愚慫空論

〈私〉とは複合感覚である (3)

原発危機と「東大話法」

 名を正す

 この魔法のヤカンが福島で爆発したとき、枝野官房長官は記者会見で「何らかの爆発的事象があったということが報告をされております」と言いました。テレビで原子炉建屋が爆発して吹き飛ぶ場面が映されていたというのに、「爆発」があったとは言わず、「爆発的事象」と言いました。あるいは東京大学の関村直人教授は、「格納容器の健全性は保たれています」とテレビで根拠なく言い続けておりました。もちろん、実際には格納容器は破れていました。
 この奇妙な言葉遣いの中に、原子力というものの抱える問題が端的に表現されています。それを私は「原子力安全欺備言語」と呼んでいます。この言語の恐ろしさは、「専門家」と自称する人々が、自分自身を騙すために用いている点にあります。そうすることで、正気では信じられないことを信じて、正気ではできないことができるようになるのです。

・彼らは、「危険」を「安全」と言い換えます。
・彼らは、「不安」を「安心」と言い換えます。
・彼らは、「隠蔽」を「保安」と言い換えます。
・彼らは、「事故」を「事象」と言い換えます。
・彼らは、「長期的には悪影響がある」を「ただちに悪影響はない」と言い換えます。
・彼らは、「無責任」を「責任」と言い換えます。


前回、原子力発電の「安全神話」について考えて見ると書いた。それは「東大話法」に象徴される欺瞞言語を考えてみることになると言っていいだろう。

前回取り上げたのは「ラーメンは蕎麦である」というセンテンス。これも上の引用で紹介されている欺瞞言語同様に気持ちが悪いもの。つまり、「ラーメンは蕎麦である」も欺瞞言語だ。

  ***

確認しておきたいことがある。「彼ら(枝野官房長官(当時)や関村直人東大教授など)をはじめとする原子力ムラの専門家の人々は欺瞞言語を弄するが、私を含めた多くの者はそのことには気がつかなかったということだ。さすがに「魔法のヤカン」が爆発した後の「爆発的事象」や「ただちに影響はありません」には、気持ち悪さを感じた。だが3.11以前には気がついていた者は少なかった。正しくは「原子力危険性審査委員会」と呼ばれるべきところが「原子力安全委員会」と呼ばれていたのに、気持ち悪さを感じる者は少数だった。大半の者が気持ち悪さを感じていれば、名は正され、もしかしたら福島第一原発の事故は回避できたかもしれない。

この状況、つまり多くの者が原子力に関することばの歪みに気がつかなかったということは、前回(2)で想定してみた状況、すなわち、ラーメンが一般的に食べられていない国において日本食の権威が「ラーメンは蕎麦である」と言明した状況と重なると考える。ほとんどの日本人にとって原子力という技術は、食べたことのないラーメンに相当する。

ラーメンか蕎麦かといったような次元においては、日本人ならまず誰もが感覚的に〈ラーメン〉と〈蕎麦〉とを区別できる。それは具体的な感覚的記憶を保持しているからだ。だからこそ「ラーメンは蕎麦である」は、感覚的に気持ち悪いのだが、〈原子力発電所〉ということば・イメージに関しては、具体的な五感の記憶を伴うことはななかった。〈原子力〉とは、空虚なことばでしかなかった。ことばが空虚であったからこそ、「危険」を「安全」と言い換えられても、感覚的に気持ちの悪さを感じなかった。〈ラーメン〉を感覚的に知らない者が、〈蕎麦〉と一緒にされても何も感じないのと同様のことだ。

それが現在では


のような、具体的な五感を伴う実質的なイメージになっている。この視覚的イメージからは「安全」という感覚は健全な人間ならどうやっても導き出すことはできない。

  ****

話が少し逸れる。原発に関しては、いまだに安全だという主張をする人間がいて、その主張が少なからぬ支持を集めているという現実がある。此度の原発事故、あるいは放射能で死んだ人間はいないという「現実」を根拠に、たとえばタバコと比較しても原発は安全なんだと言い募る。アタマデッカチな議論だ。

こうした議論を事実に即した誠実なものだと、主張する当人や支持者は感じているのだろう。そうでなければ声高に主張できるはずもないのだが、これは感覚的にまったく不誠実な、欺瞞的な議論である。

この不誠実さを、以下の問いで考えてみよう。河豚と餅は、どちらが危険か、という問い。

死亡者数という事実を基準に危険度を判定するならば、明らかに 餅>>河豚 だろう。具体的な数は調べていないが、このことは河豚での中毒死は事件として報道されるが、餅による窒息死はあまり報道されることはないという事実からも推測される。珍しい者の方が報道される傾向があるのは事実だ。河豚の中毒死が報道されるのは珍しいからだけではない。感覚的に危険だと皆が感じているからでもある。

餅がどのように危険なのかは、誰もが感覚的に知っている。餅が喉を通過していくときに感触の記憶から、その危険性を感覚的に推測できるのである。だから対処法もわかる。対処法がわかることを人間は危険だとは認識しない。

対して河豚の具体的な危険性を、ほとんどの者は知らない。肝や卵巣が危険だという知識はあっても、では、実際に河豚を捌いて毒の入った部分を選り分けることができるかというと、素人には無理。プロの技が必要とされるし、またそのことを知っている。

河豚を食べるときは、我が身の安全をプロに委ねなければならない。危険という感覚が発動しないのは、プロに対する信頼があるからである。だから、そうした信頼を揺るがすような事故があったとき、それは事件として報道されることになるし、それを契機に業界は信頼を回復しようと努力をすることになる。

つまり。危険か否かは、事実では語れない。というより「危険か否か」という問題設定そのものが誤っている。人間にとって問題なのは「危険性が感じられるか否か」。事実の問題ではなく、感覚の問題なのである。原発をタバコと比較して安全性を議論する者は、そのことをまったく理解していない。

  *****

時間切れ。(4)に続く。


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