愚慫空論

〈跳躍〉の読書 ~『幻影からの脱出』

安冨先生の新著。

幻影からの脱出

安冨先生の著作には〈跳躍〉がいっぱいあるものが多いだけれど、本著もその例にもれず。これまで以上の〈跳躍〉があるといっていいかもしれない。それでいて、本著には完結感がある。

“本著には”としたのは、そうでない感じ、つまり未完成感のある本もあるということで、『複雑さを生きる』『生きるための経済学』『経済学の船出』、そして本著の前作にあたる『原発危機と東大話法』がそうした本の系譜に当たるだろう。

なぜそうした〈跳躍〉に満ちた本になるのか。その秘密が本書には記されている。それは“「芋ずる式」の思考”というもの。

これに対して私の頭は「芋づる式」です。私は何かを考えようとすると、それに関連する知識が、ズルズルと出てくる構造になっています。その「関連」というのは、「同じ箱」とか「隣の箱」とかではありません。なんとなく、感覚で繋がっているものが出てきます。(p.40)


この前段に「箱」システムというのがあって、それは要するに知識を「適切な」ラベルリングを行なって分類してしまおうというもの。アカデミズムというものがそのような構造になっていることは言うまでもない。

安冨先生の本に限らず、どのような著作にも〈跳躍〉はある。しかし、それは大抵ひとつ。〈跳躍〉がひとつあれば、知識人たる者十分に本を書くことができる。そして、〈跳躍〉を跳躍と感じさせないように論理の階段で埋める。名著の条件は、大きな〈跳躍〉を淀みなく流れるような論理で埋めるもの、と言えるだろうか。その基準でいえば、本著を含め、上に上げた著作のどれもが名著の条件には当てはまらないかもしれない。それどころか、奇書という評価が下されたりもする。

本書も奇書と見るならばそう読めなくもない。淀みない論理を求めて、考えて読もうとするならば、そういう感想になる可能性はなきにしもあらず。しばしば現われる〈跳躍〉に面食らってしまって、混乱に陥るのもやむを得ないかもしれない。だが、それは読み方が違う。「芋づる式」に書かれた本なのだから、その感覚的な芋づるについていかなければならない。つまり、

  Don't think.FEEL!

が「読み方」になる。

(といって、安冨先生が緻密な論理を構築できないというわけでは、もちろんない。もしそうなら東大教授になれるわけがない。「緻密な論理」系の著作としては、たとえば『貨幣の複雑性』

  ***

本著の〈跳躍〉の白眉。それは「第四章 なぜ世界は発狂したのか」から終章「結論――脱出口を求めて」の間にある。タイトルの「幻影」が意味するところは、第四章まで〈跳躍〉をしながら説明されていくのだが、その四章の末尾で、突如として「萌え」『電波男』が登場してくる。「幻影」から逃れるには、「妄想」にのめり込むしかないという「思想」が紹介される。

そして、その「思想」は無理筋であり、妄想から現実へ回帰しなければならないとした上で、〈跳躍〉する先が 終章。「子どもに聞くこと」。

私が最も大切だと思うことは、子どもの利益を最大限に考える、ということです。すでに論じたように、子どもは、現在のところすべての政治的過程から排除されています。その「子ども」を中心に考えることです。
・・・
子どもの利益を知るための最もよい方法は、子どもに聞くことです。彼らは自分が何を必要としているか、明確に理解しており、それを示すことができます。子どもは、赤ちゃんのときから、全てを理解しています。このことを認めることが、新しい政治を生み出すための第一歩です。彼らの必要を理解できないのは、大人にその態度が欠落しているからです。(p.215、216)


(この後に挙げられる「例」が素晴らしいので、是非、本書で直にお読みください。)

子どものための(大人が考える)政治ではなく、子どもの要請に従う政治。そんなものが果たして政治なのかと、ここだけ抜き出してしまえば奇異に思われるだろうし、また、〈跳躍〉を感じず考えようとすれば理解は繋がって行かないだろう。

本著の完結感は、〈子どもの政治〉に至ったことが大きい。というのも、子どもは「考える」存在ではなく「感じる」存在であり、大人が〈子どもの政治〉を実践しようとするならば、大人もまた「感じる」存在にならなければならないからだ。それは本著が要請するところの「読み方」と一致する。

そしてそれは、『生きるための論語』において提示された〈学習〉の観念とも一致する。「考える」ということは知識を「箱システム」へ整理すること、つまり自身を変革せずに環境を改変することであるのに対して、「感じる」ことは自己変革であり、〈学習〉とは自己変革に他ならず、常に自己変革を行なう者が君子であり、君子を中心とした秩序であるべき、ということを示したのが『生きるための論語』だから。

つまり。〈子どもの政治〉は君子の政治に他ならない。

もっとも〈子どもの政治〉だけが君子の政治というわけでない。終章には、それ以外の君子の政治のバリエーションが記されている。それらのバリエーションは、それぞれに〈跳躍〉を伴うものだが、〈子どもの政治〉という〈跳躍〉を跳び越えた者には、もはや理解は容易だろう。


【追記】

締めになにか足りないような気がしていた。足りないものに気がついたので、追記。それはマイケル・ジャクソンの言葉。本著の最後にも記されているし、安冨先生のブログにも出ている。

私の考えでは、今日の世界が抱える問題は、都心部の犯罪から大規模な戦争やテロ、満員の刑務所に到るまで、子どもから子供時代が奪われてきた、という事実の結果に他なりません。子供の心に宿る魔法、不可思議、神秘、純真こそが、創造性の種子であり、それが世界を癒すのです。私は本当にそう信じます。

 私たちが子供から学ぶべきことは、子供っぽさではありません。子供と共にいることで、私たちは生命のより深い智慧へと導かれ、それは常にここにあり、生きられることのみを求めるのです。ここに、私たち自身の心のなかにあり、気づかれるべく待機している、解決策へと至る道があります。





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