そう言われてもなかなか納得できない者。後者は不安な人間である。納得が早い者ほど、感覚的にしっかりしているというのが、私自身の体験的法則。

不安な者は、いくら理詰めで説明しても不安が解消されることはない。木の本数、並びなどの客観的状況から推して、これかこれのどちらか。率からいうと、両方というわけにはいかない。見ても優劣の判別はつかないから、伐るオマエが好きな方を伐れ。そのように言ってもダメ。自身で判断することを怖れ、判断を委ねようとしてくる。

  ****

上の話に納得がいかない人もいるだろう。感覚的に判断がつかないのだから、判断に不安を抱くのは当然のはずではないか、と。それはその通りなのだが、そういう人もまた、自身の判断に不安を抱いている人間だと私は推測することになる。

自分の感覚に従って、感覚的に判別がつかない場合でも「勘」といったようなものに従って判断を下すことが出来るような者を判別する、別の見方がある。それは車の運転を観察してみること。特にマニュアル・ミッションの車が具合がいい。作業に使う車は大抵そうだ。

車を運転するというのは、感覚的な判断の連続である。例えばカーブに入るとき。適切なブレーキ、スピード。どこでギアを入れ替えるか。カーブの連続する山道を登っていくような時。判断が適切な、つまり運転の上手な者だと、エンジンの回転数に注目してみていると、比較的安定しており、スムースな運転をする。対して下手な者は、回転数のブレが大きい。ギクシャクした動きになる。

そして。運転の上手い者は大抵、「伐りたい方を伐れ」で素直に納得出来る。運転の下手な者ほど納得が遅い。「偏差値」が高かったりすると、その傾向に拍車がかかる。

車の運転の上手下手に「偏差値」はまったく関係はない。「伐りたい方を伐れ」の納得の早さにも基本的には関係がない。ただ、「偏差値」の高さは遅くなる方向を助長する傾向はあるように感じる。それは「偏差値」の高い人間ほど、理(というよりも屁理屈)へと逃げる能力が長けているからだろうと思っている。自分の感性よりも、外部の客観的な状況を判断の基準にしようとする傾向が強く、またその能力に長けている。長けているからこそ、そちらを尊重したがることになるのだろう。

ついでに言うと、「伐りたい方を伐れ」の納得の早さは、危険回避能力と高さと相関していると私は感じている。自分の感覚に不安のない者ほど、危険な状況に陥ったとき(林業の作業ではそういった場面にしばしば出くわす)の判断が早く、的確。きっちりデータを取っているわけではないから、それこそ私の感覚的な話でしかないけれども、初心者を見るときには、そういったところを見ている。事故がなによりも怖いから。

幻影からの脱出  *****

さて、もう一段、話は飛ぶ。

安冨先生の新著はすでに紹介した。その記事で私は、本書の「読み方」を

 Don't think.FEEL!

だとしたわけだが、このことと自分の感覚に不安がないということとは関連する。紹介記事でも取り上げた「芋づる式」の部分だ。

これに対して私の頭は「芋づる式」です。私は何かを考えようとすると、それに関連する知識が、ズルズルと出てくる構造になっています。その「関連」というのは、「同じ箱」とか「隣の箱」とかではありません。なんとなく、感覚で繋がっているものが出てきます。(p.40)


もし、感覚に不安があるなら、たとえ感覚で繋がって出てきたとしても、それをそのまま表出することに不安を憶えるはずだ。不安を憶えたなら、その不安を読者に察知されないように、また自身にも隠蔽するよう、装飾を施すことになる。そうした装飾に適しているのが「箱システム」。つまり体系化された自身の外部の知識である。

 自分の身体感覚に沿って思考し、理解していくと、身体感覚に合わない部分には、体が反応して拒絶します。この部分が私にとって最も重要な部分です。この拒絶には二つ理由が考えられます。一つは、書かれていることが間違っている、という可能性です。もう一つは、自分自身の中に何らかの精神的な傷があって、そこに書かれていることを理解しようとすると、傷が疹く、という可能性です。
 前者の場合、その部分に意識を集中して考えると、どこがどう間違っているのかやがて解明されます。それに対して、後者の場合、考えようとしてもどうしても考えられず、頭が真っ白になります。それを私は「盲点」と呼んでいます。こういう場合には、なぜ盲点になっているのか、よく考える必要がありますが、考えようとしてもなかなかうまくいかないのが特徴です、いずれの場合でも、何かを理解しようとして真剣に文章を読むと、この身体の拒否反応によって立ち止まらざるを得ず、大いに時間が掛かります。
 これに対して、何でも素早く理解してみせる東大生の場合、こういった身体の拒否反応を感じないようになっているのだと、私は理解しています。そうなっていれば、身体に煩わされることなく、何でも書かれていることを、書かれているとおりに、ホイホイ理解して、記憶することが可能となります。
 同時にこういう人々は、何も理解しないのです。というのも、理解というものは、自分の考えの変化のことだからです。「ああ、そういうことか」という気づきによって、自分自身が変化するのが、人間の知るという過程であり、それこそが人生の最大の喜びだ、と私は思います。それには身体の感じる力が不可欠です。
 ところが、何でもかんでも理解して答えを出せる人には、こういう喜びがありません。なぜなら、そもそも自分がありませんから、変化のしようがないのです。彼らが「理解」だと思っているものは、自分自身の変化ではなく、「箱に入れる」ことだと私は考えています。(p.36~37)


知識を手際よく「箱に入れる」という芸当は、感覚的な不安を押し隠すのにもってこいであろう。そうした芸当に頼る必要がなく、このような指摘が出来てしまうということは、安冨先生には感覚的な不安はないのだ、と推測することができる。

「何でも書かれていることを、書かれているとおりに、ホイホイ理解して、記憶することが可能となる」。この記述は大変重要な指摘だ。私ならば“記憶する”を“記録する”と表現してみたいところだけれども、そう表現したくなるほどに、その“記憶”は機械的。〈ことば〉はさまざまな感覚の複合であり、〈ことば〉を“記憶”するということは、さまざまな感覚との繋がりを記憶することに他ならないわけだけれども、機械的な“記録”は、そうした繋がりとは無関係なもの。感覚と繋がらないから、身体の拒否反応を感じないのも当然のことだろう。

ここでもう一度、ガンディーのことばを引っ張ってこよう。

「文字は、子供が小麦と籾殻とを区別することをおぼえ、自分で味覚をいくぶん発達させてからのほうが、ずっとよく教えられるのです」。

ここでいう“教える”というのは、文字の内部“記録”術のことではない。外部記録である文字を、自身の内部の〈ことば〉と複合させる、ということ。それに対して優秀な東大生のような者は感覚と繋がらない【ことば】を扱う芸当に長けていて、それがあまりにも見事なので、他人に対しても自分自身に対しても、ほぼ完全に装飾・隠蔽してみせることができる。その芸当を指して「東大話法」というのだろう。

  ******

【ことば】の扱いに長けているがゆえに、自身の〈ことば〉を持たないであろう優秀な東大生。そんな者に、一度間伐をさせてみたらどういったことになるのか。「伐りたい方を伐れ」にどのように反応するのか。大変興味深いと思うのだが、そのような機会には、残念ながら恵まれたことはない。

不安を隠蔽してしまって感じないのなら「伐りたいように伐れ」を素直に実行できるはずだが。

つづく。

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