愚慫空論

「0」か? 「1」か? 自然信仰のかたち

事の発端は、この動画。



まず、この動画についての説明。戸高雅史さんという登山家の方が厳冬期の富士山で撮影したもの。

 戸高雅史BLOG Lights & Snow Shower in Mt.Fuji

見ているだけ“寒イボ”が立ってしまいそうな、これからの季節にはいい動画だが、この動画を巡って「0」か「1」かの対立が勃発した。

ちなみに動画の中の歌は、あとから被せたものではなくて、本人が現場で歌っているものらしい。

  ひかりと雪のシャワーをあびて
       こころもからだもきれいになる・・・
   厳冬の富士山で、吹き来る雪の流れが
       こころもからだもきれいにしてくれました・・・
   ゼロになる!


ゼロになるといえば、


  さよならのときの 静かな胸
  ゼロになるからだが 耳をすませる

  生きている不思議 死んでいく不思議
  花も風も街も みんなおなじ


厳冬期富士山の峻烈な「0」と、『千と千尋』の穏やかな「0」。異なるようだけれども、実は共通するものがあって、それはどちらも「死」があること。厳冬期の高山は、生命を拒絶する世界だから。

そんななかに身をおいての “オ~、イエ~!” は、常人のなせる技ではないけれども、ゼロになっていくというのは私にもわかる。そういう世界に足を踏み入れていた経験が私にもあるから。とても“オ~、イエ~!”にまでは行かなかったけれども。

実は、戸高さんの“オ~、イエ~!”を聞いて、最初に私の中に湧き上がってきたのは『千と千尋」ではなかった。



シューベルトの歌曲集『冬の旅』の22曲目。

(貼り付けた動画はパロディっぽく編集されたもので、原曲はピアノ伴奏。滑稽な感じが面白かったので、これにしてみた。)

「歌曲集」というともったいぶった感じだけれども、要するに「アルバム」。昔のウィーンあたりで流行ったポップスだ。でも、これはとんでもなく陰鬱なアルバムで、恋人に振られて街から冬の荒野へ死への旅路に出た、というストーリーになっている。アルバムの前半はまだ去ってきた場所への郷愁がいっぱいあっりしてまだ甘さがあるけれども、後半はほんとうに救いがない。

「Mut」というのは「勇気」という意味だけれども、つまりは無謀な勇気ということ。

冬山といえば毎年必ず遭難のニュースを聞く。時には明らかに準備不足経験不足なものもある。そういうのは Mut!無謀。私も若かりし頃は、そういう Mut!に浮かれていたことがあって、それを思い出したということ。

無謀は愚行に他ならないけれども、その分、自分自身の沸き立つ生命力を感じられたりもする。

先に『冬の旅』の方を片付けておこう。『勇気』の後は、『三つの太陽』。愛、希望、生命のうち、先の2つは沈んだ、最後も沈んでしまえ。そして終曲、『辻音楽師』。Der Leiermann ライエル、もしくはライアーという楽器は『千と千尋』の歌で伴奏に出てくるもの。あちらは希望に満ちているけど、こちらは虚無の中へ沈んでいく。余談。

で。私自身の思い出話をさせていただくと、幸いなことに未だ虚無へは沈まず、樵をしながらつまらない文章を書いている。Mut!から抜け出すターニングポイントがあったわけだ。それは確か24歳の時の3月初めだと記憶しているけれども、南アルプスの聖岳というところへ単独行で行ったときのこと。東尾根から詰めて、奥聖岳山頂直下の雪壁をよじ登って山頂に着いたときのこと。そこで還りたいと思ってしまったんだよね。

予定では、その先、3000mの稜線を行くつもりだった。3000mとはいえ、南アの稜線はさほど難度が高いわけでもない。でも、東尾根でのラッセルがきつくて体力も消耗していた。幸い天気も良くて、白銀の世界をずっと見渡すことができた。独り占めだった。でも、山頂から見下ろす黒々とした森、右手に聖沢、左に赤石沢。雪を被って白くなっていたけど。こっちの方がいいと思ってしまった。それで帰ることにした。東尾根取っつきからの林道歩きを思うと陰鬱だったけど。
(予定では、茶臼から下って畑薙の吊り橋へいくつもりだった。)

