愚慫空論

〈私〉とは複合感覚である (4)

前回から時間が空いてしまって、何を言いたかったのかを忘れてしまった...

思い出してみる。

(1)で考えてみたのは、まず、〈ことば〉が複合感覚であるということ。そして、すべての〈ことば〉を統合している〈私〉もまた、複合感覚であるということ。

(2)では、「ラーメンは蕎麦である」と言明することの、感覚的な気持ち悪さについて。

(3)は、(2)との比較で「原発は安全」と言明することの気持ち悪さ、歪みについて書いてみるつもりだったが、話が別の方向へ行ってしまった。ということで、今回は(3)の仕切り直し。

なぜ「彼ら(原発推進派・東大話法話者)」は、「原発は安全」と言明しようとするのか。なぜ、健全な感覚を歪め、〈私〉を構成する〈ことば〉を歪めようとするのか。欺瞞の言語は他人に欺瞞的である以上に、自分自身に対する欺瞞である。

結論から先に言えば、それは「子ども時代」が奪われてしまったため、ということになる。
幻影からの脱出

私の考えでは、今日の世界が抱える問題は、都心部の犯罪から大規模な戦争やテロ、満員の刑務所に到るまで、子どもから子供時代が奪われてきた、という事実の結果に他なりません。子供の心に宿る魔法、不可思議、神秘、純真こそが、創造性の種子であり、それが世界を癒すのです。私は本当にそう信じます。

 私たちが子供から学ぶべきことは、子供っぽさではありません。子供と共にいることで、私たちは生命のより深い智慧へと導かれ、それは常にここにあり、生きられることのみを求めるのです。ここに、私たち自身の心のなかにあり、気づかれるべく待機している、解決策へと至る道があります。


この引用に出てくる「私」がマイケル・ジャクソンであることは言うまでもない。

人間が「子ども時代」に養うものは、健全な感性。五感である。

「ナイー・タリム」はその原則がきわめて明確だった。第1に、すべての児童教育は「母語」によること、第2に読み書きそろばんが職業性につながること、第3に教育システムが経済的に自立しうること。この3つを前提の方針にした。
 もっと画期的なのは、「そもそも子供のためのシラバス自体が手仕事的な仕掛けで説明されているべきだ」としたところだ。これがすばらしい。ガンディーは自分でもワルダーで子供のための学校をつくっていたが、そこではまさに、糸紡ぎ、手織り、大工仕事、園芸、動物の世話が先頭を走り、それらによって自分たちがこれから学ぶことの“意味”を知り、そのうえで音楽、製図、算数、公民意識、歴史の勉強、地理の自覚、科学への冒険が始まるようになっていた。
 なかでも、文字を習い始める時期を延期したことに、ガンディーの深い洞察があるように思われる。あまりに文字を最初に教えようとすると、子供たちの知的成長の自発性が損なわれるというのだ。ガンディーは自信をもってこう書いている、「文字は、子供が小麦と籾殻とを区別することをおぼえ、自分で味覚をいくぶん発達させてからのほうが、ずっとよく教えられるのです」。


この引用も、何度も取り上げた。松岡正剛千冊千夜第1393夜『ガンディーの経済学』の記述から。「ナイー・タリム」とは、ガンディーが始めた“新しい教育”という意味だそうだ。

「文字は、子供が小麦と籾殻とを区別することをおぼえ、自分で味覚をいくぶん発達させてからのほうが、ずっとよく教えられるのです」。ガンディーが自身をもって書いたというこのセンテンスの意味を、私なりに書き直してみると、「子どもが〈ことば〉を修得するよりも先に、【ことば】を教えてはいけない」となろうか。

小麦と籾殻を子どもが区別できるようになる。それは健全な五感の働きの結果として、小麦と籾殻の区別がつくようになったということ。つまり、子どものなかに〈小麦〉〈籾殻〉という〈ことば=複合感覚〉が生成されたということ。

これに先んじて【小麦】【籾殻】という【ことば=文字】を教えてしまうと、どうなるか。「子ども時代」が奪われてしまうことになる。小麦と籾殻の区別が感覚によってなされるより先に、大人の【知識】によって与えられてしまう。発見は一度きりだから、子どもは二度と「区別」を発見することが出来ない。

  ***

【ことば=文字】とは、記録である。記憶ではない。この違いは重要だ。

〈ことば〉は記憶である。そして〈ことば〉とは複合感覚だから、〈ことば〉の記憶にはさまざまな感覚の記憶が複合されて残っている。対して【ことば=文字】は記録であるから、つまり、感覚とは無関係な(視覚は関係するが)外部のものであるから、【ことば=文字】から感覚が呼び起こされることはない。〈ことば〉よりも先に【ことば】を教えてしまうことは、健全な感覚の発達の機会を奪ってしまうことになる。

といって、「子ども時代」を奪われてしまった子どもが、〈私〉を〈ことば〉の複合によって生成しないのかというと、そうではない。ただし、〈私〉を構成する〈ことば〉は、感覚的に未発達な不十分な〈ことば〉でしかない。〈私〉は健全な感覚に裏打ちされていない、不十分な〈私〉でしかなくなってしまう。

常に感覚的に区別を為すことが出来る人間は判断に迷うことがない。不十分な〈私〉でしかない人間は、感覚的に判断がつくことが少ないから、常に迷うことになる。常に迷う人間は不安である。「子ども時代」を奪われてしまうと、出来上がってしまうのは不安に苛まれる大人ということになる。

  ****

つづく。

コメント

>常に感覚的に区別を為すことが出来る人間は判断に迷うことがない。
 不十分な〈私〉でしかない人間は、感覚的に判断がつくことが少ないから、常に迷うことになる。
 常に迷う人間は不安である。
 「子ども時代」を奪われてしまうと、出来上がってしまうのは不安に苛まれる大人ということになる。
<
同感です。

と同時に、「常に感覚的に区別を為そうとする」人は、そうそう簡単に区別はつかないということも識っています。
だから「分からない」ことが皮膚感覚で分かっている。
だから「分からない」状態にあまり不安を感じない。
「そういうもの」だと識っているからですよね。

そういう意味でも、「子ども時代」はやっぱり大事だなぁと思います。

だから修行

・アキラさん、おはようございます。

と同時に、「常に感覚的に区別を為そうとする」人は、そうそう簡単に区別はつかないということも識っています。

仰るとおりです。だから、感覚的に区別を為そうとして、修行を積むことになるのですよね。(^o^)

そのように考えていけば、大人になっても「子ども時代」を生きることはできる。修行を積み、感覚を養っている時はいつでも「子ども時代」ということです。私もアキラさんも、まだまだ「子ども時代」。

たぶん、「子ども時代」に終わりはない。だからといって「大人時代」が来ないわけではない。「子ども時代」と「大人時代」は、重なり合うことができるもの。子ども/大人で区分できると考えてしまうことが、修行が足りないということなのでしょう。

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