愚慫空論

〈私〉とは複合感覚である (1)

今回はいつもの「空論」、つまりわけのわからない論考を繰り出してみたい。

〈私〉とは、自我あるいは自己と呼ばれたりするもの。自我と自己は区別されるが、ここではその区別は考えない。それで〈私〉とした。その〈私〉が複合感覚である、という「複合感覚」。まずはここから。

複合感覚というからには、複合していない感覚がある。人間に備わっている五感がそれ。視覚。聴覚。嗅覚。味覚。触覚。ここでは「一次感覚」と言っておくことにする。

  ***

いきなり話が飛ぶが、『暇と退屈の倫理学』を読んでいると、ダニの話出てきた。皮膚に食らいついて、血を吸うアレだ。私もしばしばお世話になる――のはどうでもいいが。

『暇と退屈~』の中にユクスキュルという生物学者の「環世界」という話が出てきて「ダニの世界」の話が展開される。ちなみに「環世界」とは、

私たちは普段、自分たちも含めたあらゆる生物が一つの世界の中で生きていると考えている。すべての生物が同じ時間と同じ空間を生きていると考えている。ユクスキュルが疑ったのはそこである。彼はこう述べている。すべての生物がその中に置かれているような単一の世界など存在しない。すべての生物は別々の世界と空間を生きている!


私はこの一文を読んで、このことは、人間においては個々人についていえると思ったわけだが、なぜそうなるかを説く前に、ダニ世界の話。

ダニには3つ感覚しかないという。
 1.酪酸の臭い。
 2.摂氏37度の温度。
 3.体毛の少ない皮膚組織。

これらの感覚を順番に用いることで、ダニは常温動物の体に取り付いて吸血行動を行なう。これら3つの感覚は一次感覚であって、一次感覚がそのまま行動に結びつく。要するにダニという生物は、3つのシグナルに順番に反応する機械だというふうに見なすことができる。あくまで吸血行動に関して、だが。

ここでわかるのは、ダニにおいては「感覚によって行動が促される」ということ。で、仮定してみたのは、ダニより複雑な「機械」である人間においてももまた「感覚によって行動が促される」のではないか、ということ。私たちは判断とか決断とかいった「意志」によって行動が促されていると考えるが、それは錯覚で、感覚にスイッチが入れば動き出す「機械」に過ぎない。ただ、ダニと異なるのは、その感覚の構造が複雑で入り組んでいること。

  ****

で、話は戻って複合感覚。

人間には五感がある。この五感の構造自体も、ダニの三感よりも複雑ずっと複雑だが、それに加えて人間は二次、三次の複合感覚を創造する能力を持つ。たとえば二次感覚とは、【視覚-聴覚】の組み合わせでできるもの。【嗅覚-味覚】の組み合わせでできるもの。【触覚-視覚】の組み合わせでできるもの。組み合わせは人間の一次感覚の複雑性から、同じ感覚同士の組み合わせもありえてさらに順序も考えれば、5×5で25。三次になると五感が3つ組み合わさると考えられるから、その組み合わせは5の3乗で125。四次、五次となればその組み合わせは膨大な数に膨れあがっていく。

右の画像をご覧頂こう。これは私が普段食する弁当。日の丸弁当だ。ご飯の真ん中に梅干しがのっかっているのが視覚できるだろう。

梅干しを視覚すると同時に知覚されるのは【梅干し】という複合感覚。梅干しを食した経験のある人間は、視覚と同時に嗅覚、味覚、触覚の記憶が引き出されてくる。さらには「う・め・ぼ・し」と発声された聴覚も引き出される。つまり【梅干し】とは、視覚+聴覚+嗅覚+味覚+触覚の五次感覚ということになる。

さらに。この画像の梅干しは、紀州南高梅という種類の梅から作ったもの。それも紫蘇を用いない白干しである。すなわち【白干し紀州南高梅の梅干し】。この【白干し紀州南高梅の梅干し】は紫蘇を用いた梅干しとは区別されているし、さらに別の梅を用いた梅干しとも区別されている。たとえば【白干し紀州南高梅の梅干し】と【紫蘇を用いた古城(こじろ=梅の種類)の梅干し】との間には、視聴嗅味触の感覚全てにおいて違いがある。こうした違いを含めて【梅干し】に統合されているとすれば、【梅干し】は、

視覚1+視覚2+…+聴覚1+聴覚2+…+嗅覚1+嗅覚2+…+味覚1+味覚2+…+触覚1+触覚2+…

ということになっていって、何次になるのかも見当がつかない。

  *****

今、複合感覚の例として梅干しを取り上げたが、複合感覚にはもっと一般的な別名がある。それを「ことば」という。上では、視覚から【梅干し】という「複合感覚=ことば」を誘導させたが、これはブログという形式の制約からきたものであって、もしこれが講演といった形なら、「う・め・ぼ・し」と発声し、聴覚から【梅干し】を引き出すことが可能だっただろう。目隠しをして、嗅覚あるいは味覚を刺激するという方法も考えられる。触ってもらって触覚から誘導するのもありだろう。