その時に帰りたいと思ったところ。それが私の「1」。今もずっとそう。それから紆余曲折はあったけれども、樵をやっているのは結局、「1」に近づきたいから、だと思う。

Mut!は過剰な、「2」とか「3」とか。話は少しずれるけど、原発などMut!に他ならない。「100」くらい無謀なことをやって、自分でその後始末も出来ずに、後世へ負担をお願いしますなんて、どう考えても常軌を逸している。

さて、前置きが長くなった。

  光るナス 「ア」から出て「ア」に還る

ここでも語られているのは「死」。

「阿字の子が 阿字のふるさと 立ち出でて また立ち返る 阿字のふるさと」


この「ア」が、「0」なのか「1」なのか。

私は前述したとおり「1」だと感じている。アキラさんは「0」だという。ここで「対立」が生じているわけだ。

もとよりどちらが正しいかを巡って争っているわけではない。この「対立」はイコール「対話」でもある。同じところを見ていても、双方立ち位置が異なる。その違いを相互理解するための「対立」であり「対話」。アキラさんとはいつでもこうだ。

「ア」を純然たる出発点として捉えるなら、これは「0」が相応しいだろう。「無(≠虚無)」から「生」が生じ、「死」でまた「無」へ還る。人間の意識の流れは、おそらくこれ。どこからともなく生まれ、どこか定かでないところへ沈んでいく。ならば「私」もそうなのか。

否。

「私」という意識は「接点」でしかない。「私」は存在するわけではない。もともと「私」はない。感覚の接点としての「私」。
その「私」が「0」になったとしても、「私」が感覚している存在がなくなるわけではない。だから「1」。

ここいらあたりは、もう少し詳しく述べてみる必要がありそうだが、それはまたの機会にするとして。

要するに「私」というのは、過剰な存在だということ。「1」をモニターしている「私」が存在することにしてしまうことから、人間は過剰になっていく。その過剰が「0」になれば「1」へ還るだけ。


近頃はあまり意識することはなくなったのだけれど、昔、登山をしていた頃によくイメージしたことは“水の共振”。私の身体のなかにはたっぷりの水分がある。森のなかにもある。私のなかの水と森の水とが共振するイメージ。

山を登り始めると、当然のことながら、辛い。身体に負荷がかかるわけだから。食料や装備などの荷も背負っている。だが、どこからか、「辛い」ということの質が変わってくることに私は気がついていた。辛さに身体が慣れてくるということなのだろうが、そうした状態になることを、私は“水が共振する”とイメージしていた。私のなかの都会の水が森の水へと入れ替わったとき、共振が起きて辛いけれども辛くなくなる。

これも「1」のイメージ。

それが雪山へ上がると、共振がなくなる。過酷な環境と共振することは「死」へと至ること。皮膚一枚を隔てて、私の身体が環境への共振を拒んでいるイメージ。そのような場所で敢えて活動しようとする意志。「Mut!」。この意志こそが過剰な「私」。過剰に「負い目」を感じず、過酷な環境と闘うことで肯定しようとする「過剰」。

昔の日本の庶民は、こうした「過剰」を「穢れ」と感覚していたように私は思う。
(貴族的な「穢れ」とは異なることに留意が必要。)

 愚樵空論 ご先祖様

日本人は「もののあはれ」を解する民族だという。「もののあはれ」とは、ザックリ言ってしまえばこの世は不条理だということである。それを知るのが「もののあはれ」だ。
人間が生きていくということは、不条理の中を生きていくということである。生まれたときは穢れのない無垢な赤ん坊だった人間も、不条理の世界を生きていくうちに穢れていく。無垢な自然の恵みを横取りし、己の命を繋いでいかなければならない不条理。昔の日本人は人間・動物のみならず植物やそこらに石にすら霊性があると考えていたから、そうしたものを自分の為に利用することを穢れた行為であると見做していて、だからモノをムダにすることを“もったいない”として忌み嫌ったのだ。どれほど節約しようとも“もったいない”ことを避けられぬ生の営みそのものを、穢れた行為だと考えていたのである。

やがて人は寿命を迎え、肉体は自然に帰ると同時にその魂も自然の中へ帰っていくと信じられていた。そして自然の循環の中で、穢れた魂は再び浄化される。ご先祖様とは魂浄化の過程にある人、もしくは浄化の完了した人たちのことであり、「ご先祖様信仰」とはすなわち「自然信仰」に他ならなかったのである。


ここで「不条理」としてあるのは、すなわち「過剰」だろう。人間は「私」であろうとするために過剰な闘争を行ない、「穢れ」を重ねていく。その「過剰」への意志が死とともに消え去り、重ねられた「穢れ」が自然の営みの中で浄化されていく。