どのような方法を使っても、それの対象が梅干しであり、梅干しというものを記憶している人間ならば「梅干し」という〈ことば〉が脳裏に出てくるはずだ。注意していただきたいのは、ここでいう〈ことば〉は、「梅干し」でも「ウメボシ」でも「う・め・ぼ・し」でもなく、もっと漠然としたイメージとしての〈梅干し〉だということ。イメージとして漠然している、あるいは確固としていることの差異は、〈漠然〉【確固】のように表記しているので、留意いただきたい。

順序として次に考えてみたいのは【梅干し】と〈梅干し〉に違いだが、この違いをこの段階でうまく説明するのは難しい。むしろ【私】と〈私〉にまで遡上してから下降した方が容易だと思われる。なので、【 】をさらに統合していってみる。

  ******

【梅干し】はカテゴリーと捉えることができる。下位には【白干し紀州南高梅の梅干し】や【紫蘇を用いた古城の梅干し】などが属し。上位は【食品】というカテゴリーに属する。

【食品】というカテゴリーはさらに上位のカテゴリーに所属する。いろいろなカテゴリーが考えられるが、ここでは素っ飛ばして【もの】としておこう。【もの】はありとあらゆる「もの」が所属するカテゴリーである。加えて、【もの】には所属しない【ひと】というカテゴリーが考えられる。動植物など命あるものを【もの】とするのは抵抗もあるが、ここでは【もの】に含めておく。

ただし。【ひと】のカテゴリーのなかには人間である【私】も論理的には入ってしまうので、【ひと】から「私」は除外して【他人】というカテゴリーを考える。さらに【他人】と【もの】が所属する上位カテゴリーを【他者】とする。

実は【私】とは【他者】に他ならず、【他者】というカテゴリー(【ことば】)を複合感覚として知覚する主体が〈私〉である。つまりこの統合段階においては、「ことば」が異なっている。梅干しや食品の段階においては、確固とした【梅干し】や【食品】から導き出される漠然とした複合感覚は〈梅干し〉や〈食品〉だったのが、【他者】の段階においては〈私〉になるということ。逆に言えば、高次の統合段階においては、適切な「ことば」がないということでもある。

わかりにくいかもしれない。

よく「他者がなければ私はない」というようなことをいうが、これは不正確は表記だ。正確には【他者】がなければ〈私〉はない」になる。【他者】というカテゴリー(【ことば】)は、さまざまなカテゴリーの複合体で、所属する下位のカテゴリーは、【ひと】【もの】【食品】【梅干し】といった二次以降の複合感覚をもって知覚され、〈ひと〉〈もの〉〈食品〉〈梅干し〉といった漠然とした〈ことば〉となって記憶されている。〈ことば〉に次元が下がってくると、〈梅干し〉ならば、〈赤い〉〈酸っぱい〉といった一次の感覚となって記憶されている。

一次の〈赤〉も漠然としたもので、確固とした【赤】ではない。〈酸っぱい〉も、同じクエン酸ではあっても、果物の〈酸っぱい〉とは微妙に異なる。この違いが感覚的にしか把握できないが、その違いをまとめて〈まるめて)、【酸っぱい】という【ことば】は存在する。

【ことば】と【ことば】の差異を埋めているのは〈感覚〉でありその記憶。そうした差異を、さまざまな【ことば】を【他者】にまで統合するのと並行して、漠然としたそれぞれの〈ことば〉を複合・統合させた感覚が〈私〉なのである。

なお、「記憶≠記録」であることに留意が必要だが、これについてはまた後に述べる。

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もはや【梅干し】と〈梅干し〉の違いに言及する必要はないだろうと思うのでスルーして、冒頭の方でに触れた、人間においては個々人で異なった空間に住んでいるということについて。

まず、『暇と退屈の倫理学』からの引用では空間と時間が異なるとなっているが、時間については、人間はみな同じだと考えて良い。異なるのは空間だけ。

空間とは、ダニの例からも解るように、〈感覚〉である。ダニは酪酸の臭いと、温度と、体毛を探る触覚の3つの要素からなる空間に生きている。そして、そこから得られる一次の感覚に即して機械的に生きている。

対して人間は高次の複合感覚を生成する。生成した複合感覚によって把握される世界が空間になる。複合感覚は、五感と感覚の記憶から生成されるが、記憶は個々人の体験によって左右されるから、同じ人間で五感は同一であったとしても、五感と記憶から生成される複合感覚は異なったものになる。従って、空間もまた異なったものになる。

  ********

以上のように考えてみれば、人間もまたダニと同じく、「感覚によって行動が促される機械」であるということができる。「意志」は感覚の作動の後追いに過ぎない。

たとえばことばを話すという行動について考えてみる。私たちはいちいち判断や決断を下しつつ、言葉を話すのではない。感覚的に話すのである。言葉が出てこない場面では、視覚において焦点がぼやけているような感じでうまく知覚できない状態であり、複数のことばから選択に迷う場面でも、働いているのは感覚。もっとも感覚的にぴったり合うことばを探しているにすぎない。南高梅と古城を見分ける感覚を持ち合わせている者は梅干しの選択について迷うことがないのと同様に、選択すべきと捉えられる場面において、鋭敏な感覚を発揮できる者は迷うことがない。

結果として選択を誤るということは、感覚が鈍いか、感覚から生成される空間が歪んでいるかのどちらかである。どちらであっても、ことばが歪む。次回は、そのことについて考えてみたい。

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以上、書き綴りながら思い起こしていたのは、この本。

大乗起信論

読み直してみるかな。

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