そうした自然は、間違いなく存在する。だから「1」。「私」はそこへ還る。


もっとも、自然が般若経が説く「ア」だと限らない。むしろ異なると見るべきだろう。「0」である。そして、その仏法との差異こそが、私が持っている信仰。そしておそらく、昔の日本人が持っていたであろう素朴な自然信仰なんだと思う。

この信仰は教義のない、すなわち宗教としての体裁を持たないもの。だから逆に、どんな宗教へも習合して独自のものへと換骨奪胎してしまう。日本人は無宗教。されど無信仰にあらず。自然という「1」を信じる者。それが私自身の日本人としての意識でもある。


コメント

もろもろ。

富士山頂動画、いいですね。何回かリピートしてしまいました。
特に音がいいです。Peter RehbergやThe New Blockadersのランダムなハーシュノイズの洪水のようです。
ノーパソの貧弱な内蔵スピーカーでは音圧が足りな過ぎるのと、「おーいぇ~♪ おーやぁ~♪」で台無しになっている面も否めないのですが。

>こころもからだもきれいにしてくれました・・・
ゼロになる!

ゼロになるのは人間の感覚で、これは光・風・音による過負荷で感覚が変容(遮断)されて生じるのだと考えます。タブラ・ラサとか、そんなイメージ。
対する自然の側は極めて動的で、力が充満しているところにコントラストがあって面白いです。
爆弾低気圧や大型の雷雨が直撃した時に、こういう感覚の欠片が味わえます。

>街から冬の荒野へ死への旅路に

曠野とは人間の力が及ばない領域、自然の力が極大になる空間で、死に近づくために反人間的な力の領域に歩み寄るという行動は、人間の普遍的な行動パターンの一つなのかもしれませんね。これで死んでしまうと『イントゥ・ザ・ワイルド』に、生きて戻れば『127時間』になる。

>私は前述したとおり「1」だと感じている。アキラさんは「0」だという。ここで「対立」が生じている

私はどちらでもよい派(どうでもいいという意味ではない)です。死は自身の顕在意識で体験できるものではないでしょうから(これ巧く表現できてません。すみません)。
宗純さんも似たようなことを書いていましたが、この部分に関して宗純さんと私はわりと同じかもしれません。
ただ、ゼロというのは純粋な観念に過ぎず、実体としては存在が確認されていないものでしょうから、その意味では「ゼロにはならない」のかもしれません。
ショウペンハウエルは著書『自殺について』で、「死んだら生まれる前の存在になる」と説いていました。これは一種の頓知ですよね。でもなかなかエスプリがあって好ましい表現だと、思います。

余談ですが、個人的にゼロを感じたのはある神秘体験(内的体験)を介してです。正確にはゼロではなく「虚無」です。
もっと正確には「絶対的暗黒」。真の暗黒の中で、人間は正気ではいられません。死んでああいうところに行く/ああいうものに成るとは、考えたくないですね。

>私が持っている信仰。そしておそらく、昔の日本人が持っていたであろう素朴な自然信仰

これに対して私が疑義を何度か発しているのは、たぶん上記の内的体験が原因なのでしょう。
人は一人一人が決定的に違うという断絶感も、それに起因するものなのかもしれない。あれを「識らない」人は、幸せ(この「幸せ」は、揶揄や侮蔑のニュアンスを一切含みません)だと思います。

わはは!

「おーいぇ~♪ おーやぁ~♪」で台無しになっている面も否めないのですが。

わはは。それがあるからいいのに。(^o^)

ゼロになるのは人間の感覚で、これは光・風・音による過負荷で感覚が変容(遮断)されて

アキラさんの言っている「0」、つまり「ア」は瞑想の時の感覚に近いのだろうと想像していますが、案外、過負荷からも生じていくのかもしれませんね。

私は瞑想というのがさっぱりわからないんですよ。瞑想のようなことをしようとすると、どうしても感覚が内に向かずに外へ開いていってしまうんです。自分がなくなるほどに外の情報がどんどん入り込んでくるようになる。そして内と外の区別がつかなくなる。自分の身体の鼓動やらと外からの情報の区別がつかなくなる。もっとも、文明の喧噪の中ではそんなようにはなれませんが。

正確にはゼロではなく「虚無」です。

う~ん。ま、これは体験がないので何とも言えませんが。

余談といえば、本文中で虚無の中へ沈んでいく音楽の話を持ち出しましたけど、さらに余談を続けますと、シューベルトという人は梅毒に侵されていた定説になっています。直接の死因は腸チフスらしいですが。

晩年といっても30そこそこですが、梅毒の症状はかなり進んでいて、脳梅にまで至っていたらしい。シューベルトに異様な音楽を書かせたのは、それが原因ではなかったのか、と。そういう説がある。

あくまで私の感覚ですが、「絶対的暗黒」を感知するということがちょっと信じられない。感覚装置が働いているということは生きているということで、生きているなら必ず何かが見えるか聞えるはず。なのに、それを感じてしまうというのは、器質的なところにトラブルがあるのかもしれない。私なら、そんなふうに疑ってみます。

ま、そういう疑いが出てくるのも「信仰」ゆえにかもしれませんがね。

優しい

愚樵さん

こんばんは。

散々、書き込もうか迷ったんですが、梅酒を少し含んだら迷いがなくなったので書いてます(笑)

私もどちらかと言えば、そもそもの日本的な自然信仰の形というのは0ではなく1なのではないかな?と思っています。

戸高さんの動画を観て聴いて思ったのは、なんだか「優しいなあ」ということです。理由はよくわかりません。何となくそう感じました。

昔、インドネシアのパガンダランという小さな漁村に滞在した時、ものすごい雷雨に見舞われました。日本では体感したことのない地鳴りのような雷鳴が絶え間なく続く夜。宿から出ることもできないので、何となくベッドに横たわっていると、激しい稲妻の閃光と轟音が突き抜けたあと、辺りは完全なる闇に包まれました。停電でした。そして、きっと分厚い積乱雲で夜空が覆われていたのだと思います。月明かりも一切届かない、何もないのっぺりとした暗闇の中に、私はありました。

室温と湿度による生暖かさが、明かりがあるときよりも一層生々しかったのをよく覚えています。一寸先は闇どころか、目を見開いていて空間を凝視しても何もみえない。ただ黒いだけ。でも、自分自身を含む何かがそこに「ある」というのを一層強く感じました。何かの体内に居るような感覚すら覚えました。

愚樵さんが、瞑想のことがさっぱりわからないという感覚、私も似たような感覚を持っているなあと思って読みましたが、そうした感覚に気付いた切っ掛けが、この時の出来事なのかも知れません。

この時の事をわたしは「闇に解けた」とか、「世界と一つに交じり合った」とか、そういう月並み?な表現でしか喩えられないのですが、今まで体感したことのないような安堵感で満たされたということが、とても面白く印象に残っています。今思うと、この時に感じた安堵感のようなものも「優しい」という感じになるのかな〜と、漠然と思いました。

その後、日本でもいくらか野宿経験しましたけど中途半端に明りがあると怖くて仕方なく、インドネシアで感じたような安堵感(一体感)は未だ得られたことはありません。

その後、ヲシテ文献に出会いましたが、そこでは大宇宙を含む自然世界そのもののことを「アメノミヲヤ=ア」と呼んでいました。文献中では、そうしたあらゆるモノを生み出す「アメノミヲヤ=ア」という存在がもとから「ある」ということを大前提として世界観を展開しています。何もなかったのではなく、「アメノミヲヤ=ア」が存在していたということが大前提になっている。

それが感覚的にすごくしっくりきたんですよね。

それから「ナ」というのは、ヲシテではそれ一文字でひとつの到達点というか完成、定常状態とも言えるのかなあ…そういうものを意味しています。「ナス(成す・為す)」という言葉がありますが、これは、そうした「ナ」を「ス…安定的に受け止め顕す」ということになるのか。

「ナシ(無し)」は、「ナ」を「シ…安定的に受け止める動き」ということなのか。自然世界の中では、決して「消失」することなどない。目には見えなくとも、すべてのものは存在し循環しているのだから、ということなのか。

だとすれば、自分としてはやはり0ではなく、1のほうがしっくり来るかな。

しわさんの「優しい」の感じに一票です。 (^o^)

感覚の話をうんたらこんたらするのはイヤなんですが。

森羅万象、これはすべからく「1」だと思います。

「1」であるということは、「私」が屹立するということですよね。
そちらを感覚しているわけではないので、「ア」に代替してもらっている僕の感覚しているものは「1」ではありません。
もちろん、その屹立する「1」は後からやってきます。
そこに「断絶」感が出てくるんです。
「ア」との同調は、イコール個体としての「死」へと至る感覚ですから。

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

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